第1楽章 Allegro con brio
扉が、いきなり開いた。
ノックも、ためらいもなく。
まるで、最初からそうなる運命だったかのように。
風が吹き込む。窓は閉まっているのに。
音楽室の空気が、ざわりと震えた。
俺の胸も、同じように。
目の前の譜面には、ベートーヴェンの交響曲第5番。
あの「ダダダダーン」が、容赦なく俺の心を叩いてくる。
それは音じゃない。魂へのノックだった。
「……なんで俺が、こんな爆音の曲を弾かなきゃいけないんだよ」
思わず、ぼそっと呟いた。
「竜児くん、文句言ってないで、ちゃんと弾いて。テンポはAllegro con brioよ。元気よく、勢いよく!」
指揮台の上、大河がツンとした声で言い放つ。
その目は真剣そのもの。だけど、俺にはわかる。
あいつ、ちょっとだけ頬が赤い。
「えっと〜、二人とも、ケンカしないでね〜?」
実乃梨が、フルートを抱えながらにこにこ笑う。
その笑顔は、春の陽だまりみたいにあたたかい。
でも、俺の心は嵐の真っ只中だった。
この曲は、ただの練習じゃない。
何かが始まる音だった。
大河の指揮棒が振り下ろされる。
音楽が爆発する。
俺のチェロが唸り、実乃梨のフルートが舞い、大河の指揮が空気を切り裂く。
それは、まるで恋の始まり。
ぶつかり合う感情。すれ違う視線。
だけど、確かに惹かれている。
「……お前の指揮、ちょっと速すぎるんだよ」
「あなたのチェロが遅いの。私のテンポに合わせて」
「……はぁ。ツンデレかよ」
「なっ……! べ、別に竜児くんのためにテンポ決めてるわけじゃないし!」
実乃梨は、そんな俺たちを見て、くすくす笑う。
「ねえねえ、これって、ラブコメってやつじゃない?」
顔が熱くなる。
俺は、チェロの弦を強く弾いた。
大河は、指揮棒を握り直す。
実乃梨は、フルートを口元に運ぶ。
そして、音楽は加速する。
恋の嵐は、まだ始まったばかり。
その中に、ふと光が差す。
第二主題が立ち上がる。
それは、闇を消すものじゃない。
闇の中に立ち、「私はここにいる」と告げる声だった。
音楽はぶつかり、踊り、飲み込んでいく。
部屋は震え、インクのように感情が流れ出す。
そして、最後の一音が鳴り響く。
鋭く、突然、絶対的に。
俺は、静かにチェロを置いた。
音楽室の空気が、まだ震えている。
扉は開かれたまま。
その先にあるのは、逃げ場でも、終わりでもない。
次の楽章だった。