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第3話 『満月は添い寝禁止!? 鉄檻で鎖を鳴らす伯爵と、探偵気取りの私』

 満月の夜は旦那様に近づくな――それはこの屋敷の暗黙のルール。

 ゴシック・ホラー小説における『死亡フラグ』の代表例である。


1. 朝 ── 熟睡ハイ vs. 寝不足の批評家


(ふわぁ……このクマ、ファンデーションで隠せるかしら……)


 翌朝。私は人生で最も濃厚なクマを目の下に飼い慣らし、優雅さをかなぐり捨てた欠伸を噛み殺しながら朝食の席についていた。


 原因はもちろん、昨夜の「添い寝(物理的接触なし)」だ。

 隣でスヤスヤと眠るアルヴィン様の寝顔は、確かに美術館の至宝レベルだった。しかし、いつ何時、その麗しい唇が掃除機のように空気を吸い込み始めるかと思うと、気が気ではなかったのだ。

 サスペンスにおいて「安心した直後に襲われる」のはお約束セオリーだからである。


「おはよう、エリィ。昨夜はよく眠れたかな?」


 対するアルヴィン様は、爽快そのもの。肌艶が良い。

 数年分の睡眠負債を一括返済したかのような、輝かしい笑顔を振りまいている。


(その笑顔だけで白パン三つはいけそうだけど、今の私には眩しすぎて網膜に毒だわ)


 私がぼんやりとパンに手を伸ばした瞬間、手元が狂い、愛しのブリオッシュがテーブルからダイブしかけた。


「おっと」


 その刹那、アルヴィン様が驚くべき反射神経で動き、落ちる寸前のパンを空中で――あろうことか素手でキャッチした。


(速い! 『疾風の騎士』という二つ名は伊達ではないのね。……でも)


 彼は何事もなかったかのように、そのパンを私の皿に戻してニッコリと笑った。


「どうぞ」


「……」


 私は皿の上のパンを見つめた。

 野性味あふれるワイルドなヒーロー演出としては百点満点だ。けれど衛生観念としては赤点である。


「……アルヴィン様。わたくし、パンは『床に落ちなかった』ものではなく、『誰にも触れられていない』ものが好みですの」


「あ……す、すまない!」


 彼が慌てて執事に新しいパンを持ってこさせる間、私は見てしまった。

 めくれた袖口の下に、古びた鎖の痕のようなものが、一瞬だけチラリと覗いたのを。


(……鎖の痕? 騎士団での訓練? いえ、あれはもっと長期間、何かを拘束していたような……)


 そこへ、老執事セバスチャンが静かに歩み寄り、重々しい声で告げた。


「旦那様。……今宵は、満月でございます」


 その言葉を聞いた瞬間、アルヴィン様の紅い瞳がスッと針のように細められた。

 私の背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。


(満月……? 狼男ものの怪奇小説なら、ここからが本番(惨劇)の合図。私の『物語の構造分析勘センサー』が、ジャンルの転換を告げているわ!)


◇◇◇


2. 日中 ── 安楽椅子探偵の不在


 嫌な予感というものは、たいてい外れない。これは三流小説でも名作でも共通のルールだ。

 私はアルヴィン様が執務室に籠もっている隙を見計らい、さっそく情報収集を開始した。


 まずは、ラヴェル家のかかりつけ侍医。白髪の、いかにも「秘密を知る老人」という風情の人物だ。


「あの、先生。アルヴィン様は、満月の日には何か特別なご体調の変化などがおありになるのでしょうか?」


「……さあ。ご当主様は、満月の日にはお一人で静かにご静養なさるのが常でございますので……特に、その……」


 侍医は視線を泳がせ、不自然に言葉を濁した。


(出たわ! ミステリー小説の第一章で、探偵役に嘘をついて読者をミスリードしようとする『忠実すぎる使用人』の演技! その沈黙、逆に雄弁すぎてネタバレ同然なんですけど!)


 次に捕まえたのは、古参のメイド頭だ。


「ねえ、メアリー。ラヴェル家では、満月の日には何か特別な決まり事でもあるのかしら?」


「奥様……それは、その……昔、先々代のご当主様も、満月の夜だけは寝室を固く封鎖して……それはもう、恐ろしい獣の唸り声が……」


 メアリーはそこで口をつぐみ、十字を切った。


(こっちはゴシック・ホラーの導入部そのまんま! 『触れてはいけない家の秘密』を匂わせて読者の不安を煽る、教科書通りの演出ね。もう少しオリジナリティのある伏線はないの?)


 私はラヴェル家の書庫へと駆け込んだ。

 本の虫たる者、答えは常に書物の中に求めるべきだ。


 埃っぽい古書の匂いの中、私は一冊のひときわ古びた年代記を見つけ出した。ラヴェル家の始祖にまつわる記録だ。

 ページをめくると、余白に震える文字で走り書きがあった。


《――竜姫は香花の姫、竜を鎮めし白き匂い。古の契約、血と共に永劫に――》


(竜姫? 白き匂い? 随分と抽象的な記述ね……。『予言の書』的なアイテムだとしたら、もう少し具体的に書いてほしいものだわ。「匂い」って……まさか、アルヴィン様のあの変態的な嗅覚と関係が?)


 この時はまだ、その「白き匂い」が比喩表現ではなく、もっと物理的かつ即物的な意味だとは知る由もなかった。


◇◇◇


3. 夕刻 ── 死亡フラグの建築士


 夕食の席。アルヴィン様は心ここにあらずといった様子で、ほとんど料理に手をつけていなかった。

 食事が終わるか終わらないかのタイミングで、彼は私に真剣な眼差しを向けた。


「エリザ、今夜は……君は自分の部屋で休むといい。お願いだ」


「え……?」


「決して、私の部屋には近づかないでくれ」


 その声は低く、切実だった。昨夜「添い寝してくれ」と駄々をこねた人物と同一とは思えない。


(出たー! 王道中の王道フラグ、「絶対に来るなよ(=来い)」というお約束の前フリ! この台詞を吐いて無事だった登場人物を、私は一人も知らないわ!)


 物語の登場人物としてなら「はいそうですか」と引くべきかもしれない。

 だが、彼の瞳の奥に見えた恐怖のような揺らぎが、私のページをめくる手を止めさせてくれなかった。

 私は読者ではない。この物語のヒロインなのだから、バッドエンドを回避する義務がある。


◇◇◇


4. 深夜 ── 檻の前の批評家


 屋敷が深い静寂に包まれ、ホールの大時計が重々しく深夜零時を告げた。

 私は音を立てないよう寝室を抜け出し、アルヴィン様の部屋へと向かった。


 ドアには鍵がかかっていなかった。不用心すぎる。密室トリックすら作れないじゃない。

 そっと中へ入ると、部屋の隅、あの衝立の向こう側から、鎖が擦れる音と、苦しげな獣の息遣いが聞こえてきた。


 衝立の向こうを覗き込み、私は息をのんだ。


 月明かりに照らし出されたそこにいたのは、鉄の檻の中、自ら太い鎖を腕に巻き付け、苦悶の表情を浮かべるアルヴィン様の姿だった。

 彼の白いシャツは汗で濡れ、胸元には内側から焼き付けられたような、赤黒い痣が浮かび上がっている。


「アルヴィン様……!」


 彼がゆっくりと顔を上げた。その紅い瞳は、理性を失いかけていた。


「……来るんじゃない。俺を見ないでくれ……!」


 絞り出すような声。


「これは、ラヴェルの一族に伝わる呪いだ。竜の返り血を浴びた始祖から続く、忌まわしい血の宿命……。満月の夜は、俺の中の竜の血が暴れ出し、理性を喰らい尽くそうとする……!」


 ガシャン、と鎖が鳴る。


 その時、雲間から満月が顔を出し、その冷たい銀の光を檻へと投げかけた。

 アルヴィン様の腕に、黒い鱗がぞわりと浮かび上がる。指先が鋭く尖り、獣の爪へと変貌していく。


(変身シーンの実況をしている場合じゃない! このままじゃ、ジャンルが『人外魔境』に変わってしまう!)


◇◇◇


5. クライマックス ── ドレスと物理法則


 足が竦む。けれど、昨夜のあの幸せそうな寝顔が脳裏をよぎる。

 そして、あの夜会で私の匂いを嗅いだ時の、あのアホみたいに幸せそうな顔も。


 私は震える足で一歩、檻へと近づいた。


「エリザベート! ダメだ、離れろ!」


 アルヴィン様の叫び声は、もはや獣の咆哮だった。


 それでも私は止まらない。檻のすぐ前まで進む。

 私の推測が正しければ、彼に必要なのは「鎮静剤」だ。そしてそれは、私の体から出ているらしい。


 私は自分のドレスの袖を掴んだ。匂いを拡散させるには、肌を露出させるのが手っ取り早い。

 エイッ、と引っ張る。


 ――ビクともしない。


(……忘れてたわ。これ、お父様が奮発した最高級シルク織り。職人の技が光る頑丈な縫製だわ!)


 物語のヒロインのように「ビリィッ!」とカッコよく引き裂くなんて、現実の物理法則が許してくれない。

 歯で噛みちぎる? まさか。そんな野蛮な真似、モンヴェール家の令嬢として(そして何より不潔だから)プライドが許さない。


 私は視線を巡らせた。

 檻の蝶番から、鋭く突き出た金属の突起を見つける。


「これね……!」


 私は躊躇なく、ドレスの袖口をその突起に押し当てた。

 ごり、と鈍い音がして布が悲鳴を上げる。

 切れ目が入ったのを確認してから、私は全体重をかけて一気に引き裂いた。


 ――ビリリリッ!!


 盛大な音と共に左袖が落ち、白い腕が露わになる。

 ふわりと、彼が焦がれてやまない香りが立ち上った。夜に咲く白い花のような甘さが、鉄と血の臭いを塗り替えていく。


 私は剥き出しになった手首を、鉄格子の隙間から彼の鼻先へと差し出した。


「アルヴィン様……! わたくしの匂いが、お好きなのでしょう……?」


「……ッ!?」


「だったら……これを! 存分に嗅ぎなさい! わたくしで、あなたを鎮められるのなら……!」


 獣の唸り声が止まった。

 血走った紅い瞳が、私の手首を凝視する。


 ――ズゥゥゥゥゥ――ッ。


 微かな、しかし確かに聞こえる、あの「ダイソン音」。

 彼が私の匂いを渇望するように吸い込んだ瞬間。


「グ……ア……ァ……」


 獣の咆哮が、安堵の吐息へと変わった。

 腕の黒い鱗が陽炎のように消え、爪も人間の指先へと戻っていく。

 ゴトリ、と鎖が床に落ちた。


「……やはり……君だったんだな……」


 アルヴィン様は、檻の中で力なく膝をついた。


「俺が、ずっと探し求めていた……《白き香りの乙女》は……」


◇◇◇


6. 第三話エピローグ ── 聖なるアロマの副作用


 私は檻の格子越しに、彼の手をそっと握り返した。


「だったら……わたくしに、全部、話してください。あなたのことも、その呪いのことも……」


 感動的な大団円ハッピーエンド。そう思った、その時。


 ――グォォォォォンンン!!


 遠く、屋敷の外の森の方角から、地響きのような咆哮が轟いた。

 今しがたアルヴィン様が出していたものより、もっと低く、もっと野蛮で、知性の欠片も感じられない獣の声だ。


 アルヴィン様が、はっと顔を上げた。その瞳に、新たな絶望の色が宿る。


「……しまった。君の香りが、風に乗って森まで届いてしまったか」


「え?」


「奴らも、その極上の匂いに惹かれて目覚めたんだ。……君を喰らうために」


(……は?)


 私の思考が停止した。

 夫を癒やす聖なるアロマのつもりが、まさかの「モンスター用マタタビ」だったってこと!?


 森の闇で、無数の赤い目が光るのが見えた(気がした)。

 私の匂いが世界を救う……前に、私自身が珍味として美味しく頂かれてしまうピンチ到来!?


 ジャンル変更のお知らせ。

 ここからは『ラブロマンス』改め、『モンスターパニック(篭城戦)』をお送りいたします。


 波乱万丈の新婚生活、どうやら今夜はまだ終わらないらしい。


(第3話 了)

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