「嵐の前」
はじめに、この物語はフィクションであり実在の人物や団体などとは関係ありません。ご理解いただいた上でお読みください。
強烈な光が収まった時、清真と真尋は同じ場所にいた。周囲の風景は、タイムリープする前と何ら変わらない。しかし、空気が違う。時間の流れが、まるで過去へと巻き戻されたかのように感じる。真尋は、草木の匂いがより鮮明に感じられることに気づいた。グラウンドの熱気も、肌にまとわりつく湿気も、どれもが2003年のものだと語りかけてくるようだった。
清真は、半信半疑といった表情で真尋の顔を見た。「本当に…戻ったんですか? また、あの光で?」彼の声には、驚きと、どこか期待が混じっていた。
真尋は、すでに確信を得たような表情で頷いた。「ええ、間違いなく。スマホを確認してみて。日付は2003年7月24日。事件が起こる前日よ」
清真は慌ててスマホを確認し、表示された日付を見て目を見開いた。真尋の言う通りだった。しかし、まだ完全に状況を受け入れきれないでいる。「え…じゃあ、あの時の握手が…?」
「そう。あの握手が、時間を巻き戻すトリガーのようね!」真尋の声には多少の驚きはあれど、冷静な分析が滲んでいた。「これで、私たちにはチャンスができた 犯人を捕まえるチャンスが!」
事件を未然に防ぐには、何よりも犯人を特定し逮捕させることが必要だ。しかし、当時の警察の捜査資料を見ても、犯人は特定されていない。もし事件を起こさせなければ犯人を逮捕する理由がない。
「どうするんですか? 警察に通報しても信じてもらえないですよね?」清真は不安そうに真尋に尋ねた。
真尋は慎重に言葉を選んだ。「そうね 私たちが未来から来たなんて誰も信じないでしょう 私たちにできるのは事件を食い止めることだけじゃない 犯人を特定して 警察に逮捕してもらうことよ」
二人は作戦を練り確認する。今回のタイムリープで得られる情報は一度きり。だからこそ、冷静に、かつ正確に行動しなければならない。
「被害者は須藤咲紅さん 28歳 5歳の長男は無事だったけど咲紅さんはめった刺しにされて殺されてる 死亡推定時刻は午前0時から午前3時頃 殺人現場には被害者家族の血液型とは違うО型の血痕が残されてる 犯行時刻に私たちが今いる公園で怪しい人物が目撃されている 目撃証言と現場に残されていた血液から照らし合わせると犯人は女性で間違いないわ 」真尋は、これまで頭に叩き込んできた事件の概要を改めて清真に確認した。「犯人を捕まえる為に私たちは 今日ここで犯人の顔を見て現行犯で取り押さえる それが警察を動かす為の唯一の手段よ」真尋は断言した。
清真の顔にも一気に緊張とはしる。
二人は、アパートの周辺で張り込みを開始した。事件現場となる部屋が見える死角を探し、怪しまれないように注意を払う。清真は、不審な物音や人の気配に敏感に反応し、いざという時にベストな行動を取れるよう頭の中でシミュレーションをする。真尋は通り過ぎる人々の顔や特徴を記録しもし犯人を取り逃がしてしまった時の為の準備をする。
張り込みは、単調で、それでいて神経をすり減らす作業だった。時間が経つにつれて、忍び寄る事件の影に二人の心臓は高鳴っていく。
夕暮れが夜の闇へと変わり、アパートの窓に一つ、また一つと明かりが灯っていく。湿気を帯びた生ぬるい風が、彼らの肌を撫でるたびに、清真は無意識に身を震わせた。虫の声が、闇に溶けるように響き渡り、それがかえって神経を逆撫でする。清真の脳裏には、タイムリープの際に見た惨劇の映像が、まるで幻覚のようにちらついていた。
真尋は、ペンを握りしめる手に汗が滲むのを感じていた。ジャーナリストとしての冷静さを保とうと努めるが、胸の奥で高鳴る鼓動を抑えられない。記録するべきは犯人の顔、特徴、そして時間。それが唯一の「証拠」となる。過去を変えるという途方もない使命の重さが、じわりと彼女の全身にのしかかる。真尋は、目を皿のようにしてアパートの出入り口と、周辺を行き交うわずかな人影に神経を集中させた。
そして、刻々と迫る午前0時。アパートの窓から漏れる光は、ほとんど消え、街は深い静寂に包まれていた。まるで、嵐の前の静けさのように。清真と真尋の目は、一点のアパートの入り口に釘付けになっていた。彼らの耳は、どんな微かな物音も聞き逃すまいと研ぎ澄まされていた。