16 そのままでいいんじゃない
暗闇の中だった。
蓋を閉めて地中に埋めた壺の中のような。
街の灯りも、星の光もない夜空のような。
真っ黒な絵の具を塗り込めた平面のような。
果てのない闇の中に廻はいた。
幼児のように体を丸め、抱えた膝に顔を埋めて座り込む。
座り込むといっても地面はない。
部屋の中とも少しちがう。実際に廻がいるのは自分の部屋なのかもしれないが。
これは夢だ。廻がみている夢の中。心の世界。
『──よかったね、廻。今回はだれも処刑せずにすんだみたいで』
声が聞こえた。声変わり前の少年らしい高さを残した、涼やかな声だった。
「イザヤ」
顔を上げる。予想どおりの人物が目の前に立っていることを確認し、名前を呼ぶ。
すると相手はにこりと笑った。
柔和な笑みがよく似合う、おとなびた雰囲気の少年だった。
『どうしてそんな顔してるの? 彼女は異端者にならなかった。君が助けたんじゃないか』
もっと嬉しそうにすればいいのに、と紡ぐ唇。
真っ直ぐな瑠璃色の髪の毛。
妖しい光を放つ緋色の瞳。
廻を見つめるやさしい表情。
そのすべてが暗闇の中でもよくわかる。まるで彼の姿だけが空間から切り取られているかのようだった。
「助けられた……のかな」
『ちがうの?』
「それは……」
『廻が落ち込んでるのは、あの子のセンセーを本人の目の前で捕まえちゃったからでしょ?』
少年の疑問に答えようとした廻の声を、新たに現れた人物の明るい声がかき消した。
気づけば少年の隣に少女がいた。
肩より短い瑠璃色の髪にウサギの形をした髪飾りをつけた、緋い瞳の少女だった。
『ほんっと廻はトトに向いてないよね。そんなとこまで気にかけてたらキリがないのに』
「アマネ……」
少年より背は低いが、その顔は少年とよく似ていた。
相手を安心させるような少年の笑みとはちがい、少女が浮かべるのはお気に入りの玩具を前にした子供のような笑みだったが。
『まあアマネ、いいじゃないか。そこが廻のいいところなんだから』
少女がすっと真顔になり、にこにこと笑いながら廻の擁護に回る隣の少年に視線を向ける。
『それに──廻をそっち側にした僕らが言えることじゃない』
『……わかってるって』
面倒そうにため息を吐く少女だったが、二人のやりとりを黙って見ていた廻と目が合うと一転、ぱっと破顔し、すたすたと軽快な足取りで近づいてきた。
『大丈夫だよ。何があっても、わたしは廻の味方だからね』
暗い地面に膝をついた少女が、その両腕をうずくまる廻の首に回して言う。
『そうだね、アマネの言うとおりだ』
耳元で響いた声。
毒入りの蜂蜜のような甘さを孕んだその囁きは、いつの間にか廻の背後に移動していた少年が発したものだった。
『異端者なんかどうでもいい。その周りの人間だって。僕が嫌なのは、廻が僕ら以外のことで苦しむことだよ』
肩に置かれた少年の手がゆっくりと動き、目隠しをするように廻の顔をそっと覆った。
『忘れないで廻。僕らの心はいつだって君にある』
正面と背後。両方から抱きしめられるかたちになった廻は、少年の手のひらに隠された目を静かに伏せる。
さらりとした二人の髪に首筋をくすぐられる感覚には慣れていた。
「うん、わかってるよ。──イザヤ、アマネ」
返した自分の声がいつもより高い気がした。
いや、気のせいではない。
膝を抱える両腕が普段の自分のものより細いのも、年下であるはずの少年と少女の体躯をそれほど小さく感じないのも。すべて理由は同じだった。
廻自身が、彼らと同じ十二歳のときの姿になっているからだ。
これは廻がみている夢。過去と今が混在する心の世界。
その世界で、今日も廻はかつてなくしたふたりの温度を感じている。
**
「──校則その三、第二条。いじめ、暴行、恐喝の禁止!」
びしりと人差し指を前に突き出して声を上げる。
指された相手はびくりと大きく肩を跳ねさせ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で廻を見た。
茶髪の男子生徒だった。
その前には女子生徒が一人、男子生徒の腕と校舎の壁に挟まれるような体勢で立っている。
「は、はあ!? 何言ってんだお前、いじめって……!」
「あなたいまその人に暴力を振おうとしてましたよね!? いやだ、やめてって声を僕はたしかに聞きました!」
「なっ……! ふ、ふざけんな! ちゃんと合意の上でだよ!」
「合意!? どっちにしろだめですよ! こんなところで取っ組み合いの喧嘩なんて……!」
昼休み。自称風紀委員の廻が、学園の巡回のため中庭近くの道を歩いていたときのことだ。
ひとけのない校舎の裏手から、か細い女性の声が聞こえた。荒い吐息の混ざる切羽詰まったような声だった。
すぐさま現場に向かい、その光景を目撃した廻はあせった。
一人の男子生徒が女子生徒の腕を掴み、その身体を校舎の壁に押し付けていたのだから。
「意味わかんねえ! なんなんだよお前は!?」
「風紀委員の小津佐廻です。何があったか知りませんが、無益な争いはやめてください」
「うちに風紀委員会なんてないだろ!」
「小津佐くん。彼らは本当に喧嘩をしていたわけではないと思うわよ」
納得がいかないというように廻を睨みつけた男子生徒の動きがぴたりととまる。
彼の視線は廻の背後に注がれていた。
「阿夜さん!」
振り返ると、そこにいたのは廻のクラスメイトの少女である阿夜撫子だった。
「け、喧嘩じゃないの?」
「たぶんね。あなたの校則に当てはめるなら、彼らがしていたことは『不純異性交遊の禁止』に該当するんじゃないかしら」
「へ」
撫子の言葉に廻は息をのんだ。
驚き、たったいま自分が取り締まろうとしていた二人の生徒の顔を見る。
恥ずかしそうにうつむく女子生徒の赤い頬。わずかにはだけたローブとシャツ。
その胸元で光るネックレスの存在に気づいた瞬間、廻ははっとした。
よく見ると、男子生徒の方の首でも同じものが輝いているではないか。
「あっ……!?」
自分の顔にぼっと熱が灯るのを廻は感じた。心臓がばくばくと音を立てる。
やらかした、と思った。もしかしなくても自分は。
「お、お邪魔してしまった……!?」
ごめんなさい! と全力で頭を下げる。
すると廻の慌てように逆に冷静になったのか、謝られた二人はあたふたと首を振って気遣うような言葉を口にした。
「い、いや……俺たちも悪かったからさ。こんなところですることじゃなかったよ」
「そうね。どうしてもというなら高等部三階の空き教室を使うことをおすすめするわ。あそこなら滅多に人も来ないし元音楽室で防音設備もしっかりしてるから」
「阿夜さん!?」
真顔で言う撫子にぎょっとしたのは廻だけではなかった。
まさかの提案をされた二人は気まずそうに顔を見合わせ、じゃあ俺たちはこれで、とそそくさとその場から去ってしまった。
「あの……ありがとう阿夜さん。また僕の勘違いを正してくれて……」
遠ざかる男女の背中を呆然と見送ったあと、がくりと肩を落とした廻は、あらためて後ろにいる同級生の姿を見た。
長い黒髪の上半分を後頭部で結わえた撫子は、この学園で唯一廻の正体を知る生徒だ。
異端審問官であることを明かした廻が、撫子の教育係である八雲幹枝をある任務の重要参考人として捕えたのは二日前のことだった。
騒動の翌日。まるで何事もなかったように登校してきた撫子に廻が駆け寄ると、大人びた表情をわずかに緩めて彼女は言ったのだ。
──叔父さんとちゃんと話したの。家のことはいいからいまは学業に専念しなさいって
お母さんもそれを望んでいると言ってくれたわ、と微笑む撫子に廻は安堵した。
幹枝のことを申し訳なく思う気持ちはあれ、これで彼女はまたふつうに学校に通えるようになったのだと。
「不純異性交友は許してあげるの?」
「他人の恋愛に口を出す権利は僕にないと気づいたからね。清く正しい交際をしているなら制限するつもりはないよ」
「……あれは清い交際というのかしら」
「……うん、まあそれは……ところで阿夜さんはどうしてここに?」
「あなたをさがしていたの。眼鏡、まだ弁償できていなかったから」
いまもかけてないみたいだし、という少女の言葉に廻ははてと首をかしげた。
そして思い出す。撫子の暴走をとめた際、彼女が誤って弾き飛ばした廻の眼鏡が破損してしまったのだ。
「気にしなくていいのに」
「そういうわけにはいかないでしょう」
「いいんだ。──眼鏡がなくても風紀委員にはなれるってわかったからね」
笑いながらそう伝えると、撫子はぱちりと目を見開いた。
風が吹き、互いの黒い髪の毛がさらりと揺れた。
「見た目だけ取り繕っても意味はないって、君が教えてくれたんだよ」
編入当初の廻はたしかに眼鏡をかけていたが、実際それは必要のないものだった。
だからむしろ壊れてよかったのだと廻は思う。
「……あなたはどうして風紀委員にこだわるの?」
校舎の壁に背中をつけた撫子が、上目遣いでじっと廻を見つめて尋ねた。
「う、ごめん……」
「責めてるわけじゃない。あなたのそういうところに私が救われたのは事実だし。単純に気になっただけ」
相変わらず淡々とした口調だったが、それは彼女の本心であるようだった。
「──僕、ここに来る前は一ヶ月だけ別の学校に通ってたんだ。桜倫高校ってとこなんだけど」
以前他のクラスメイトたちに伝えた事実を撫子にも話す。
すると彼女は意外そうに目を瞬かせた。
「僕の保護者をしてくれている人が間違って入学手続きをしちゃってね。正式にオズに編入する準備が整うまではとりあえず通っておきなさいって言われて……」
偏差値は中の上。校則が異様に厳しかったらしいことを除けば、ごく普通の高校であったはずだ。
「それまではどこにいたの」
「生まれたのはイギリス。途中でアメリカに移って、トトになってからはいろんな場所を転々としてた。だから日本に来たのはわりと最近のことなんだ」
「ユダという異端者を捜しにきたのね」
「うん。だから最初は戸惑ったよ」
オズとは違い、魔法を使える者がひとりもいない一般的な教育機関。
トトである事実どころか魔法使いであることすら隠さなくてはならず、潜入捜査が始まる前に何か失敗をしてしまわないかと気が気ではなかったのだ。
そんな不安が態度に表れていたのだろう。終始ビクビクとした様子の廻が不良に目をつけられたのは、必然のことだったのかもしれない。
「入学式の日に絡まれたんだ。校舎裏に呼び出されて、これから三年間パシリにならないかって脅されて……僕と同じ新入生だったんだけど」
「……」
「驚いたよ。漫画やドラマをみて知ってはいたけど、本当にいるんだね、ああいう人」
撫子が呆れたように目を細めた。
その反応に廻は内心首をかしげる。実はそんなにいないのかもしれない。
「パシリになったところで僕はすぐいなくなっちゃうし、かといって断るのも申し訳ないし……どうしていいかわからなくて困ってた僕を助けてくれたのが風紀委員長だったんだ」
── 校則その三。いじめ、暴行、恐喝の禁止!
眼鏡をかけた三つ編みの少女だった。
ひとけのない校舎裏に颯爽と現れたその上級生は、皺のないセーラー服に身を包み、真っ直ぐな姿勢で廻を狙う不良の生徒に人差し指を突きつけた。
──あなた新入生よね!? 入学早々に校則違反とは何事ですか!
──まさか校則を知らないの? うちに入学しておきながら?
──この学校の風紀を乱す行為は、この私、風紀委員の真島文美が許しません!
有無を言わさぬ勢いとその気迫に圧倒されたのか、睨まれた不良生徒は逃げるようにして廻の前から去ってしまった。
あとで反省文を書いてもらうわよ、という少女の声を背に受けながら。
──大丈夫?
──は……はい。あの、ありがとうございました……!
──風紀委員として当然のことをしたまでよ。あなたも新入生よね? うちの校則は厳しいからしっかり覚えておくように
──校則……
──きまりを守らない者には鉄槌を。それが私たち風紀委員会が掲げる信条なの
廻が慌てて頭を下げると、自身の眼鏡をかちゃりと押さえて彼女は言った。真面目を絵に描いたような表情だった。
── きまりというのはみんなのために存在するのよ。この学校がだれにとっても過ごしやすい場所であるようにね
「──僕はずっときまりに縛られて生きてきた。オズの十戒という魔法使いのきまりに」
あのとき自分を助けてくれた少女の姿を思い浮かべて廻は言う。
かっこいい人だと思った。芯の通った揺るがぬ精神を持つ人だと。
「怖かったんだ、人を裁くのが。でも先輩に出会って僕は気づいた。ルールの本質は人を守ることにある。傷つけるためでも、壊すためでもない。きまりがあることで救われる人もいるんだって思えたんだ」
この世に法律が存在するのは、社会の秩序とそこに生きる人々を守るためだ。
けれど廻は忘れていた。否、それまでは気づくことができなかったのだ。
生まれたときから魔法の世界にいた廻にとって、身近なきまりといえばオズの十戒──魔女ドロシーが定める、世間の理から外れた魔法使いの掟だけだったのだから。
「先輩みたいな強い人になりたいと思った。きまりでだれかを縛るんじゃなくて、困っている人を救えるような真っ直ぐな人になりたいって。そうすればヒミコさんの言うように……この学園での生活がもっと楽しくなるんじゃないかって」
「小津佐くん……」
いま思えば、卑弥呼が廻の入学手続きを誤ったのもわざとだったのだろう。
魔法の世界しか知らない廻が、たとえいっときでも普通の高校生活を経験できるようにと。
「編入早々失敗しちゃったけどね。君の言うとおり、ぜんぶ僕のひとりよがりだったんだ。暴走して、空回って……ただみんなに迷惑をかけただけ」
「……」
「ほんと、情けないよね」
「いいんじゃない?」
「え?」
驚いて撫子を見る。
すると彼女は笑っていた。間近で見なければ気づかないほどの微笑だったが、その瞳に宿る色は優しかった。
「言ったでしょう、私はあなたに救われたって。だからそのままでいいんじゃない」
「……阿夜さん」
「たしかに暴走しがちなところあるし、それで人を困らせることもあるだろうけど」
「う……」
「だから、そのときは私がとめてあげる」
凛とした、それでいてやわらかな響きのある声で撫子は言う。
「いっしょに校則を考えるのは遠慮するけど。それくらいなら協力するわ」
助けてくれたお礼よ、と瞼を伏せる撫子に廻は目をみはった。
胸の中をあたたかなものが流れる。
嬉しかった。やはり彼女は優しい人だと廻は思った。
「うん……! 助かるよ」
歓喜に緩む表情を隠すことなく、感謝の意を口にしようとしたときだった。
「──おい、喧嘩だぞ……!」
慌てたような男子生徒の声が、廻の言葉をかき消した。
次いで届いた複数人の騒ぎ声。中庭の方から聞こえてくる。
廻と撫子はきょとんと顔を見合わせた。
「今度こそ本当の喧嘩みたいね」
紙に書かれた文字を読むような単調な声で撫子が言った。




