4話
彼の一件から数日後。本来であれば休日でゆっくり時間が流れるはずだった日。
その朝一番に予想外な発表が国から出された。この国は西の大国の属国となった。
数少ない手持ちの事実から一つの可能性を思いつく。
彼が東の大国か現在東の大国に吸収されたいずれかの国に売られた事は、その馬車の向かった方角から予想がつく。そして最終的に東の大国が彼を手に入れた。
仮に、この国が西の大国の属国になることを、事前に東の大国がつかんでいた場合。
この国の経済力を少しでも削ろうと、東の大国はエミール先生を暗殺しようとする。
そのために彼を派遣した。駄目で元々、成功したら御の字。たとえ失敗しても情報が洩れる前に奴隷が一匹死ぬだけ。
そんな私の仮説をエミール先生はため息をつきながら聞いていた。
「無くは無い、と言った所かしらね。」
「幸い今日は休日で市場も開いています。何か有力な情報が手に入るかも知れません。」
早速外出準備をしようとする私をエミール先生が止める。
「駄目よ。ジョセフ、君は残りなさい。私一人で行くわ。」
「それは承れません。私はエミール先生の護衛です。エミール先生に何かあっては大変です。」
「いいジョセフ。もし君の言う通りの事情で私が狙われたとして、現状この国を支配している西の大国はどう考えると思う。
西の大国からすれば、君と彼が結託して私を狙ったようにも見える。つまり、今この状況で一番危ないのは、私ではなくジョセフ、君よ。」
「・・・あ。」
エミール先生の身の安全ばかりを考えていて、自分の置かれている状況を考えていなかった。
エミール先生の言う事が正しかった場合、確かに狙われるのは私。それは別に良い。しかしそんな私と出歩いていれば、エミール先生も巻き添えを食らうかもしれない。
「分かりました。・・・ですが、一つだけお願いがあります。やはりエミール先生お一人では危険ですので、私の代わりにルークさんを一緒に連れて行ってください。
そうしていただけなければ、何が何でも私一人で行きます。」
「真面目な上に頑固。梃子でも動かなそう。・・・いいわ、わかったわ。ルークと一緒に行ってくる。」
「すみません。無理を言ってしまい。」
「いいのよ。その代わり今日のご飯はいつも以上に美味しいやつね。」
そう言って、エミール先生は玄関を出て隣のクライン家に赴く。数分後、エミール先生とルークの二人で街に向かった。
エミール先生がいないうちに家の中の掃除と洗濯を進める。食事は美味しいものとのリクエストは有ったが、もしかしたら何かしら食材を買ってくるかもしれないので帰ってきてから考えることにする。
そうして時間をつぶしていると、慌ただしく玄関の扉が開かれた。
「おかえりなさいませ。エミール先生。」
しかし、エミール先生の表情は険しい。挨拶もそこそこに物がこちらに飛んでくる。
それは服だった。それもかなり上等の物。市民クラスで着れる中では一番良い物だとわかる。そして新品の手袋。
「すぐに着替えて。」
エミール先生はそれだけ言って棚に向かう。そこから便箋と筆記用具を取り出し、何かを書き始める。
その緊張感に飲まれて、私も無駄口を叩かずにその服に着替えた。いつもの男性用の一般市民の服とは違い、その服は女性用だった。
鏡に映るその姿は、豪商の娘といった雰囲気。私がもう少し可愛ければ似合っただろうが、それはどうしようも無い話。
手紙を書き終えたエミール先生はそれを封筒に収めながら話始めた。
「結論から言うとジョセフの予想は大正解。そして困った事に私の予想も大正解だったの。」
そう言ってこちらを向いたエミール先生は、私の姿を見て優しく微笑む。
「とてもお似合いよジョセフィン。」
真正面から言われて少し恥ずかしくなる。
「こんなところで、あなたのわがままで付けた「ジョセフ」が役立つなんてね。「ジョセフ・ノイマン」が男だと思い込んでいる以上、「ジョセフィン・ノイマン」には見向きもしないでしょ。
その服で堂々と歩いていれば、まず男の奴隷には見えないわ。
あなたにはここに逃げてほしいの。ここには私の弟が居るの、頼りになるわ。弟にこの手紙を渡せばきっと協力してくれるわ。」
住所が書かれたメモと「弟へ」と書かれた封筒。
「だ、駄目です。私はエミール先生の護衛です。それに私は自分の命なんか惜しくありません。」
駄々をこねる私に、エミール先生は困った表情をして言い放つ。
「じゃあ、これはあなたの主人としての私からの命令よ。絶対服従が奴隷の原則でしょう。」
「・・・やめてください。そんなの卑怯です。」
今にも泣きだしそうだ。
「じゃ、じゃあエミール先生も一緒に。」
咄嗟に口からこぼれた。私のただの願望。
「わたしまで一緒に逃げたらすぐに見つかってしまうわ。その程度には有名人なのよ。」
わざとらしく茶目っ気を出して答える。
「あなたと離れるのは私も辛いわ。でも、ここに居ればいずれあなたは捕まってしまう。そんなのは見たくない。
それに、ずっと離れ離れというわけでは無いわ。状況が落ち着いたら、またすぐ会えるわ。」
エミール先生はとても素敵な笑顔で言った。
「私の大切な娘、ジョセフィン。大好きよ。だから生き延びて。」
「そ、そんな、エミール、先生。私も、エミール先生の事が、」
泣き出してしまった私をエミール先生は優しく抱きしめてくれた。
エミール先生の家を出て、中心街に行きそこから長距離の乗合馬車で大都市まで出る。
これからの予定順路としては、そこから更に汽車で都市間を移動、最後にもう一度馬車に乗って、地方都市から徒歩。
途方もない距離の大移動となった。
エミール先生と離れ離れとなった事には不満があるが、それでエミール先生の周りから害を及ぼすかもしれない厄介の種が一つ減ったと思えば納得できる。
「早く会いたいなぁ。」
既に再開の時を心待ちにして、独り言が口から洩れる。
ジョセフィンが逃亡の旅に出た後の、ノイマン家。
取り残された形となったエミールはため息をついてはうなだれる。
送り出したあの子が無事に弟の所までたどり着けるか心配だが、そんな心配をしたところでもうどうすることも出来ない事もわかっている。
彼女は心の靄を取り払うために、深呼吸で気分を切り替えてからアトリエに向かいノミと木槌を手に持つ。
彼女だけが居るノイマン家にノミの音が響く。
しばらくして家の玄関が乱暴に開けられる。
「エミール・ノイマンさんはいらっしゃいますか。」
男性の声が響く。さすがの彼女もその物音に気が付き返答しながら、玄関へと向かう。
「なにか用ですか。」
その声は警戒が込められ、かなり固く低い。
玄関には異国の軍服を着た二人組。この国を実質支配している西の大国の軍隊だろう。
「女に用はない。エミール・ノイマンに話がある。」
玄関にいた二人組のうち上官と思われるほうが口を開く。
「私が彫刻家エミール・ノイマンですが。・・・疑うなら近隣住民に聞いて回ってくればいいわ。」
彼女も警戒を解かず、棘のある対応をする。
手にした書類を読んでいた部下から報告があがる。
「どうやら本当の事のようです。本名エミリー・ノイマン、女性となっております。」
上官はいら立ちを込めながら分かったと部下に伝え、続けた。
「エミリー・ノイマンさん。あなたのお持ちの奴隷を引き渡してもらいたい。」
「何のことかしら?」
「とぼけないでください。あなたが奴隷をお持ちな事はわかっています。
そしてその奴隷がテロに加担した疑いがある事が判明したため、その引き渡しの要求に来たわけです。」
「ああ、あいつの事。それならもうここには居ないわよ。
あまりにも使えない奴だったから追い出したの。今頃どこかで野垂れ死んでんじゃないかしら。」
彼女が渾身の嘘の供述をしても、彼らの目はごまかされなかった。
上官はずかずかと家の中に入り込み、彼女の胸倉をつかみ上げる。
「先生。大概にしてください。隠したってろくな目にあいませんよ。
いくら上部からの命令で利用価値のまだある先生には手を出すなと言われてますが、とっさの事故は起こるかもしれませんよ。」
脅しを込めて注意喚起をする。2・3発殴ればしゃべるだろうと上官が思っていると、玄関から一人入ってきた。
「先生から手を放せ。俺はここにいる。」
両手を上げ抵抗の意思が無い事を示しつつも、語気を荒げながらエミールと上官のそばまで近づく。
「な、何で来たの。」
「先生の護衛が今日の任務ですから。」
わざとらしく冗談で答えるルーク。真顔に戻ると上官に対して更に続ける。
「ジョセフ・ノイマンは俺だ。あんたらが用の有るのは俺だろ。もう先生には用が無いはずだ早く放せ。」
上官はエミールを放しながら、ルークの方に向き直る。
「ほう。隠れていりゃあ逃げ切れたかもしれないのに、わざわざ出てくるとは探す手間が省けた。」
「俺があんたらに捕まって処刑されるだけで、先生と先生の大切なものが守れるなら、それだけで俺はぼろもうけだ。」
「そこまでわかっていながら出てくるなんて。よっぽど主人思いの奴隷だ。」
あざ笑う上官に対して、エミールは悲愴な表情となる。
「駄目よ。あなたが命を懸ける必要なんてないのよ。」
必死なエミールにルークは笑顔で答える。
「すみません。先生。でも俺が今生きているのは先生とクラインさんのお陰です。その御恩をこのような形で返すことが出来て本望です。」
ただ一人会話に混ざらず書類に目を通していた部下が声を上げる。
「どうも引っかかるんですけど。書類上だともう少し華奢なはずなのですが。」
それに対してルークが答える。
「奴隷として生き残れば、嫌でもこういった体になる。なんなら体験してみればいい。この世の全てを呪いたくなる素晴らしい体験ができるぞ。
それに百歩譲って、俺が偽物だとしてそれがどうした。お前らは我々の頭数しか見ていないじゃないか。」
不敵に笑うルークの態度に、とうとう上官の怒りが爆発した。ルークを数回殴りつけ、銃を抜き銃口を突き付けた。
「口の利き方を弁えろ。奴隷風情が。お前もさっさと本物か偽物か判断を下せ。」
「は、はい。」
とばっちりでどやされた部下は急いで書類を確かめる。その中で一つの確証を得る。
「やはりそいつは偽物です。そいつは多分隣の家の奴隷です。書類上の記述と外見が一致します。」
言い終わらないうちに、乾いた銃声が響いた。
「偽物なら用は無い。」
上官は簡潔に言い放った。
倒れたルークにエミールが近寄り、抱きかかえる。
「駄目よルーク死なないで。あなたにはばあちゃんを笑顔で看取るっていう大切な仕事があるでしょ。」
「ああ、その約束、守れそうに、ありません。先生の方から、、ばあちゃん、に、、、」
最後は言葉に成らず、そして口すらも動かなくなった。しかし、その表情は穏やかだった。
エミールの嗚咽だけがしばらくその場を支配した。
「では、邪魔者もいなくなった事だし、先生、本物の居る場所を教えてくれませんかね。」
上官は下卑た笑みを浮かべながら、再度、本題を聞く。それに対してエミールは首を垂らしたままかすかな声で答える。
「・・・われろ。」
「先生、何とおっしゃいました?」
「呪われろ、呪われてしまえ。お前らの信じる神はお前らの行いを常に見ている。お前らのように都合の良い時だけ、思い出した時だけではなく、お前らの信じる神は常日頃からお前らを見張っている。
だから、お前らの働いた悪行を見ていた。善良な人をその醜悪な感情で殺害したのをお前らの信じる神は見た。そして未来永劫それを忘れないだろう。
お前らに安息は訪れない。お前らの信じる神に見放されたから。これからどんなに祈ろうが許しを請おうが無駄だ。お前らの罪をお前らの信じる神は未来永劫許さない。
呪われろ、呪われてしまえ。お前らに災いあれ。」
エミールの言葉を止めたのは一発の銃弾だった。撃った上官の腕は振るえている。
「うるせぇんだよ。このヒステリックばばあ。」
もう一発撃ちこまれる。
「この邪教徒が。」
怒鳴る声も少し上ずっている。上官は怯えていた。それがエミールの言っていたように神に見放されたためか、それとも別の理由か、それすらわからないほど上官は混乱していた。
「まずいですよ。生かしておくようにとの厳命なのに。」
部下からの冷静な一言に混乱した頭で必死に解決策を探る。ふと名案を思い付いたらしく、その場を探すも無かった為アトリエに移動する。
そこに火のついたランタンを見つけそれを思い切り壁に投げつける。中の油が飛び散り、瞬く間に火の勢いが激しくなる。
「尋問中に暴れて自宅に火を放ち自害した。そう書いとけ。」
「・・・奴隷の方はどうします。」
「あの奴隷の言った通りで癪だが、あの奴隷がそうだったと書いとけ。どうせこんな些末な報告書、上は真面目に読まん。」
「・・・わかりました。」
火に包まれつつあるアトリエをぐるりと見まわす上官。彼の眼にはそこに置いてある石像たちが全て自分を見ているように感じた。
それにまた恐怖と怒りを感じる。
「邪教どもが。」
そう言いながら、近くにあった棚を投げつけ台座から落とし石像を破壊する。他の像も蹴り飛ばし破壊する。
轟音と共に地面にたたきつけられた石像は砕け散り、地面には砕かれた石像の破片が散らかる。
全てを壊し終えぬうちに先に家が悲鳴を上げる。壁から屋根へと火が燃え移り、その屋根も軋みながらゆがみ始める。
「そろそろ出ましょう。屋根が崩落します。」
部下の声を聞いて、我に返り破壊活動を止める。
二人は最後にエミールとルークがちゃんと死んでいるのをちらりと確認して外に出た。
「忌々しい任務だ。・・・ほれ、次に行くぞ。」
上官に言われて部下はその後に付いて、燃えて崩れ落ちるその家を後にした。
私が汽車に乗り移動中に、とうとう東の大国と西の大国との間に大規模な戦争が始まった。その余波で乗っている汽車は進んだり止まったりを繰り返していた。
何度目かの停車。乗り合わせた人たちはまたかとため息を付く。当初の予定より丸一日は遅れている。
商魂たくましい人はいつどこでも居るらしい。近くの村から、この止まっている汽車に食べ物を売りに来る。
最低限の食糧だけ買ってゆっくり食べる。普通の人よりは少量で食事を終わらせる。
こんなところで傭兵部隊での訓練が生きるとは思わなかった。今後に備えて食料も金銭も消費は最低限に抑える。
そんな中で唯一の娯楽が新聞だった。
地元の子供だろう。止まった列車の窓の向こうから売り込んでくる。
「そこのお嬢さんも一部どうだい。その身なりだ、文字は読めるんだろ。」
「では、一部下さい。」
金銭の消費は抑えたい。しかし情勢を理解する必要もあるし、これだけ上等な服を着てあまり出し渋ると怪しまれかねない。
購入した新聞は予想通りうんざりする程、戦争関連で埋まっていた。情勢を理解しようにもこれではかえって情報が少ない。
そんな中に著名人の訃報欄がある。このまま戦争が続けばこの欄もどんどん拡大していくのだろうなと何気なく読んでいく。
その中に見つけてしまった。最初は見間違いかと思い、一文字一文字確認する。その行為はそれが事実だという確証をもたらすだけだった。
彫刻家 エミール・ノイマン 自宅火災による焼死
その日付は私が逃げ出した日。つまりあの後に何か有ったという事。いきなり火事なんてなるはずがない。確実に何かに巻き込まれた。それはつまり私が。
「あ、ああ、先生、エミール、先生、、わ、私の、私の、せいで、、」
泣いている私に気が付いた女性の乗客が、事情を察して優しく背中を撫でてくれた。
私はその人に縋り付いて号泣した。
道をとぼとぼと歩く。
あの後も私の心の中とは関係なしに、汽車は私を目的地まで運んだ。
途中何度となく、汽車を降りてエミール先生と過ごしたあの街に帰ろうと思い立った。その度にエミール先生の最後の言葉が耳の中で響く。
「私の大切な娘、ジョセフィン。大好きよ。だから生き延びて。」
私は生き延びなくては。今戻れば確実に捕まりに戻るようなもの。そんな事はエミール先生が望むはずがない。
そしてもう一つ。エミール先生の弟さんに会ってちゃんと謝らなければ。その場で怒鳴られても殴り殺されても良い。それでも、そうしなければ私はエミール先生を殺してしまった罪は償えない。
その思いだけで一歩一歩足を進める。
エミール先生の弟さん、ハンス・ノイマンさんは森の中の一軒家に住んでいるらしい。聞いた限りでは大工を職業としているため、都市部よりは森の中のほうが仕事がしやすいのだろう。
森の中の道を進んでいくと、情報通り一軒の家が有った。
近づくと一人の男性が作業をしていた。
私の近づく足音で向こうも私の存在に気が付いたらしく、作業を止めてこちらを向く。その顔にエミール先生の面影を感じた。
心臓が縮こまるのを感じる。それでも私は歩みを止めずその人の元まで行き、跪いて心からの謝罪をした。
「すみません。わ、私の、せいで、私なんかが、居たせいで、エミール先生は、、、」
言葉に詰まる私に、最初こそ事態を理解していない様子だったが、そのうち察してくれた。
「長旅で疲れただろう。家においで。」
ハンスさんはエミール先生に似た優しい笑顔で、こんな私を迎え入れてくれた。
リビングに通され温かい紅茶を出してくれた。私は大切に運んできたエミール先生からハンスさんへの手紙を渡して事の顛末を話した。
ハンスさんは終始無言で私の話を聞いてくれた。
「・・・ですから、エミール先生が亡くなった原因は私にあります。」
許しを請うつもりはない。むしろ罰せられるべきだと思っている。私はそれだけの事をしてしまった。
それに対して、ハンスさんは笑顔のまま答えてくれた。
「色々話してくれてありがとう。姉の生前の様子が聞けて嬉しいよ。この距離だからね、なかなか会いにも行けなかったから。」
「・・・私の事を恨まないのですか。」
「恨むとすればこんな馬鹿げた争いを続けている国だろう。君に姉が亡くなった一因があるとすれば、僕にだって一因があるだろう。
姉をここにさっさと呼び寄せていれば、こんなことには成らなかった訳だしね。」
「それは、」
「僕のところに来なかったのは姉の自由。そして君を見つけ、君と一緒に暮らす事を選んだのも姉の自由。
そうすると君にも僕にも、そして姉にもその原因が有ったという事になる。そんな中で僕だけが君を恨むなんて出来ないな。
それだったら君は僕の事を恨まなくてはならないし、姉の事も恨まなければならない。」
「そんなことは、できません。」
「うん。だからこの話は終わりだ。さて、君はこれからの予定はあるのかい?」
「いえ全く。私はハンスさんに恨まれて怒鳴られて殺されるつもりでここに来たので、この後の事は全然考えていませんでした。」
「それはまた剣呑な話だ。」
苦笑いをしながらハンスさんは提案してくれた。
「だったらここに住めば良い。男の一人暮らしだからその惨状は目に余るとは思うけど。
それにこのまま君を追い返したら、それこそ姉の恨みを買いかねない。」
笑うハンスさんの手元にはエミール先生からの手紙。内容は知らないがよほど懇願されたのだろう。
「私なんかがここに居てもいいのでしょうか。」
「君だからここに居てほしいと思ってる。」
当惑する私に食い下がる。そこまで言われてそれを否定するだけの材料は持ち合わせていない。
「・・・では、よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしく。あ、そういえばすっかり名前を聞くのを忘れていた。」
「エミール先生に付けていただきました。ジョセフィン・ノイマンです。」
「君にぴったりの素晴らしい名前だ。これからよろしくジョセフィンさん。」
長かった戦争がやっと終わった。世界が崩壊から再生に転換したように、私自身も変化が有った。
私はハンスさんと結婚した。「君を守るには結婚するのが一番だ。」という建前と一緒にプロポーズを受けてそれを受け取った。
結婚するにおいての役所への書類の提出で、私の側に数多くの不備が有ったはずだが、戦時中のごたごたで簡単に受理された。
そうして書類上、奴隷で逃亡者のジョセフ・ノイマンは姿を消して、ハンス・ノイマンの妻としてのジョセフィン・ノイマンが登録された。
戦争が終わったことで大工としての仕事は一気に増えた。私もできる範囲で手伝った。かつてエミール先生の下で多少身に着けたノミの扱い方などは、仕事の一助となったと自負している。
そうしていると国からあるお達しが出された。
戦火の激しかった所に移住して家を建てるという仕事。街が破壊され住む家を失った住民は数多く居るという。そういった人達の為に家を建てられる職人を近隣各国から集めているという。
私たちはその仕事を受けた。希望地としてかつてエミール先生と過ごした街を提案したらそのまま採用された。
そこも両軍のぶつかる最前線と成った為、戦火が激しかったらしい。
私たちは家財道具と仕事道具を馬車に積んで、遠くのその街を目指した。
中心街に着いたとき、そこはかつての見る影も無かった。
廃墟が立ち並び、かつては一番の高さを誇った教会も瓦礫と化していた。
すっかり印象が変わってしまった街を抜けて、かつてエミール先生の家が有った方に進んでいると、家を失った人たちの避難所を見つけた。
そこで思いがけない再会を果たせた。
「ああ、無事で良かったよ。」
「クラインさんこそご無事でなによりです。」
「すっかり素敵な女性に成って、綺麗よジョセフィン。」
「ありがとうございます。クラインさんがご無事と言うことはルークさんも。」
「ルークはね、」
私はクラインさんからあの日あの時起こった事の一部始終を聞いた。聞いているうちに涙があふれた。
「じゃあ、エミール先生だけで無く、ルークさんまで、私のせいで、」
「そうやって自分を責めるもんじゃないわよ。先生にしろルークにしろあなたを生かしたいと思って行動した。結果、こうやってあなたは生き延びた。それだけで素晴らしい事じゃない。」
「・・・はい。」
「それにねあの子は自分がどうなるか分からないのに、笑顔で出て行ったのよ。やっと先生に恩返しができるって。」
「・・・ルークさん。」
「その様子だと、まだ先生の家には行って無いみたいね。行ってごらんなさい。先生もルークも裏庭に眠っているわ。」
聞くところによるとエミール先生の家の裏庭にはエミール先生やルークさんだけでなく、今回の戦争で命を落とした人たちの中で、生前にエミール先生と懇意な間柄だった人や、教会から爪弾きにされた人たちの遺族が埋葬したため、ちょっとした墓地のようになっているらしい。
それらが裏庭の奥半分を占めて、残りの手前半分と元エミール先生の家があった部分は人々の集いの場所になっているらしい。
遺族たちが集うだけかというと、そういう訳でもないらしく、その理由は行ってみれば分かるとの事。
言われたとおりにかつてエミール先生の家が有った場所へ向かう。
近づいてみると詳細が分かってくる。焼け落ちた家の残骸やその火事の影響で破損した石像の破片は、綺麗に片付けられている。
その代わりに、唯一焼け残った石像が中央に据えられている。
更に近づいてその石像を見て、私は膝から崩れ落ちた。
その石像はエミール先生の最高傑作と言って過言では無い出来だった。
私自身、エミール先生の作品を全て見てきた訳ではない。それでもこれまでのエミール先生の作品以上に心に響くものが有った、まさに魂が籠った作品だった。
更に偶然が奇跡を起こす。
跪いた下半身の弾痕と焦げ跡は、その衣装が数多くの災難によりぼろぼろになったように。
その背中には、元は羽が生えていたであろうが痛々しい傷跡だけが根元に残されている。
組まれた手は他より火災の影響が多かったのだろう、まるで黒い手袋をしているかのように。
そしてその天を仰ぐ瞳からは、煤と雨で黒い涙を流しているようだった。
「そんな・・・。」
その痛ましい姿のまま天に祈りをささげる石造の顔は、鏡越しに何度と見た私の顔だった。
「エミール先生・・・。」
かつて冗談交じりでエミール先生と交わした会話を不意に思い出す。
「いっその事、そういったエミール先生が実際に見てきた人たちを聖人にしてしまうとか。」
「そこまでいったら、もう既存の宗教では無いわね。」
涙が溢れて止まらない。
「エミール、先生・・・。」
泣き崩れた私をハンスさんが、優しく抱きしめてくれた。