9 胸を見せてほしい
魔法に関する十の戒律──通称オズの十戒。
すべての魔法使いが守るべき十のきまりだ。
法律とは関係ない。魔法を使わない者であれば、その存在すら知らない可能性もあるだろう。
戒律の内容は、すべて“魔法を使って”してはならないことに限定されているのだから。
だが、魔法使いにとってオズの十戒は絶対だ。どのような事情があろうと、破ることはけっして許されない。
理由は単純。ドロシーがそう決めたから。
十戒に背いた者は“異端者”の烙印を押され、異端審問官によって制裁が加えられる。
異端審問官。通称トト。魔女ドロシーのしもべと言われる最強の魔法使いたち。
彼らによって与えられる制裁の内容は──“死”だ。
撫子に悪口を浴びせたあの女子生徒たちは、彼女が魅了魔法を使って現魔法省大臣の叔父を誘惑したのだと言っていた。
魅了魔法によって他者の好意を操る行いは、オズの十戒第七条。
──人を恋に落としてはいけない、に反する。
「阿夜さん……!」
校門に向かって歩いていく撫子に後ろから声をかける。
長い黒髪をさらりと揺らして立ちどまった少女に追いつき、乱れた息を整えながら、廻は相手の顔を見つめた。
「その……」
「もう私にかまわないで」
突き放すような冷たい声だった。
氷のような表情。自分にかまうな、という言葉どおりの拒絶の意志が彼女の全身から感じられる。
「あの子たちの話を聞いていたでしょう。私といるとあなたまでおかしな目で見られるわよ」
「……」
「魅了魔法で実の叔父を誑かした戒律七の違反者。色欲の魔女。みんなが私をそう呼ぶわ。だから──」
「阿夜さん」
お願いがあるんだ、と廻は言った。
「胸を見せてほしい」
撫子が目を見開く。
しん、と二人の間を流れる沈黙の時間。
あれ? と廻が首をかしげたのも束の間──撫子の表情がみるみるうちに冷たさを増し、心の底から軽蔑するような視線を向けられた。
「……はっ」
そこで廻はやっと気づいた。
自分の発言を彼女がどう受け取ったのか。その言葉選びがいかに不適切だったかということに。
「ち、ちがうんだ! 変な意味じゃなくて、その……!」
ぶんぶんと首を横に振り、廻は慌てて自分の言葉を訂正した。
「オズの十戒を破った異端者の胸には破戒者の烙印──魔力でできたアザのようなものが刻まれるんだ……!」
「!」
撫子が息をのむ。衝撃を受けたような顔をする少女をじっと見つめ、廻は続けた。
「ちょうど心臓の位置あたりかな。それが異端者の証なんだよ。だから君の胸になにもないってわかれば、みんなも──」
「どうでもいい」
廻の声に被せるようにして、吐き捨てるように撫子が言う。
「だれにどう思われようと関係ない。どうせほとんど学校には来れないし、叔父さんの口利きのおかげで仮資格を手に入れたのも事実。私はただ阿夜家の次期当主として、自分に与えられた職務をこなすだけよ」
「本当に?」
「……なにが」
「僕には、阿夜さんが本当にそう思ってるようには見えないよ」
撫子の肩がぴくりと跳ねる。
睨みつけられた廻は一瞬怯んだが、ここで引くのはちがうと思った。
彼女のことを放っておきたくない。
そう考えてここまで来たのは、廻自身の意志なのだから。
「……わかったような口利かないで」
ふいと廻から顔を背け、わずかに覇気をなくした声で撫子は言った。
「帰るわ。さよなら」
「あ……」
「教師の許可は得た。正当な理由があるわ。……これは、校則違反じゃないでしょう」
「!」
廻ははっと息をのむ。
くるりと背を向けて校門の外へと向かう撫子を、今度は呼びとめられなかった。
岩田から帰っていいと言われたのは撫子だけ。自分は帰宅の許可までもらっていない。
いま彼女を追いかけてあの校門を出れば、それは校則違反になってしまう。
──きまりというのは守るために存在するんだ
──十戒に反した異端者には罰が与えられる。それだけの話だよ
立ち尽くす廻を責めるかのように、かつて聞いたいくつかの言葉が頭をよぎる。
「……だめだな、僕は……」
撫子の背中が見えなくなった校門から目を背けるようにうつむき、力のない声で廻は呟いた。
**
心配するような使用人たちの視線を振り払い、逃げ込むようにして自分の部屋に駆け込んだ。
バタン、と閉じたドアを背もたれにして崩れ落ちるように座り込む。
薄暗い部屋でひとりきり。
自身の胸元をぎゅうと手で掴みながら、撫子は目を伏せる。
ゆっくりと指を動かし、制服の白いシャツのボタンを外した。
露わになる胸。その下着に隠れていない部分の、ちょうど心臓があるあたり。
そこに一つのアザがあった。
花弁のようにも、幾重にも重なる星のようにも見える、血のような赤黒い線で描かれた禍々しい紋様が。
『オズの十戒を破った異端者の胸には破戒者の烙印──魔力でできたアザのようなものが刻まれるんだ』
眼鏡の奥の大きな瞳をまっすぐに自分に向ける、黒髪の同級生の言葉を思い出す。
(私は……)
いくら擦っても消えることのない胸のアザに触れながら、撫子が唇を噛みしめたときだった。
「撫子さん。お帰りになったんですか」
閉ざしたドアの向こう、自室の外から甲高い女性の声がした。
撫子の教育係、八雲幹枝だ。
いわゆる家庭教師として撫子が七歳の頃から阿夜家にいる魔法使いだが、最近では魔法省から依頼される仕事のマネージメントも行ってくれている。
年齢はたしか今年で四十二だったか。長年世話になっている人物だが、撫子は少しだけ彼女のことが苦手だった。
「明日の予定のことで相談があります。今月末のドイツ出張のお伴をすることになっている山添知事が、直接あなたと会ってお話がしたいと……」
「……」
「学校には連絡を入れておきました。──箭田学園長からお叱りを受けたんですってね。安心してください。もう二度とそのような理由であなたを呼び出さないよう頼んでおきましたから」
「……っ」
どうして、と文句を言いかけて口を閉ざす。
どうせ聞いてもらえない。撫子の主張になど意味はない。
「無理して授業を受けにいく必要はありません。あなたはもう、立派なプロの魔法使いなのだから」
そう言い残して部屋の前から去っていく幹枝の足音を聞きながら、膝を抱えて撫子は目を閉じた。
ドクン、と。胸に刻まれた烙印が鈍く疼いた。




