3話 終わりのない、暗闇の中で
何度目かの誕生日の朝。
目覚めと同時に、心が軋んだ。
見慣れた天井、見慣れた天蓋、見慣れた部屋。
けれど、この違和感だけは、もはや見慣れたとは言いたくなかった。
「……また、戻ってきたんだ」
少し掠れた声で呟く。
カレンダーには、また“あの日”が記されている。
……もう、何周目なんだろう。
15?20?30?
最初の頃は数えていた。でも、途中からもう意味がないと気づいた。
時間が戻っても、心は削られたまま。
痛みだけは、薄くならずに積み重なっていく。
何度も何度も、リアムの死を目の前で見てきた。
そのたびに、私は違う方法を試した。
会場を変えてみた。
警備の配置を増やして、招待客をすべて洗った。
リアムを護衛から外し、遠征を頼んだりもした。
けれども——必ずリアムは私を庇って死んだ。
彼は、何も知らないまま。
ただ私の護衛として、当然のように剣を抜き、当然のように私を守り、当然のように命を投げ出していく。
どれだけ足掻いても、私は一度も彼を救えていない。
まるで、彼の死はもう固定されたものだと言わんばかりだ。
——それでも。
「今度こそは、絶対に……」
私はベッドの縁をぎゅっと掴んで、歯を食いしばった。
────────
今回は目が覚めてすぐ、家の書庫に向かった。
前回のループで偶然知った、小さな手がかり。
この国には、古くから伝わる“時を遡る魔術”というものがあるらしい。そしてそれを使える魔女がいる、と。
膨大な本の海から、役に立ちそうなものを探す。しかし、時間に関係する魔術はどれも荒唐無稽で信憑性のない記述ばかり。
やっぱり、迷信だったのかしら………。
「お前、こんなところでなにしてるんだよ」
いきなり声がして驚く。書庫の入り口にリアムがいた。
「朝から部屋にいないと思ったら。ルナも探してたぞ」
リアムの顔を見ると心臓がぎゅっと握り締められた心地がして、私は何も言えなかった。
「ん?お前………顔が真っ青だぞ」
リアムの顔色が一瞬で変わった。
「なにが、あったんだ?」
私の顔を覗き込むようにリアムが不安な顔で聞く。
いつもは毅然とした態度で、あまり感情も表に出ない彼だが、私に何かあった時はいつも子犬のようにおろおろする。
リアムがまだ、生きてる。
そのことを実感するだけで嬉しく、同時に彼の死が脳裏に蘇る。
——だから、会わないようにしていたのに。
「なんでもないわ。心配しないで」
私は無理やり笑顔を作って言った。
リアムは私の顔をじっと見ると、突然、私のほっぺを両手でぎゅっと引っ張った。
「きゃっ…っ。にゃにしゅるのよ」
引っ張られているからか、うまく喋れない。
「お前さ…………俺にまでそんな笑顔向けるなよ…」
初めて聞く、弱々しい声だった。
「俺の前でもそんな作ったような顔してたら、お前の気持ちはどこにいくんだよ………」
私よりもリアムの方が泣きそうだった。
その顔を見て私も泣きそうになった。
ありがとう、リアム。
でも、あなたにだけは知られるわけにはいかないの。
何度も繰り返してわかった。
あなたは知ったら、絶対に私に守らせてくれない。
私のためなら、なんのためらいもなく自分の命を投げ出すでしょう?
「………ありがとう、リアム。」
ようやく、言葉が口から出た。
それを聞くとリアムは、私のほっぺを伸ばしたり縮めたりしながら照れ隠しのように「すごい顔」と言ってニヤッと笑った。
「リアムが引っ張るからでしょ」
私は少しムッとした顔を作り、リアムに軽口を叩く。
この時間がいつまでも続けばいいと思った。
「……ところでお前、書庫でなにしてるんだ?」
「あっ……え、えっと…」
リアムにじっと見られてしどろもどろになる。
するとリアムは、私が積んでた時間に関する本を訝しむように見た。
やばい。
「き、昨日読んだ本に、時をかける魔法の話が載ってて、本当にあるのか気になって…!」
我ながらなんという言い訳だ。
ただ、完全な嘘を言うと、それこそリアムにバレそうな気がした。
時を遡る魔法の本を探してるのは本当だし。
リアムの顔を見れず、思わず下を向く。
「時をかける魔法?お前、黄昏の魔女の本でも読んだのか?」
リアムの予想外の返答に一瞬息が止まる。
「黄昏の魔女…?」
私は顔を上げながらリアムに聞いた。
「有名な話だろ。迷いの森の奥の黄昏の森に住む魔女は時を操ることができるって」
迷いの森。城下町を越えた丘の先にある場所。
ここから馬車を飛ばせば1時間くらいの位置だ。
「なんだお前、知らないのか?」
リアムの話によると、
"この世の理を逸脱した存在"
"時を捻じ曲げる呪い"
"願いと引き換えに何かを奪う代償の魔術"
と言った話が黄昏の魔女にはあるらしい。
大きな争いには黄昏の魔女が参加してるとかしてないとか。
よく騎士団の中でも噂になる、と。
(……ありえるのかもしれない。)
何度も時間が巻き戻るこの現象自体が、既に“理”から外れているのだ。
ならば、そこに“誰かの意思”が関わっている可能性も、否定できない。
私は少し考えてリアムにお礼を言うと怪訝な顔をされた。
どんな代償を払ってでも、彼を守れる道があるのなら——
私は、その森の奥へと足を踏み出すと決めた。
──────────
その森は、まるで別世界だった。
お昼だと言うのに、真夜中のような不気味さと静けさがある。
枝葉の隙間から漏れる木漏れ日さえ、何かを恐れているように震えている。
何回目かの巻き戻りの時に、使えそうなツテを調べていたおかげで、問題なくここに来れた。
少しずつ、未来は変わっているのかもしれない。
私はランプ一つを手に、迷いの森の奥──“黄昏の森”と呼ばれる場所へと歩みを進めた。
空気は重く、息をするたびに身体の奥が冷えるようだった。
それでも私は、足を止めなかった。
リアムを目の前で失うより、辛く怖いものはない。
足元の土が湿り、靴が泥に沈んでも、枝にドレスが裂かれても、構わなかった。
──────────
どのくらい時間が経ったのだろう。
何度も同じところをぐるぐる回っている気さえする。
まるで、私の運命みたいだと少し笑った。
すると突然──
何の前触れもなく、霧のような銀の光に包まれた一角にたどり着く。
「あんた、私に用でもあるの?」
突然、頭の上から声が降ってきた。
驚いて声の方に目を向けると、年齢も姿も測り知れない、不可思議な女が岩の上に腰かけていた。
長い白髪と、深い琥珀の瞳。風もないのに、彼女の髪は揺れていた。
「あなたが……魔女?」
「そうよ。“黄昏に生きる魔女”なんて、古臭い名前で呼ばれているけれど。迷って諦めるように森に仕掛けをかけているのに、あんた諦める気配がないんだもの」
同じところをぐるぐるしている気がしていたのは、気のせいではなかったのか。
私は息を整えてから、はっきりと言った。
「死ぬ運命にある人を…リアムを救いたい。時間を、運命を、どうにかして変える方法を教えてほしいの」
魔女は私の目を見透かすように見て、ふっと笑った。
優しさのない笑みだった。
「なるほどね。時間の反復を“自覚できる者”は、数えるほどしかいない。あんたは、その稀な存在ってわけだ」
「……私に“この力”を与えたのは、あなた?」
「いいえ。私は"与えて"ないわ」
「どうにかして、リアムを助けたいの。私にできることならなんでもする。お願い、力を貸してください…」
そう言って頭を深く下げた。
情けない声が出た。
藁にもすがる思いだった。
何度繰り返しても、リアムが目の前で死ぬたびに、言葉で言い表せない痛みが全身に広がる。
また、大切な人を守れなかった。
また、大切な人を傷つけてしまった。
また、大切な人に苦しい思いをさせてしまった──。
「あんたの願いはわかったわ。でも運命は簡単には変わらない」
魔女は冷たく言い放った。
「なんの代償もなしにはね」
私は下げていた頭を勢いよく起こし、魔女の方を見た。
「私にできることなら…っ、なんでもする。お願い、リアムを助けて」
魔女は瞼を細めて、少しだけ哀れむような眼をした。
「代償は、あんた自身よ」
「私…自身?」
「そうよ。あんたの大事なものを差し出せば、それに見合う未来を変えられるわ。例えば………命、とか」
魔女は試すような口調で言った。
私の……命?
どこかで、誰かの知恵や力を借りれば、誰も傷つかずに済む方法があるんじゃないかと……そんな甘い希望を抱いていたのかもしれない。
怖い。
怖いに決まっている。
でも。
私は何度も見てきた。
何十回、何百回と──リアムが私を庇って死ぬ瞬間を。
そのたびに、どうしようもなく叫びたくなって、
どうして自分じゃなかったのかと、歯を喰いしばって泣いた。
それなら、最初から私が死ねばよかった。
そう思わなかった日は、一度もなかった。
なら、もう決めていたのかもしれない。
リアムにはきっと怒られちゃうだろうな。
ごめんね。
これは私の"わがまま"だ。
「それでも、構いません」
声は震えたけど、迷いはなかった。
「それでも構いません。私が死んでも……リアムが生きてくれるなら」
私がそう言った瞬間、魔女は驚きで目を見開いた。
「あんた、本気で言ってんの?」
信じられないという表情だった。
私は首を縦に振って頷いた。
魔女は私の瞳をじっと見ると、その眼に影を落とした。
「……あんたは、想像できないくらいの絶望を何度も経験してきたのね」
魔女は私を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「よく聞きなさい、ユリア。あなたが命を差し出せば、きっと彼は助かるでしょう。けれど――あなたを救えなかった後悔とともに、彼は生きていかないといけないわ。それでもいいの?」
問いかけは鋭く、でも優しかった。
「自分勝手だ、ってわかってます。リアムに辛い思いをさせてしまうことも。それでも…それでも私は、彼に生きていて欲しいの」
私は顔を上げてまっすぐ答えた。
魔女の目が、私を見つめる。
そしてその目がわずかに細まり、肩をすくめるように小さく笑った。
「愚かね。精々、後悔するといいわ」
魔女は指先で空をなぞり、銀の光が空気を震わせる。
「……もう話すことはないはずよ。行きなさい」
光に包まれかけたそのとき、私はふと顔を上げた。
「黄昏の魔女さん、ありがとう。私と…リアムのことを気にかけてくれて」
その一言に、魔女は目を見開き、きょとんとした顔になった。
そして、ふっと小さく笑う。
「……変な子。でも、あんたが時に選ばれた理由が少しわかった気がするわ」
彼女は指を二度、軽く振った。
その瞬間、世界が白く弾け────
私は自室に戻っていた。
あと数時間もすれば、パーティが始まる。
そこで、私は死ぬ。そしてもう、生き返らない。