絶対に喋ってはいけない学校
『私語厳禁』。それもここまで来るとやり過ぎなんじゃないだろうか?授業中に喋るなというのはまだわかる。それは確かにただの授業妨害だ。好ましい行為ではない。だが、学校の敷地に入った瞬間から、校門を通った瞬間から、どんな声も発してはいけないというのはどうだろう?これでは『おはよう』も言えないではないか――。
俺は窓の外を見つめながら、ぽつりと心の中で愚痴を零した。今は授業中。喋る権利は教師だけが持っているので、あの白髪交じりのモヤシみたいな細男は一方的にべらべらと日本の歴史について語っている。ノートを取る気はない。つまらないからだ。
「なんだ?森田。トイレか?」
隣の席の奴がすっと手を挙げる。モヤシ先生の問いに森田はウンウンと頷く。そっか。あいつは森田と言うのか。入学以来、一度も話したことがなかったから知らなかった。いや、正確に言えば、”話せないから”、だろう。
さて、なぜこんなことになっているかというと、一言で言えば国がそう定めたからなのだ。国の教育委員会が授業効率を上げるだの、乱れた学園風紀を正すだの、なんだかそれっぽい大義名分を持ち出し、あれよあれよの内に学校のルールを変えてしまった。日本の学力が落ちているのも、教員の数が減っているのも、俺たちがざわざわうるさいかららしい。ったく、原因はそれだけじゃないだろうに。いかにもお役所仕事って感じだ。
でも、実際に新ルールは決められてしまった。最初は授業中の私語の厳罰化から始まったが、一度始まれば広まっていくのがこの手の規則だ。休み時間、お昼休みの時間、放課後も私語厳禁と適用範囲が拡大していき、気がついた時には学校における一切のお喋りが禁止されてしまった。今では、学校で少しでも声を上げたら停学、下手すれば退学になる。みんな声を漏らさないように神経をとがらせている。
「おい。楠木。お前、ここの問題をやってみろ」
モヤシからご指名だ。俺は気だるげに席を立ち、わざとらしくだるそうに歩く。そして、チョークで文字を書く。まるで廃墟みたいに静まった教室に、チョークのコツコツという音が響く。
学校で喋れなくて何が困るのか?意外にも俺は苦じゃない。そもそも人と話すのがそんなに好きじゃないし、けっこう気楽だ。普通の人は息の詰まる空間だと感じるだろうが、俺はまんざらでもない。割と居心地がいいのである。
「ン。楠木。正解だ。席に戻って良いぞ」
俺はだらだらと黒板の前から退散する。そして、俺は萌木遥香の隣を通る。萌木は中学校からの同級生で、そして、俺の思い人でもある――。
萌木遥香は眼鏡をかけたどこにでもいる普通の女の子だ。別に美人というわけでもなく、何か秀でた才能があるわけでもない。飾り気のない素朴な子だ。でも、だからこそ親しみやすくて、友達として気軽に話しているうちに、俺はまんまと恋に落ちてしまったのだ。まあ、恋なんてそんなものだ。何も恋の全てが劇的な出会いから始まるわけではない。女に惚れるというのも、相手が転校生だったり、隣に引っ越してきた奴だったり、はたまた異世界からやって来た美少女だったりする必要はないわけだ。とどのつまり、萌木遥香は平凡な俺にふさわしい平凡な女である。
さて、俺はさっき、喋ったら人生が詰むこの空間がわりかし快適だと言った。だが、前言撤回させて欲しい。困っていることが一つだけある。つまり、萌木とコミュニケーションできないということだ。
学校ではお喋り厳禁だ。スマホも持ってきてはいけないことになっている。なら、下校の最中はどうか?残念ながら俺には部活があり、萌木は帰宅部だからさっさと帰ってしまう。登校する前もダメだ。俺とあいつは家の方角が全然違う。一応、あいつの住所は知っているが、まさか家の前で出待ちするわけにはいかないだろう。ドン引きされるのが目に見えている。
結局、萌木とは入学以来一度も話していない。中学時代は親しくしていたのに、もうすっかり疎遠になってしまった。メールアドレスくらい知っておくべきだった。萌木はもう俺のことなんか忘れてしまったのかもしれない。そんなの嫌だ。俺は萌木と話したい。あいつの声を聞きたい。あいつの気持ちを知りたい――。
俺は鬱屈とした思いを抱きながら、窓の外を見る。小鳥がぴゅーっと空を横切る。あいつは仲間たちと一緒にベランダの柵に着地し、楽し気にピヨピヨと会話している。スズメっていうのは気楽なもんだ。俺たちはあんな風に囀ることすら禁じられている。俺たちの自由度はスズメ以下だ。あいつからすれば、今の俺は轡をはめられて、牢屋に閉じ込められた哀れな獣に見えるだろう。
カタカタカタ――。ったく、うるせえなぁ。前の席の塚田だ。あいつは貧乏ゆすりをする癖がある。あいつの右ひざは小刻みに痙攣し、この静寂なる空間に少々イラッとする雑音を加える。これじゃあ授業に集中できない。まあ、もとより真面目に受ける気はないわけだが。
あれ?貧乏ゆすりとは違う音が微かに聞こえる。俺はモヤシ先生に気づかれないように振り返る。右斜め後ろ。田中が指でコツコツと机を叩いている。貧乏ゆすりに指遊びか。みんなストレス溜まってんだな。
「……ごほごほ」
誰かの咳。多分、廊下側の席の鈴木だな。この音無しの教室にも、耳を澄ましてみると意外と音はあるもんだ。まあ、だからなんだってわけだが。
おっと、鼻がムズムズする。俺は鼻と口を手で覆いながら『はくしょん!』とぶちかます。先生は一瞬顔をしかめたが、すぐ授業に戻る。さすがに生理現象だしお咎めなしだ。くしゃみ程度で退学になったらたまったもんじゃない。もしそうだったら、毎年春に大量の退学者が出るだろう。花粉症的な意味で。
「……」
ん?塚田が俺の方を睨んでいる。なんだよ。くしゃみぐらいで怒んなよ。って、あれ?なんかみんなからの視線が痛い。みんな俺の方を嫌そうな顔をして見ている。そんなに俺がくしゃみしたことに腹立ったのか?なんで?
放課後。俺は塚田に呼び止められる。
「おい、楠木。話に割り込んでくんなよ」
「は?なんのことだ?」
「とぼけてんじゃない。俺と田中の会話を滅茶苦茶にしやがって。話に参加したいならちゃんと順序ってものを考えてもらわないと」
「会話?お前、なに馬鹿なこと言ってんだ。私語厳禁の校則を忘れたのかよ。あそこは一切合切お喋り禁止だぜ?あの時だって誰も話してなかったじゃないか。シーンって静まり返ってたぜ?」
「は?じゃあ、お前……知らないでやってたのか」
話の筋が全く見えてこない。俺も塚田もきょとんとしている。
「つまりだな……」
塚田の説明を要約するとこうだ。この学校ではあらゆる発言が禁じられているわけだが、そんな中でどこかのクラスの賢いやつがこんなことを思いついた。つまり、声ではなく暗号で会話すればいいじゃないかということだ。指で机を叩いたり、咳払いしたり、頭を掻いたり、こういった日常の些細な動作が意味を与えられて、言語の代わりを果たした。最初は二、三人で始めた規模の小さい一種のゲームだったが、瞬く間に広まっていき、すっかり全校生徒(俺を除く)が利用する第二の言語になってしまったわけだ。
「ついでに、お前のくしゃみは『いいから俺の話を聞け』だ。ったく、急にそんなこと”言う”からびっくりしちゃったよ」
発言者である俺に言ったつもりはなく、知らないうちに言ってしまったわけだが……。まあそれはともかく、俺は塚田からこの新しい言語を習うことにした。一つの動作に意味が、つまりは一つの命題が与えられている。これは手話に近い。手だけではなく全身を使った手話だ。もちろん一つ一つ覚えるのは大変だが、これを覚えない限りは俺は永遠にクラスメイトと話すことができない。もちろん、萌木ともだ。英語なんかより一生懸命勉強した。アメリカ人なんて遠くの国の人だ。だが、俺の話したい同級生たちはすぐそばにいる。俺は俺の発言権を取得するために頑張った。そして、遂にマスターした。
「……ふわぁ」
あくびは”おはよう”だ。すると、みんなもあくびをした。よくあくびに釣られると言うが、これはそういうことではない。みんな俺の”おはよう”に返事してくれているのだ。あの萌木も軽くあくびをした。俺は嬉しかった。萌木と久しぶりに”おはよう”できたのだ。
それからというもの、俺はクラスのみんなと話しつつ、時折萌木と一対一で話すようになった。話題は天気のこととか勉強のこととか、そんなありきたりなことばかりだ。でも、確実に親しくなってはきている。このままいけば、きっと……。
さて、ある日のこと、俺は思い切って萌木に告白してみることにした。このまま何も言わないで卒業してしまったら絶対に後悔する。萌木とはかなり親しくなったはずだし、思い切ってやってしまおう。当たって砕けろだ。
俺は萌木とすれ違いざま、『好きだ』を伝えるジェスチャーを取る。ハンカチを結んでポケットに入れる……。
「……」
萌木は俺のことを凝視して、身動きしなくなる。俺は相手の答えを待ち続ける。しばしの沈黙。俺は瞬きも忘れて彼女のことをじっと見つめる。
そして、萌木は……髪を解いた。俺の身体は固まる。頭も思考停止する。なんといっても、『髪を解く』なんて俺たちの言語には無い仕草だったからだ。OKなのかNOなのかすらわからない。どういう意味なのかと問い質そうとしたが、萌木はさっとどこかへ行ってしまった……。
結局、俺は萌木の答えを知らないまま、高校三年間を過ごした。あの日以降、俺と萌木はなんだか気まずくなってしまって、ほとんど話さなくなってしまった。あいつは俺になんと言ったのだろうか。それだけが気がかりだ。
卒業式の日。俺たちはいよいよ私語厳禁の窮屈な高校生活から解放された。学校の敷地内から出た卒業生たちは”実際の”会話を楽しんでいた。初めて声を聞くクラスメイトもいることだろう。俺は萌木を探した。あいつは卒業証書が入った筒を脇に抱えて、一人で歩いていた。
「萌木!」
俺はあいつを呼び止めた。萌木はくるっと振り返った。
「楠木くん?どうしたの?」
「なあ、あの時の返事を聞かせてくれ!結局、あれはどっちだったんだ!?OKなのか!?ダメなのか!?」
「え?何が?」
「何って……!俺はあの日、お前に自分の気持ちを伝えたんだぞ!?ほら、ハンカチをこう縛って、俺のポケットに入れて……。でも、お前の返事は『自分の髪の毛を解く』だったんだ!俺、全然意味が分からなくて、それで……!」
「ごめん。楠木くんの方が意味わからないよ。なに?どういうこと?」
「どうって……。俺、ちゃんとお前に伝えたじゃないか……」
萌木はくすっと笑った。
「楠木くんったら変なの。ウチの学校は私語厳禁。一言も喋っちゃいけないっていうルールだったじゃないの」
「で、でもさ!俺たちだけの間で使ってた言葉があっただろ!?ほら、お前だって俺があくびした時、ちゃんとあくびを返してくれたじゃないか!あれは『おはよう』の意味なんだよ!」
萌木は首を傾げた。
「いや、あれは……ただ楠木くんのあくびに釣られただけだよ?」
「え?は……?」
「ふふ。あくびはただのあくびだよ?朝の挨拶なわけないじゃない」
「お、俺は塚田に教わったんだ!他にも色んな言葉があったんだよ!例えば、机を三回指で叩くは『誰か私とお話ししないか?』で、右の耳たぶを触るのは『放課後に遊びに行こう』なんだ!お前、まさか何も知らないで……!」
萌木は静かに首を横に振った。彼女の表情は冷たく、突き放すようだった。
「ごめん。もう行くね。さよなら」
なんということだ。萌木遥香は最初から俺たちのコミュニケーション空間に所属していなかったのだ。俺はあいつと会話してると思い込んでいたが、ただ偶然そういう仕草をあいつがしただけだったのだ。
俺は膝から崩れ落ちた。その衝撃で、ポケットに入れていたハンカチが、あの日結んだハンカチがポロリと落ちた。
そう言えば、ポケットに入れたものを地面に落とすは、『もう話しかけないで』だったか――。