「対峙」
はじめに、この物語はフィクションであり実在の人物や団体などとは関係ありません。ご理解いただいた上でお読みください。
アパートに入っていく男の背中を見つめながら真尋は、ほぼ確信に近い感覚に襲われていた。そして、清真の口から出た言葉が、その確信を決定的なものにする。「う、嘘だろ…!? あれ、田中のおっちゃん…!」
清真の声は、恐怖と絶望に満ちていた。まさか、優しいと思っていたおっちゃんが、あの事件の犯人だったとは…
真尋はこの衝撃的な事実に動揺しながらも、冷静さを保とうとした。「清真、今から私たちは過去を変える あの犯人を止め、須藤さんを救わなければならない」彼女の声には、張り詰めた決意が宿っていた。
二人は、アパートの中へと忍び込んだ。階段をゆっくりと上り、事件現場となる部屋の前に立つ。中からは、すでに微かな物音が聞こえてくる。清真の震える足を叩く、真尋は固く唇を結び覚悟を決めた。
意を決してドアを開けると、そこには、まさに凶行に及ぼうとしている田中の姿があった。室内には、当時28歳の被害者、須藤咲紅さん。そしてその足元には、恐怖に凍り付いた5歳の長男の姿があった。被害者は怯えた声で「れんくん」と漏らし震えた体で息子を抱きしめている。そして田中のおっちゃんの顔は、清真が知る優しい表情ではなく、憎悪と狂気に歪んでいた。
「田中のおっちゃん!」清真が思わず叫んだ。彼の声は怯えと同時に、強い意志を込めていた。
田中はギョッとして振り返り、二人の姿を確認する、田中の目は明確な殺意を宿していた。その視線は、まるで獲物を狙う獣のようで、清真と真尋の全身を凍りつかせた。
「なぜ…」田中は喉を鳴らすように低い声で唸った。その声には、予測不能な闖入者に対する驚きと、そして何よりも自分を邪魔する者への純粋な怒りが含まれていた。
真尋は恐怖で息をのんだ。体がすくんで動けない。清真もまた、目の前の光景に足が震える。かつて優しかった「おっちゃん」の面影はそこにはなく、ただ凶悪な殺人鬼が立っていた。
「やめろ…やめるんだ、おっちゃん!」清真は必死に叫んだ。その声は震えながらも、どうにか田中を止めようとする必死さが伝わってきた。
田中は清真の言葉に一瞬眉をひそめたが、すぐに狂気の笑みを浮かべる。
「殺す… 」
田中は凶器として持っていたナイフをギラつかせ、真尋めがけて素早く斬りかかってきた。真尋は咄嗟に体を引いたが、腕を掠められ浅い傷を負った。血が滲むのを感じながら、真尋は呻いた。
「っ…清真、逃げて」
真尋は、このままでは清真まで危ないと感じ、撤退を促す。しかし、田中は真尋が傷を負った隙を見逃さず、窓を破って逃走を図った。窓枠にひびが入り、ガラスが砕け散る音が闇夜に響き渡った。
その瞬間、清真の脳裏に、かつておっちゃんから聞いた事件の詳細が鮮明に蘇る。あの事件は、犯人が逃走したことで未解決となったのだ。このまま逃がしてしまえば、また新たな犠牲者がでてしまうかもしれない。そして、何よりも目の前で傷を負った真尋の姿が彼の臆病な心を打ち砕いた。
「逃がさない!」清真は叫び、怯えを振り払うように一歩踏み出した。真尋の負傷した腕をちらりと見て、彼は覚悟を決めた。持ち前の足の速さを活かして、田中を追いかける。
田中の背中が闇に消えようとする瞬間、清真は無我夢中で地面を蹴った。肺が焼け付くような痛みを感じるが、そんなことはどうでもよかった。アスファルトに叩きつけられる足音が、彼の心臓の鼓動と重なる。田中もまた、必死で逃げる。その息遣いは荒く、逃げるほどに、まるで獣のように呻く声が聞こえてくる。清真の視界には、ただ田中の背中だけが映っていた。その距離は、じりじりと、しかし確実に縮まっていく。追いつめられた田中の呼吸はさらに乱れ、時折、背後を振り向くその顔には、焦燥と憎悪が入り混じっていた。
アパートから飛び出し、住宅街を駆け抜ける追跡劇。月明かりの下、アスファルトを蹴る音が響く。田中は路地裏に逃げ込もうとするが、清真は得意の瞬発力で距離を詰め、渾身のタックルで田中を取り押さえた。地面に倒れ込んだ田中は、抵抗を試みるが、清真は必死で抑え込む。
「くそっ…! なぜだ…! なぜ、邪魔をするんだあああ!」
田中は、捕まえられた腕を必死に振りほどこうと暴れ、清真の顔を何度も殴りつけた。清真の口の中に鉄の味が広がる。しかし、彼の腕は絶対に離さなかった。その瞳には、田中を捕らえるという強い意志が宿っていた。
そこに、真尋が駆けつけ、続いて警察のサイレンの音が響き渡った。その光は、闇夜を切り裂き、事件の終焉を告げていた。