第4話『月影に揺らぐ黒鱗 ―強制イベント「黒騎士襲来」と、すれ違いの夜―』
満月が西の空に傾き、夜明けの淡い光が、あの物騒な鉄格子の檻をぼんやりと照らし出している。
新婚夫婦の朝は、小鳥のさえずりと共にロマンティックに訪れるものだと、恋愛小説の第一章には必ず書いてある。
けれど、私たちの場合は――昨夜貸し出した“人間添い寝枕”の、厳戒態勢下の返却式から始まった。
◇◇◇
1. 夜明けの檻と、過剰演出な返却式
「……ん」
檻から静かに出てきたアルヴィン様は、腕に絡んでいた鎖をカチャリと解いた。
そして、昨夜わたくしが彼に託し、彼がギュッと抱きしめていた(と思われる)ふかふかの枕を、両手で恭しく差し出してきたのだ。
まるで、王冠を返還する敗戦国の王のような、悲壮な美しさで。
「……その、返すよ。君の香りが、あまりにも強すぎて……朝になっても、離すのが惜しかった」
長い睫毛が伏せられ、ほんのり赤い耳が朝日に透けて見える。
なんという破壊力。これは恋愛小説の挿絵なら、間違いなく読者人気投票で一位をさらう「神がかった絵画」のようなシーンだわ。
「まあ、アルヴィン様。では今夜、また新たにお貸し出しいたしましょうか? 延滞料はいただきませんわよ?」
「うん……ぜひ、お願いしたい」
ふわりと、朝の清浄な空気の中に、わたくしの纏う白檀の香りが満ちる。
鉄と血の臭いが残る檻の前で、そこだけ乙女チックなピンク色の花が舞っているような、ジャンル不詳の甘い空間。
(……この香り、本当にそんなに特別なのかしら? 自分じゃ鼻が慣れちゃって、ただの「生活臭」としか思えないんだけど)
まあ、この国宝級美形伯爵様がこんなにも執着するのだから、きっと『選ばれし者の聖なる芳香』とかいう、ご都合主義な設定があるに違いない。
◇◇◇
2. 観察日記と、意味深な寝言伏線
朝食の少し前。
アルヴィン様は執務机に向かっていたけれど、さすがに昨夜の「獣化騒動」で消耗したのか、ペンを持ったままこくり、こくりと舟を漕ぎ始めた。
やがて、机に突っ伏すようにして短い眠りへと落ちてしまった。
(推しの寝顔観察の大チャーンス! 深窓の令嬢には刺激が強すぎる「無防備なヒーロー」の図、ごちそうさまです!)
わたくしはすかさず、書斎から拝借してきた新しいメモ帳と羽ペンを構えた。
名付けて「伯爵様・生態観察記録(※門外不出)」。
すると、アルヴィン様の唇が微かに動き、寝言にしては妙に明瞭な言葉を呟いた。
「ヒト……カウクヮ……いだキ……トモニ……」
(んん? 何語かしら? 古代語? それとも悲劇の騎士を気取った自作の詩?)
わたくしが首を傾げていると、彼の手元でペンが動いた。眠っているはずなのに、羊皮紙の余白に、まるで爪で引っ掻いたような力強い文字が刻まれていく。
《君ヲ抱キ 人ト逝ク》
(キミヲイダキ ヒトトイク……?)
意味はさっぱりわからないけれど。
なんだか、すごく切なくて、物語のラストで「ああ、あの時の言葉はこれだったのか!」と読者を泣かせるタイプの伏線な気がする……。胸の奥が、きゅっと小さく鳴った。
「…………見たな?」
ハッとして顔を上げると、いつの間にか目を覚ましていたアルヴィン様が、じっとりとした紅い瞳で見上げていた。
「はい! ばっちり拝見し、脳内の秘密書庫に保存させていただきましたわ♪」
「ぐっ……!」
わたくしが満面の笑みでメモ帳を掲げてみせると、伯爵様は顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がり、そばにあった外套のフードを深く深く被ってしまった。
……か、かわいい。
大型犬が「もう知らない!」と拗ねて犬小屋に入ってしまったみたい。尊い。このギャップ萌えだけで、大きな白パン三個はいける。
◇◇◇
3. 変人史官サイラスと“説明パート”
お昼過ぎ。
王都の大学から派遣されたという史官、サイラス卿がラヴェル伯爵邸に到着した。
分厚い革装丁の写本を何冊も抱え、大きな丸眼鏡がずり落ちそうになっている。
いかにも「物語の背景設定を解説するためだけに登場しました」という風貌の学者先生だ。
「ひょえええ! こ、この屋敷の空気! なんという精霊力濃度! 素晴らしい、素晴らしいぞラヴェル伯爵! ここはまさに未開の研究の宝庫だ!」
屋敷に入るなり、床に這いつくばって匂いを嗅ぎ始めた。
……撤回するわ。解説役じゃなくて、狂気の探求者枠だった。
「サイラス卿、落ち着け。話が進まない」
アルヴィン様が呆れ顔で声をかけると、サイラス卿はようやく立ち上がり、そして――くん、と鼻を鳴らして私の目の前にズイズイと迫ってきた。
「むむっ!? なんですかな、この……脳髄を直接刺激するような、甘美で危険な芳香は!?」
サイラス卿の眼鏡が怪しく光る。彼はあろうことか、私の首筋あたりに顔を寄せようとして――
「……貴様」
チャキッ。
涼やかな金属音が響いた。
見ると、アルヴィン様が愛剣を半分ほど抜き放ち、この世の終わりみたいな冷酷な目(通称:ゴミを見る目)でサイラス卿を見下ろしている。
「その鼻、削ぎ落とされたいのか? 俺の妻から離れろ」
「ひぃっ!? し、失礼しました! 学究の徒としての探究心が暴走を……!」
サイラス卿は慌てて飛び退いた。
ナイス牽制、アルヴィン様。でも剣を抜くのが早すぎる。
気を取り直して、サイラス卿は「設定資料集」もとい古文書の解読を始めた。
《白キ香花 竜ヲ鎮ムル律動》
《香ヲ失エバ 黒キ鱗人ヲ喰ラウ》
「ふむ……つまり奥様の香りは、竜の衝動を抑え込む『特効薬』というわけですな」
さらに彼が取り出した「黒鱗」のサンプルを見て、アルヴィン様が拳を握りしめる。
わたくしはそっと、彼のその手に自分の破れた袖先を触れさせた。強張っていた指先から、ふっと力が抜ける。
やっぱり、わたくしの香りが、彼の精神を鎮める妙薬(エリクサー的な何か)になっているのは間違いないようだ。
◇◇◇
4. 強制イベント「黒騎士襲来」
その時だった。中庭の方角から、空気をビリビリと震わせるような、獣じみた咆哮が轟いた!
「グォォォォォンンン!!」
「な、なんだ今の振動は!? 測定器! 魔力測定器はないか!?」
サイラス卿が目を輝かせてカバンを漁り始めた直後、中庭の門が吹き飛び、全身黒ずくめの巨大な騎士が現れた。
鎧の継ぎ目からは、ドス黒い靄がゆらゆらと吹き出している。
「永劫の香りを寄越せェ!!」
黒騎士が突進してくる!
唐突な決闘展開。シナリオの脈絡がなさすぎるわ!
「す、素晴らしい! あれは文献にある『竜骸の鎧』の実物では!? なんという保存状態! ああ、あの靄の成分を採取させてくれぇぇぇ!」
「死にたいのかあんたは! 下がっていろ!」
メモ帳片手に特攻しようとするサイラス卿の襟首を、アルヴィン様がひっつかんで引き戻す。
そして、黒騎士の前に立ちはだかり、剣を構えた。
「エリィ、君も下がっているんだ!」
アルヴィン様の鋭い声。
わたくしは、駆け出そうとする彼の袖を、ぎゅっと掴んで呼び止めた。
足が震える。怖い。
でも、ただ守られているだけで「きゃあ!」と叫ぶだけのモブヒロインになるのは、私のプライドが許さない。
「アルヴィン様! ご無事に戻られたら――今夜、特別に『おかわり自由』の添い寝を承りますわよ?」
わたくしが精一杯の虚勢で微笑むと、彼の紅い瞳が驚いたように揺れ、そしてすぐに百万馬力の光を宿した。
「……! ああ、必ず戻る!」
短い激突。
黒騎士が振り下ろす大剣を、アルヴィン様は華麗な剣さばきで受け流す。
そして、閃光一閃。
伯爵の銀剣が、黒騎士の鎧の胸板を斜めに裂いた!
ギャァァン! という甲高い金属音と共に、裂け目から熱い黒煙が勢いよく噴き出す。
「くっ……!」
むせ返るような生臭い悪臭が中庭に充満する。アルヴィン様が顔をしかめた。
わたくしはとっさに、自分でも驚くほど冷静に、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
(この嫌な匂いを、上書き保存しなきゃ!)
そして、できるだけ遠くまで拡散させるように、ゆっくりと息を吐き出した。
ふわりと甘い香りが風に乗って戦場に漂う。
すると、あれほど猛々しかった黒騎士の動きが、ガクンと止まったのだ。
「ぬぐっ……!? 白檀の……姫……だと……!?」
黒騎士が膝をつく。
(えっ、弱体化の呪い効果あり!? アルヴィン様への強化だけじゃなく、敵への攻撃まで兼ね備えてるの!? 私の匂い、性能が高すぎない?)
予想外の戦果に驚いている隙に、アルヴィン様は追撃の一太刀を浴びせ、黒騎士を退かせたのだった。
◇◇◇
5. 盛大なすれ違い――愛欲と呼吸の解釈不一致
黒騎士が森へ消え、静けさが戻った中庭。アルヴィン様は剣を納めると、心配そうに駆け寄ってきた。
「無事か、エリィ。……まったく、あんな無茶をして」
「いえ、アルヴィン様こそ」
わたくしは胸を撫でおろし、そして黒騎士の脅威に少し青ざめている夫を励ますために、とびきりの提案を口にした。
「アルヴィン様。そんなに不安そうな顔をしないでくださいな。……先ほどの約束通り、今夜は特別にご奉仕いたしますわ」
「……え?」
「一晩中、もう『おかわり』が言えなくなるくらい、たっぷりと濃厚に吸わせて差し上げますから! あなたが満足して倒れるまで、朝まで付き合って差し上げます!」
もちろん、「深呼吸(匂い嗅ぎ)」のことである。
これぞ、我が身を呈した究極の芳香療法。
「ぶっ!!」
背後で、サイラス卿が盛大に吹き出し、持っていた羽ペンをへし折った。
「な、ななな、なんと破廉恥な! 新婚とはいえ、白昼堂々と『吸わせて』宣言とは! 嘆かわしい、最近の若者の愛欲は天井知らずですな!」
え? 何を驚いているの? 深呼吸よ? 健康法よ?
アルヴィン様を見ると、彼は一瞬できょとんとし、次の瞬間、顔が林檎のように――いいえ、熟したトマトのように真っ赤に沸騰した。
「い、いいのか!? 本当に!? 一晩中!? 俺が……果てるまで!?」
「ええ、もちろん! わたくしの肺活量が続く限り!」
「……しょ、承知した!!」
ゴオオオオオッ!
アルヴィン様の全身から、かつてないほどの凄まじい闘気(という名の邪なやる気)が立ち上った。さっきの黒騎士戦より強そうなんだけど。
「必ず守る。そして必ず……頂く!」
なんか会話の筋書きが噛み合っていない気がするけど、元気が出たならまあいいか!
◇◇◇
6. 月下の黒影
その夜。
森の奥、朽ちた石柱の傍らで、逃げ去った黒騎士は膝をついていた。手には、戦いで拾った、微かに香りの残る石の欠片。
「香花の……姫……。その魂、必ずや……我が竜神の元へ……」
黒い鎧の奥で、何者かの執念が蠢く。
一方、ラヴェル伯爵邸では、勘違いでテンションが天の頂まで達した伯爵と、何も気づいていない「人間アロマ」な妻による、別の意味で激しい夜(※お子様厳禁)が始まろうとしていた――。
サイラス卿の研究メモ
《研究対象A(伯爵):極度の興奮状態。鼻血に注意》
《研究対象B(妻):天然記念物級の鈍感。この後どうなっても私は知らん》
(第4話 了)




