第1話『運命の出会いは変態風味!? 匂いフェチ伯爵と、批評家気取りの私』
「エリザベーーーート!」
今日も今日とて! 我が父、モンヴェール男爵の怒号が屋敷の防音限界を突破した。
廊下の甲冑がビビリ音を立て、窓ガラスが共鳴する。ああ、私の崇高なる読書タイムが台無しだわ。
理由は明白。また一つ、縁談が爆散したからだ。
正確には、お相手の方から「あんな令嬢、願い下げだ!」と涙ながらの訴状が届いたらしい。想定通りである。物語で言えば、序章にも満たない打ち切り展開ね。
「お父様、お呼びでして?」
私は読んでいた『暴君公爵の溺愛が重すぎる』のページに、素早く栞を挟んだ。
栞は重要だ。現実という退屈な世界から、素晴らしい虚構へ帰還するための命綱なのだから。
「お呼びでして、ではない! エリザベート! お前という娘はっ!」
「あらお父様、ごきげん麗しゅうございます」
顔を真っ赤にして地団駄を踏む父を、私は流れるようなカーテシーでスルーする。
私、エリザベート・モンヴェール、十八歳。
地味な茶髪に、顔の半分を覆う瓶底眼鏡。これが私の「モブ令嬢迷彩」だ。
特技は読書(年間三百冊)、趣味は読書(積読消化)、好きなタイプは「紙で出来ている人」。三次元の男性? 誤字脱字だらけの乱丁本みたいなものでしょう?
母が扇でパン! と机を叩いた。
「エリザ! いい加減になさいませ! あなたも十八、いつまでも物語の世界に引きこもって、結婚から逃げ回るつもり!?」
私は眼鏡の位置を直しつつ、内心で首をかしげる。
逃げているのではない。クオリティ・コントロールが厳しいだけだ。
現実の男性ときたら、「君のためなら死ねる」と言った五分後に虫を怖がったり、「愛している」の言葉が薄っぺらすぎて透けて見えたりする。
それに引き換え、紙の中の彼らはどうだ。
インクの香り漂う彼らの愛は永遠で、裏切りもなく、活字として完璧にデザインされている。
「うふふ、お母様ったら。わたくしはただ、名作と呼べる殿方をお待ちしているだけですわ」
口から出任せを吐きつつ、脳内では先ほどの小説の続きを再生する。ヒーローがヒロインを監禁したあたりの伏線回収が熱いのだ。
「どの口が言うか! 今夜の王宮夜会がラストチャンスだと思え!」
父がビシッと、王命レベルの圧で指を突きつけた。
「もし今夜も相手を見つけられなかったら……お前を辺境の修道院に叩き込む! 本の持ち込みは一切禁止だ!」
「なんですって!?」
今日一番の悲鳴が私の喉から飛び出した。
読書禁止の修道院? それは死刑宣告と同義ではないか!
「行ってまいりますお父様! 必ずや獲物を捕獲してまいります!」
私の即答に、父と母はぽかんと口を開けていた。
◇◇◇
そして夜。王宮の夜会ホール。
シャンデリアの暴力的な輝き、むせ返るような香水の匂い、そして値踏みし合う視線のレーザー光線。
まさに貴族社会の縮図(地獄)である。
色とりどりのドレスと軍服が、まるで万華鏡のようにくるくる踊る。香水とワインと人いきれの入り混じった甘い匂いが、ほんのりと鼻にまとわりつき、コルセットの締め付けと相まって、胸の奥がじわりと重くなる。
そんな中、私は壁の花、いや壁のシミ、最終的には壁の模様の一部として同化していた。背中の大理石がひんやり冷たくて、ここだけちょっとした避難所だ。
「エリザベート様、今宵の貴女は夜空に輝く月よりもなお美しい……」
同化失敗。
現れたのは、ねっとり粘着系で知られるボルドー子爵だ。潤んだ瞳が爬虫類を連想させる。
(出たわね、三流恋愛小説の第一章で捨てられる『当て馬』その1。キャラ設定が陳腐すぎてあくびが出るわ)
私は能面のような笑顔を貼り付けた。
「まあ、子爵様ったら。お口がお上手ですこと」
(翻訳:その台詞、大衆小説の読みすぎではありませんこと?)
「この後、私の屋敷のバルコニーで美しい月を見ながら語り合いませんか? もちろん、二人きりで……ね?」
ぬるり、と腕を掴まれた瞬間、私の背筋に「本能的拒絶」という名の悪寒が走る。
無理。生理的に無理。このシーン、全カットでお願いしたい。
「あ、あちらに! 伝説の『全裸で踊る公爵』が!」
「なぬっ!?」
子爵が反応した一瞬の隙に、私はドレスの裾を蹴り上げてダッシュした。
淑女のマナー? 知ったことか。貞操と読書時間の危機の前では、マナーブックなど焚き付けにもなりはしない!
人混みをすり抜け、柱をジグザグに回避し、たどり着いたのは人気の少ないテラスだった。
「はぁ……はぁ……撒いた、わね……」
手すりに寄りかかり、酸素を補給する。
夜風が熱った頬を冷やし、庭園の夜香花の香りが鼻孔をくすぐる。静寂とインクの匂いが恋しい。
ふいに背後から、ゾクッとするほど低い声がした。
「お困りのようだね、レディ?」
心臓が跳ねる勢いで振り返ると、そこには……!
息をのむほど美しい男性が、月光を背に立っていた。
闇を溶かした黒髪、血のように鮮烈な紅玉の瞳。彫刻が裸足で逃げ出すほどの美貌。
私の愛読書『吸血公爵の憂鬱』第3巻の口絵イラストが、そのまま抜け出してきたかのような完成度。
(……すごい。傑作がいる。三次元に、直木賞……いえ、王室文学賞モノの傑作がいるわ)
生物としての「格」の違いに、本能が「ひれ伏せ」と命じている。
彼がカツ、カツ、と石畳を鳴らして近づいてくる。
殺される? それとも吸血される? どちらにせよ、この顔になら美味しく頂かれても本望かもしれない。これぞゴシック・ロマンの王道展開!
彼はガチガチに固まる私の目前で足を止め、優雅に身を屈めた。
その動作は洗練されており、まるで私の手を取って口付けるかのような――
ズゥゥゥゥゥ――ッ。
……はい?
今、鍛冶屋のふいごみたいな音がしませんでした?
あるいは、ブレスを吐く前の飛竜?
(え? 何? この人、私の匂い嗅いでるの……?)
彼は私の首筋に顔を埋め、あろうことか全力で深呼吸していた。
ロマンティックなキス? 違う。これは、獲物の鮮度を確認する肉食獣だ。
「……ッハァ……たまらない……」
彼は顔を上げると、禁断の果実をかじった後のような、とろけきった顔で言った。
「君の匂い……最高だ。脳髄が痺れる」
「うへっ!?」
淑女にあるまじきカエル声が出た。
待って。顔面は文学賞レベルなのに、言動が完全に「発禁処分」スレスレなんですけど!?
「ああ、なんて極上の香りなんだ。まるで、魂の奥底が歓喜に打ち震えるようだ……」
彼の視線が、私の髪から首筋、胸元へとふわりと滑っていく。
今日、侍女が選んだのは、香りの控えめな白い花の香油だったはずだ。けれど彼の言い方は、それだけじゃない何か――もっと奥の、自分でも意識したことのない部分まで嗅ぎ当てられているようで、背中に妙な汗がにじんだ。
「あ、あの……どちら様で……?」
私の全身全霊の困惑を完全スルーして、彼は恍惚とした表情で言葉を続ける。
「生まれて初めてだ。こんなにも心が、本能が掻き立てられる香りは」
そして、有無を言わさず私の手を取り、その燃えるような紅い瞳で射抜くように見つめて、こう高らかに宣言したのだ!
「決定だ。君は、今から俺のものだ」
「…………は?」
何なのこの人、マジで怖い!
手を握られたところが熱いような、冷たいような、変な感覚でじんじんして、頭の中までしびれてくる。
私が脳内パニックでフリーズしていると、そこへタイミング最悪にも、先ほどのボルドー子爵が息を切らして追いついてきた。
「エリザベート様! こんなところにおられましたか! さあ、私の腕の中へ!」
「ひぃっ!」
またしても腕を掴まれそうになった、その瞬間!
目の前の超絶美形様が、子爵の腕を音もなくパシッと掴み返した。指先だけで、まるで軽い小枝でも掴むみたいな動き。
え、何その反射神経。そして何その握力。子爵の顔がみるみるうちに歪んでるんですけど!
「彼女に気安く触れるな。汚らわしい」
地を這うような、凍てつくほど低い声。さっきまでのうっとりした声とは別人みたい!
テラスの空気が一瞬で冷え込んだ気がして、夜風が首筋に刺さる。
「な、なんなのだ貴様は! 私は栄えあるボルドー子爵であ――」
「黙れ、愚図。その名を二度と俺の前で口にするな。虫唾が走る」
美形様の紅い瞳が、恐ろしいほど冷酷に細められる。まるで獲物を仕留める直前の猛獣。
ボルドー子爵は、その尋常ならざる覇気に完全に腰が砕け、顔面蒼白どころか土気色。
「ひぃぃぃ! も、申し訳ございませんでしたぁぁぁ! お許しをぉぉぉ!」
子爵は慌てて逃げ出そうとして、自分のもつれた足に引っかかり、すってんころりんと無様に転んだ。それでも這うようにして立ち上がり、脱兎のごとく逃げていく。まさに蜘蛛の子を散らすよう。
逃げていく背中の香水の匂いが、風に流されて薄れていく。
「……ふう。鬱陶しい羽虫が消えたな」
美形様は、何事もなかったかのように涼しい顔で私に向き直る。その紅い瞳は、またしても、さっきのうっとりとした熱っぽい色に戻っていた。ころころ変わるその色に、こちらの心拍だけがついていけない。
(変わり身の早さが神業レベル!)
「さて、改めて自己紹介させてもらおう。俺はアルヴィン・ラヴェル。伯爵だ」
「は、ははは、伯爵様……でいらっしゃいましたか!?」
ラヴェル伯爵家といえば、王族の血縁にも連なる超名門! しかも現当主は若くして「竜神」の異名を取るほどの無双の剣士だと噂に聞く。舞踏会の噂話の中で、何度となく耳にした名前。
そして、鉄壁の堅物で、女性には一切興味を示さない、とも。
噂と実物が違いすぎる。誰よ、「歩く氷河」なんてあだ名をつけたのは。「歩く換気扇」の間違いじゃないの?
「それで、愛しい君の名前は?」
「え、えっと……エリザベート・モンヴェールと申します……」
「エリザベート……ふむ。エリィ、と呼んでも差し支えないかな?」
「な、ななな、馴れ馴れしいにもほどがありますわ!」
思わず素で叫んでしまった。だって! 初対面(しかも超ド級の変態発言付き)の男性に、いきなり愛称で呼ばれるなんてありえない!
アルヴィン様は、心なしか少しションボリした顔をする。さっきまで猛獣みたいだったくせに、急に子犬みたいな目になるのはずるい。
「そうか……残念だ。だが、すぐにそう呼んでもらえるよう、俺は努力を惜しまないつもりだ」
(そういう問題じゃないのよ!)
「そ、それよりもアルヴィン様! 先ほどの『俺のもの』というご発言は……いったい……?」
「ああ、言葉の通りだ。君の、その魂ごと俺を惹きつけてやまない極上の香りに、俺はもう完全にノックアウトされてしまった。だから、君を俺の妻として迎え入れたい」
「…………やっぱり筋金入りのド変態じゃないですかぁぁぁぁぁ!!」
私の魂の絶叫が、静まり返った夜のテラスに虚しく、そして高らかに響き渡った。
テラスの欄干越しに見える庭園の闇が、さっきよりもぐっと深く感じられる。月だけが、呆れたように白く光っていた。
この夜の衝撃的な出会いが、私の退屈極まりなかった本だけの日常を、根底からひっくり返す大事件の幕開けになるなんて。この時の私はまだ、知る由もなかった。
(第1話 了)




