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1話

とある美術館に石像が一点飾られている。

そこには説明文が添えられている。

「祈りを捧げる聖女像

エミール・ノイマンの遺作にして最高傑作と名高い作品。

戦前に制作されたが激しい戦火により破損の危機があった所を、彼の存在を街の誇りとしていた市民達の手により現存するに至る。

宗教的な要素はちりばめられているが明確なモチーフがいないとされており、その為厳密には宗教作品ではない。

モデルとしては諸説あるが彼の周りにいた市井の人々だといわれている。

それまで宗教作品ばかりを作ってきた彼がその先に一歩踏み出した作品とされ、

この作品が遺作にならなければどのような作品が作られていたかは、未だに彼のファンの中で議論の的になっている。」




私が生まれた時には既にこの国は内戦に陥っていた。

親の顔も知らぬ戦争孤児の私は、その内戦に加担していた傭兵部隊に拾われた。

ただの捨て駒として育てられたが、結局捨て駒として散るより先に内戦が終了した。

内戦が終了すると国からすれば傭兵部隊は無用の長物。

育ての親である部隊の長は、こじつけられた濡れ衣を被せられ国民への見せしめとして断首された。

他の上層部も同様な末路をとり、残された駒である私たちは牢獄に押し込められた。

「お前たちの死刑執行が決まった。」

その看守の言葉とともに牢獄からは出されたが、その先には絶望しか感じなかった。

促されるままに歩いていくと、そこは予想外の場所だった。と言っても若干の希望が見え隠れするだけでそれほど状況は変わらない。

「お前らは行政上死罪となった。今からお前らはただの物だ。よって外貨獲得の為、お前らを労働力として売り払う。」

そう言ってその場に連れてこられた全員の両手の甲に奴隷の身分を示す焼きごてが押し付けられる。

そのまま外で待機していた奴隷商人が用意した数台の馬車に分乗させられ、それぞれ別の方向へと別れていった。

私が乗る馬車は雪解けが進む遥か北方の異国へと送られた。


山間に小さな領地を持つ領主の治める国。その国の中心街の市場で馬車は停止した。

数人の商人風の人物が我々を値踏みする。この国の主産業からして買われるであろう先は多分炭鉱だろう。

そんな事を思っていると、一人の役人風の人が奴隷商人に話しかける。若干の交渉の後、両者の握手で売買成立したようだ。

「ありゃあ、大当たりか大外れか。どっちかだな。」

仲間の一人が呟く。炭鉱労働を基準とした大当たりと大外れ。奴隷の身分だから結局すべて大外れだが。

「おい、おまえ。こっちにこい。」

指名されたのは私だった。

抵抗する気力も体力も残っていないので、素直に従う。

私の身柄は商人から役人へ。

その役人は私を上から下までまじまじと見て、目や口の中もチェックされる。

「病気とかに罹ったことは?」

どうやら先ほどのは健康診断だったらしい。

「これといって。風邪なんか引いていたら、戦場で動きが鈍って討たれるのがおちですから。」

「・・・そうか。」

それだけ言って、役人は歩き出した。縄でつながれている私も付いて行かざるをえない。

中心街から外れ郊外の一軒。そこでやっと役人は足を止めた。

「ノイマン先生。お連れしました。」

「どうぞ、中に入って。」

扉の向こうから声が聞こえる。

「失礼します。」

役人は扉を開ける。その向こうには中年の女性が立っていた。

「先ほどの奴隷を連れてまいりました。」

「うん。見ればわかるわ。ご苦労様、帰っていいわよ。」

「しかし、大丈夫ですか?動けないように縄で括ってるとはいえ、何をしでかすかわかりません。落ち着くまでは見張っていましょうか?」

「いくら奴隷って言ったって、相手は人間よ。ちゃんと対応すればちゃんと答えてくれるわ。」

「しかし、先生に何か有ったら、・・・。」

「くどいわね。何なら君の上司に「君が玄関先で騒ぎ続けて、仕事が手につかない。」って報告してもいいのよ。」

ノイマン先生と呼ばれている人は、嫌みをのせて辞去を迫る。

「・・・わかりました。では、失礼いたします。」

最後はしぶしぶといった感じで役人は居なくなる。去り際に思いっきり睨まれた。絶対に悪さをするなと言う脅しだろう。

扉が閉まり、部屋には私とノイマン先生だけとなる。

「さてと、先ずは何から始めようか。」

ノイマン先生は独り言を零しながら、コップに水を汲み私に渡してくれる。

「えーと、此処の言葉は大丈夫?」

「多少でしたら。元居た国の言語に近い響きですし、こちらの国の出身の同僚に若干教わりました。」

教わったと言っても、スラングばっかりでほとんど役に立つものでは無いが。やはり知っている言語に近いのが幸いした。

「そう、ではとりあえずこのまま続けましょう。君は、・・・。ああそうだった、君の名前を聞くのをすっかり忘れていたわ。」

「奴隷である私に名前は必要ありません。」

奴隷たるもの、そのやるべき事を全うする一つの歯車に過ぎない。そんな物にいちいち名前を付けていたら大変だ。そんな考えが浮かんだのも傭兵部隊時代の名残。

「うーん。私は困るんだけどな。・・・たしか前は傭兵部隊にいたのでしょう。」

「その通りです。」

「ではその時はなんと呼ばれていた?」

「ボスが拾って育てた順にアルファベットを付けていったらしく、私は二巡目のA。もしくは単純に27番です。後はごく稀にカムフラージュの為にAからアントンと。」

正確には私がAと名付けられた時には、既に1巡目のAは戦死しており呼ばれる時に「二巡目」は付かなかったが。

「何と言うか、まあ、合理的な名前の付け方ね。うーん、よし私の直感が決めた。今日から君の名前はAでも27でも無く、ジョセフね。」

「では、私は10人目という訳ですか?」

「だから違うって、ただの直観。あんまりごたごた言うと、ジョセフィンにするわよ。」

「!!」

「気が付いてないと思ってた?」

「・・・思っていました。今まで誰一人気が付かなかったから。」

「そりゃあ、今まで君の周りにいた奴らは、君をただの「人という物体」としか見てないからね。そこに個体差なんて有っても目が行くわけなかったのよ。

私は職業柄、人体の構造と動かし方はある程度理解しているの。遠目で見ても立ち姿から直ぐに判ったわ。」

「そう、ですか。」

「まあ傭兵にしろ奴隷にしろ、女性である事がばれてたらもっと大変な目に遭っていただろうから。それは良かったんじゃない。」

「・・・」

今までできる限り考えないようにしていた、良くない可能性の世界を想像して顔が引きつった。

「で、どっちが良い?好きなほうを選んで。」

「・・・では、ジョセフの方で。」

「まあ、そっちの方が無難ね。変えるのはもう少し落ち着いてからね。」

「いえ、変えるつもりはありません。」

「そう。まあ、どちらにしろ先の話ね。では名前も決まった事だし次ね。」

自分と私の空になったコップに水を注ぎ話を続ける。

「あなたはこの家に何しに売られてきたか聞いてる?」

「全く。」

「そう。あなたの一番の仕事は私の護衛よ。」

「護衛ですか。」

オウム返しをしながら、傭兵部隊にいた時の護衛の任務を思い出す。あれは確か物凄く気疲れした記憶がある。

「期限や敵の情報などの詳細はお伺いできますか?」

情報は多いに越したことは無い。しかし、ノイマン先生はけらけらと笑う。

「本当に真面目ね。大丈夫よ。直ぐに誰かが攻めてくるって話じゃないわ。半分はただの方便だし。」

「はあ。」

向こうとこちらの温度差にあっけにとられる。

「後で説明するけど、私の手にかかるとその辺の石が金塊に変わるのよ。この国にとっては大事な輸出品。だから国の方から護衛を付けろってうるさくてね。

隣国といつ衝突するか分からないし、そうなった時に狙われるだろうって。」

国の言い分も一理有る。輸出品を作る技術者を襲えば、その国の経済に少なからず影響は出るだろう。そうすれば侵攻はしやすくなる。

「私が欲しいのは仕事の下働きとか家事とかやってくれる、お手伝いさんが欲しかったんだけどね。」

「では私の仕事は、」

「そう。私の護衛と下働きと家事。女性の元傭兵のあなたにはぴったりじゃない。」

嬉々として話すノイマン先生。

「命を賭してその任務、お引き受けいたします。」

ボスの受け売りが口から零れる。それを見て更に笑うノイマン先生。

「じゃあ、本格的な説明は明日以降ということで、簡単に家の中を案内するわ。ここがキッチンね。」

玄関入ってすぐにキッチンとテーブルが置いてある。そして玄関と反対の壁の扉を一枚開けると。

「ここが私のアトリエ、兼リビング兼寝室ね。」

大きくとられた間取り。大型の作品も出入りできるように、向こうの壁に大きな扉が有る。

その空間に乱雑に作品が置かれている。製作途中の物や布が掛けられたものも有る。

「・・・彫刻家の先生でしたか。」

巨大な一枚岩から見目麗しい女性や雄々しい男性が掘り起こされている。

「エミール・ノイマンって言えば彫刻家としてある程度有名な部類に入ると自負していたんだけど、ちょっとショックね。」

「あ、いえ。すみません。私が不勉強なばっかりに。こういった美術に関しては全く疎くて。」

自分の非を認めて謝る。その様子を笑いながら流す。

「冗談よ。そんな過酷な半生を過ごしてきたんですもの、知らなくっても当然だわ。・・・それにどうせ、石像なんて丁度いい弾除けぐらいにしか思ってなかったんでしょ。」

「・・・そう、ですね。そう、思っていました。すみません。」

傭兵の石像に対する思いなんてその通りだった。それを見透かされ恥ずかしくなった。

「失礼ですが疑問に思ったのでお伺いするのですが、エミール氏なんですね。」

「そうよ。私が男か女かなんてここら辺に住んでいるご近所さんぐらいしか確認のしようがないわ。

だったらそんなデメリットをわざわざ披露する必要は無いでしょ。外国の依頼者は勝手にひげ面のおっさんだと思ってるんじゃないかしら。」

女性であることが分かれば交渉の段において足元を見られる可能性は大いに有る。ノイマン先生なりの処世術なのだろう。

「では、エミリー・ノイマン先生と呼べば良いんですね。」

確認を取りながら記憶に刻み込む。もしかしたら今後一生を捧げる相手になるかもしれない人だ。

それに対して、ノイマン先生は失笑する。

「久しぶりにエミリーなんて呼ばれてびっくりしちゃった。いいのよ私の事はエミール・ノイマンと呼びなさい。」

見るからに女性のノイマン先生をエミールと男性名で呼ぶ事に、若干ためらっていると、

「そんなに言うなら、あなたの事もジョセフィンって呼ぶわよ。」

「すみませんでした。エミール先生。」

「よろしい。」

エミール先生の笑顔につられて私も笑顔になる。久しぶりに笑った気がした。

そのまま話を続け、この家のルールを確認した。

気が付けば既に外は夕暮れを過ぎ夕闇が迫っている。エミール先生はアトリエのランタンを灯して、ノミと木槌を手に取る。

「さてと、じゃあ私は仕事に戻るわね。その辺で休むなり食べるなり寝るなり好きにしてて。」

その辺と指さされた辺りには、なんとなくの寝床らしい所とテーブルが置かれている。元の状態は定かでは無いがおおよそ散らかっているという印象が正しいと思う。

とりあえず指定された場所に腰を降し、テーブルの上のパンやら干し肉やらを少しいただく。その間も一定間隔でノミが石を削る音が響く。

「エミール先生は食事を取らないのですか?」

私の声は確実にエミール先生に届いているはずだが、こちらを見るそぶりすら見せない。ひたすらに石にノミをあてがい木槌を振り下ろす。

鬼気迫る表情。先ほどまで談笑していた人と同一人物とはとても思えない。

私の数少ない人生経験の中から探し出した似た表情と言えば、狙撃者の表情が一番近い。

多分と言うよりは確実に私の声は届いていない。対象と自分だけの世界に没入しているのだろう。

声を掛ける事を諦め、その一定のリズムを刻む音を聞く。


「!!」

飛び起きる。つまりは寝ていた事に驚いた。眠りに落ちた記憶が全然無い。相変わらずノミの音は一定のリズムで続いている。

辺りを確認すると、寝る前より明るい気がする。明かり取りの小さな窓の向こうには青空が広がっている。どうやら一晩ぐっすりと寝てしまっていたようだ。

私が起きた物音が聞こえたのか、エミール先生の声が飛んでくる。

「お、やっと起きたわね。」

その間も視線と体は石に向けられて、木槌を振り下ろす。

「す、すみません。気が付かないうちに。」

言い訳のしようも無い。完全に失態だ。

「あはは。良いのよ。それだけ疲れてたってことでしょう。別にここは戦場でも牢獄でも無いんだから大丈夫よ。それより起きたのなら早速お願い事いいかしら?」

「はい。何なりと。」

失態を挽回する為、意気込んで答える。

「晩御飯作って。おなか減っちゃった。」

答えるのに一瞬間が開いてしまう。

「食事はお作りしますが、時間的には朝食の時間では?」

もう一度明り取りの小窓を見る。やはり一晩明けた朝にしか思えない。

「あれ?そんな時間?今ってもう朝?」

そういいながらエミール先生自身も外を確認する。それで朝であることを確認したようだ。手元に引き寄せていたランタンの灯を消す。

「じゃあ朝御飯よろしく。」

「わかりました。ではキッチンをお借りします。」

既に返答は無く、また真剣な表情で石と向き合っている。そして一定のリズムを刻むノミの音。

あの様子では一晩中仕事をしていたのだろう。時間の間隔が無くなるぐらい集中して。

キッチンの在庫の食材を確認しながら思う。

エミール先生の普段の生活サイクルがどのようなものかは知らないが、少なくとも昨日から何も食べずに徹夜明けなのだから体力が付くような食事にしよう。

幸いなことに料理経験自体は傭兵部隊にいた時に幾度となく当番制で回ってきていた。その時に基本は覚えた。戦場ともなれば更に応用力が試される。

それらに比べればなんと簡単な任務か。手早く二人分の朝食を拵え、アトリエに運ぶ。

エミール先生を呼ぶ。今回は反応してくれた。

全身に付いた砂や埃を払いながら、テーブルの近くに腰を下ろす。一口目を口に入れると眉間にしわを寄せる。

「まずい。」

慌てて、自分の分を口にしてみる。何か調味料を入れ間違えただろうか?よく味わってみても、別に変な所は無くいつも通りの味だ。

そんな私の様子を見ていたエミール先生は眉間のしわを弄りながら、声を絞り出す。

「ジョセフ。どうやら君が取り組むべき最重要課題が発覚したようね。」

エミール先生は間に「まずい」をはさみながら残りも全て食べきる。私も食べ終わる。相変わらずまずい理由が分からない。

「今日は色々と用事が有るからね。じゃんじゃんこなしていくわよ。まず、ジョセフ、言葉はわかるみたいだけど読み書きは?」

無言で首を振る。覚えようとしたがその前に内戦が終わり、傭兵部隊は瓦解した。

「ふむ、では私の言う問答を一字一句全て記憶しなさい。」

エミール先生の口から紡がれた問答は、教会の儀式の何かのようだった。しかしそれの意味なんかを考えるのは二の次で、記憶することに全神経を集中する。

そんなに長い文章では無いため、簡単に覚えることができた。しかし、これで何をするのだろうか。

続いて、エミール先生はその辺の棚から取り出した服をこちらに投げる。

「それに着替えて。」

渡されたのは当然のように一般市民の服。

「できません。奴隷の身分で一般市民の格好をするなんてこの国でも重罪では?」

奴隷の逃亡を防ぐ目的で、ほとんどの国でその行為は重罪となるはずだ。

「じゃあ君は、高名な彫刻家のこの私に、そんなぼろ雑巾みたいなのをまとっているのと一緒に町中を歩けというのかね。」

エミール先生は冗談めかして私の服を指さす。言われて、自分の姿を見る。ぼろ雑巾、確かにその通りの身なりだ。

「しかし、」

「はいはい。つべこべ言わず着替える。それに奴隷にどんな衣装を着せようが持ち主の勝手でしょう。」

そういわれてしまうと何も言い返せない。奴隷に拒否権は無い。

着替えが終わるころには、エミール先生の支度も終わっているらしく、手には布で包まれた何かを持っている。

「では行きましょう。」

軽やかに歩き出すエミール先生の後について、家を出る。


中心街にある一番高い建物。つまりは教会の前にたどり着く。

そこまできて、エミール先生はくるりと振り向く。

「ジョセフ。君には洗礼を受けてもらうわ。」

「へ?」

「君の信仰やら考えは二の次よ。洗礼を受けて洗礼者名簿に名前を記載してもらう。それがこの国で生きていくための第一歩よ。

この国は信心深いの。だから一度この国の洗礼者名簿に名前を載せてしまえば、たとえそれが奴隷であろうと意味もなく非難することは許させない事となるわ。

逆を言えば、異教徒への弾圧はすさまじいもので何をしても許されるの。その対象が奴隷であれば言わずもがなね。」

エミール先生はそれだけ言って、教会に入っていく。

「ようこそ。ノイマン先生。」

教会の中から歓迎の声が聞こえる。

「今日はどのようなご用向きで?」

出迎えた司祭がご機嫌伺いをしながら要件を聞きに来る。エミール・ノイマンの名前はその程度には丁重に扱わなければならない相手という事だろう。

「あの子に洗礼を与えてやってほしいの。」

「・・・」

エミール先生が無茶苦茶な事を言い出すから司祭が絶句し、こちらを鋭い目つきで見つめてくる。

「例の奴隷の子でしょう。」

既にエミール先生が奴隷を買ったという話は教会に流れているようだ。耳ざとい。

「そうだけど。」

「では、教義すらまともに覚えていないのでは。」

「そんな物は私が後から教え込むわ。それとも私が教義の一つすら教えられないほどの不信心者とでも?」

「いえ。そんな事は、しかし、」

今一つ煮え切らない司祭。それはそうだろう。こんな得体のしれない奴を信仰の名のもとに一つ屋根の下に置ける、心の広い人間がどれほどいるだろう。

「これは独り言なんだけど。」

そう切り出して、持ってきた布でくるまれた何かを机の上に置く。その音から結構な重量がありそうだ。可能性としては石材だろうか。

「どうも納得のいかない失敗作を捨てようと思うの、私にとっては要らないものだからどこに置いてきても思い出せないと思うのよ。ここに捨ておきましょうかしら。」

あからさまな袖の下を送る。その価値は司祭の表情を見れば明らか。司祭は咳ばらいを一つ。

「わかりました。教会としても洗礼を受けたがる人を跳ね除ける理由がありません。こちらへどうぞ。」

先ほどまでとは打って変わり、申請は受理されたようだ。

促された先には、洗礼の儀式用の場所らしく水を張った桶が置いてある。

そこで司祭は先ほどエミール先生の家で練習した問答をする。覚えてきた一言一句を唱えて無事儀式が終了する。

肝心の名簿にはエミール先生が代筆し、その後ろに本人がサイン代わりのマークを入れて記入完了と成る。

しかし、エミール先生の代筆を横から盗み見ていた司祭から、ため息が漏れる。

「ノイマン先生。奴隷の子に苗字まで与えて、次は養子にでもするつもりですか?」

どんな苗字をもらえたかは読めないのでわからないが、エミール先生は笑顔で答える。

「それも良い手ね。」

「やめてください。流石に奴隷を養子に迎えるなんて、許可が下りません。」

「そう、残念ね。」

司祭はにがにがしい顔のままこちらに向き直す。

「では、改めてジョセフ・ノイマンをこの教会の教徒として、われらの兄弟になった事をここに認める。」

「ありがとうございます。司祭様。」

感謝を伝えるも、司祭はため息しか返さない。余程お気に召さないらしい。

要件が終わると私たちは外に出た。正確にはこれ以上何かを要求される前に教会から追い出された。

「これで一つ目の重要な用事が済んだわ。はいこれ。」

手渡されたのはネックレス。そこには大理石を細かく削り、教会のステンドグラスに描かれたのと同じ人が彫り込まれてたカメオがぶら下がっている。

「この国の守護聖人のカメオ。それを首から下げておけばこの国にいる限りは安全ね。」

自分たちと信仰によって繋がれた仲間であるという事を証明する手形の様な物。これで書類的にも外見的にも晴れて仲間入りと成った。

「どう、うれしい?」

「身の安全が図れる事は良い事ですが、その内面というか信仰心としては全くついていけてないです。私はただ儀式をしてカメオを首から下げただけですから。」

「それはそのとおりね。行動すれば信仰か、行動せずとも心に思えば信仰か、難しい問題ね。」

「とりあえずは先延ばしになった教会の教義を、エミール先生がお暇なときにでも教えていただきたいと思います。」

「真面目ねぇ。それぐらいあいつらも真面目ならもう少し頼る気にもなるんだけどね。」

そういいながらエミール先生は振り向き教会の方をちらりとみる。

「さっきの賄賂、じゃなかった、捨ててきた彫刻。あの司祭が持ち去って闇に売るにしても、教会を通して正規のルートで売るにしても、一般市民の家庭なら半年は余裕で暮らせる額にはなるはずよ。」

「そんなにですか。私の為にすみません。」

「ああ、良いのよ。納得がいっていないのは本当の事だし。でも、それだけがむしゃらに富を集めてどうするのかしらね?」

「・・・さあ。私には見当もつきません。」

「まあいいわ。次に行くわよ。」

促されて付いて歩き出す。振り返るとそこにはこの町で一番高い教会。エミール先生が言うように富を集めていけば、その高さは更に高くなるのだろうか。それこそ天界に届くほどに。

くだらないことを考えながら、エミール先生の後を追う。


市場にたどり着いたエミール先生は、顔見知りに挨拶をしながら食料を買い込む。途中、私を紹介してくれたりするので、そのたびに会釈を返す。

エミール先生が居るお陰もあり、少なくともその場で私に辛辣な視線を送ってくる人はいなかった。

私の両腕いっぱいに食材が増えた辺りで、買い物を終了し帰路につく。

数時間ぶりのエミール先生の家、と思ったがその一つ前の家に向かう。

「・・・」

不審に思いながらも、私に出来ることはただついていく事のみ。

エミール先生は丁寧にドアをノックする。中から老婆の声がする。

「はーい。ちょっと待ってね。」

ややあってから、ドアが開けられる。

「あら、だれかと思えば先生じゃない。」

「ご無沙汰してしまい。すみません。」

久しぶり訪問を詫びるエミール先生に対し、その老婆は嬉しそうに答える。

「ちゃんと生きてるみたいで安心したわ。どうせまたちゃんと食べてないんでしょ。」

「そう言われてしまうと何も言い返せません。」

あのエミール先生が完全に丸め込まれている様子を見て、それだけで付き合いの長さと仲の良さが伝わってくる。

「まあ、良いわ。・・・ルークちょっと来て先生に挨拶して。」

老婆は家の奥に声をかける。奥で物音がして玄関に二人目が現れる。働き盛りといったガタイの良い男性。その手にはなぜか手袋がしてある。

役者がそろった所で、エミール先生が老婆クラインとルークを紹介してくれ、私を二人に紹介してくれる。

「よろしく。」

クラインさんは朗らかに握手をしてくれたのに対し、ルークは無言。その上あまり良くは思っていないと感じ取れる微妙な表情をする。

その視線の先を理解して合点が行く。握手をしている私の手の甲には刻印がしっかりと刻まれている。

一方でクラインさんとエミール先生は話を進める。

「それでね、今日はばあちゃんにお願いがあって来たの。この子にばあちゃんの料理を教え込んで欲しいの。」

「そんなことならお安い御用さ。先生の大好物を全部教え込んであげる。」

「ありがとう。これで安心できるわ。」

そういうとエミール先生は私の方を向く。

「そういう訳で、私は先に帰るけど君のやるべきことは料理を覚えること。」

「わかりました。」

「今夜はまずくない料理を頼むよ。」

「・・・」

それだけ言うと私と私の腕の中の大量の食材を置いて、エミール先生は自宅に帰って行ってしまった。

クラインさんの手ほどきのもと料理を覚える。クラインさんに言わせても基本は出来ているそうだが、問題は味付けに有ったようだ。

出来上がった料理を二人分小分けにして、エミール先生の待つ家に帰る事にする。

「ありがとうございました。」

「覚えてもらわないといけない料理はまだまだたくさんあるんだから、明日も来なさい。」

「わかりました。」

会釈して帰ろうとした時に、それまで姿をくらましていたルークが現れた。

「この国が奴隷に対してある程度寛容と言っても、見たくない者や知られたくない者も居る事を忘れるな。

俺のお古だがお前にあげよう。別にそれが消せる訳じゃないが気遣いの話だ。」

使い古しでよれよれながら、十分にその役目は全うできそうな手袋が渡される。感謝を伝えながらその手袋に手を通す。なるほどその醜い刻印はすべて覆い隠されてしまった。

もう一度会釈をしてクライン家を出る。

今日一日で私を表す属性が騙して増えたり隠して減ったり、どんどん置き換わっていく。中身は何も変わっていないのに。

手袋越しに料理の温かさが伝わってくる。エミール先生の家からは既にノミの音が響いている。

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