距離
テストを跨ぎ、週明けの月曜日。カーテンの隙間から差し込んだ光で目を覚ます。
夏に差し掛かり始めた頃の太陽はそろそろ痛みすら感じそうなぐらいじりじりとした熱を持っていた。
体温と外気に熱された布団をふっとばすようにめくり、ベッドから降りて立ち上がる。
木目までくっきりと見えるウッディな勉強机、柔らかい枕に対して憎たらしいほど硬いベッド、カチカチと時間を刻み続ける黒の掛け時計、教科書だけを詰めた本棚。壁際に安全ピンで留められた表彰状。無造作に転がされているバスケットボール。七畳の部屋にしてはもう少しあってもよさそうな家具の数。
ゲームや、漫画のような俗にいう娯楽物はほとんどない。持つことを許されなかったとも言う。
高校生の部屋にしては殺風景だなと、かつては思っていたが、今となっては部屋が広く使えることを便利と感じている。せっかくスペースがあるのに置きたいものがないのは皮肉だ。
趣味と呼べるものもない。強いて言えば、部活。そしてバスケ。時折学外で娯楽物に触れることもあったが、下手に触った後の未来を想像してはそっと手放していた。
広い部屋もボールさばきの練習に使ったり、筋トレには便利。そう感じる程度のものに落ち着いてしまった。
「蓮ー! 朝ごはんよー!」
下の階から母親の声がこだましてきた。覚めて来た視界が七時前に差し掛かっている時計を捉える。カーテンを開けて、朝の陽ざしを一杯に浴びて瞳孔を開いたのを感じて、リビングへ向かった。
階段を下りてリビングの戸を開けると、良い匂いが漂ってくる。ここまで香ばしくはなかったが、最近過剰なくらい覚えのある匂いだ。
机にトースターのリベイク機能で焼かれたメロンパンが並んでいる。普段は米派の我が家では珍しいのに、酷く既視感を感じた。どこかの大食いのせいだろうか。
「おはよう」
「おはよう、蓮。テスト、よく頑張ったじゃないの」
無地の黒エプロンを付けた母が、後ろで括った茶色の髪を揺らして嬉しそうに微笑んだ。
メロンパンが乗った皿の横には一枚の印刷された紙。学校が乗せているウェブ上での採点結果をコピーしたものだ。当然採点結果は個人が設定したパスワードを知るものしか見れない。
親として子供の結果は気になるのだろうが、もう少しこちらに任せてくれないかとただただ思う。
それはそれとして、ウェブ上で採点結果を上げるようになったせいか、テストの終わった週末には順次成績が帰って来るというのは、早く成績を知りたい身としては非常にありがたいだろう。
肝心の結果については全体の三分の一に入っていた。それまでが後ろから数えた方が二倍くらい早かったのを考えれば大躍進と言える。
「やっぱり蓮なら国立も狙える。この調子でがんばってね」
「……ん。頑張ってみる」
自身に課せられた過剰な期待に沸いた嫌悪を押し殺し、無表情を務めてメロンパンをかじる。
カリと音を響かせるメロンパンの装甲に親近感を抱いた。
「お父さんも国立に入ってくれれば安泰って言ってたし、私も助かるから」
「……ん」
どろりとした何かが溜まるのを感じた。だけど、これを言葉にしてもただの感情論にしかならない。このままリビングに居ては溜まり続ける一方で、逃れるためにもう少し味わいたかったメロンパンをお茶で流し込み、速足で部屋に戻った。
当たり前のルーチンワークに従い、支度を整え、自転車に乗り、電車に乗る。
そして、駅からの通学路をぼんやりと歩きだす。家から少しでも早く出たい気持ちで飛び出したせいか、通学路にいる学生は少ない。もう少し早ければ朝練のある学生達がいたはずだ。
中学までは親の言う通りに従い、その通りの結果を出してきた。それが自分のアイデンティティだったから。学校での振る舞いも困っている人が居れば率先して助けた。その人からもらえるお礼によって自己を確立するため。
思い返してみれば偽善も甚だしい。それに気づいたのは中学の最後。告白されて付き合った女の子にフラれた時。きっと彼女は俺の振る舞いが誰かのためではなく、自分を見据えたものだと気付いたのだろう。
そこで始めて親の言う通りに従う自分に疑問を持った。
最初に始めた些細な反抗。と言っても変わったのは勉学をサボったこととか、ちょっと見た目を崩したりぐらい。部活も中学程真剣にはやっていない。先生やら生徒とかの人の頼み。親の言うことは表面上従い続けた。
結局疑問を持てても、どうすればいいか分からなかったのだ。
結果、残ったのは没個性を通り越して無個性となった自分。誰かの言いなりになったままの自分。進路など何も決まってすらいない。
木藤に恋について尋ねたのは、もしあの時自分が恋を理解できる人間であれば、言いなりの人間ではなく、軸のある人間になれたかもと思ったから。
アイデンティティ。自分にそれがあるのか、作れるのかを知りたかった。
朝の程よく冷えた空気は自分の考えを奇麗にまとめてくれる。部活の朝練があるときはギリギリで考える余裕もないが、何にも急かされず、人の気配にも邪魔されない通学路を歩くのは存外に楽しかった。
周りに学生も少なく視野も良好。開けた視界が見慣れた艶のある黒髪も同時に捉えていた。
木藤である。通学路で見かけたことはなかったが、まさか朝礼の二十分前につくような時間帯にいると思わなかった。
彼女との距離は開いていたものの、信号のせいですぐ近くまで追いついてしまった。
話しかけるか迷って、斜め後ろに止まる。距離を取るかどうかを迷ったせいで、思いのほか近づきすぎた。不自然に近い距離で止まった足音を気にした木藤がちらりと目を後ろにやる。
細く尖らされた目がこちらを突き刺し、すぐに和らいだ。
所詮、知人と知人以上の間柄だが、彼女に警戒されない程度のものはあったらしい。
その信頼が見て取れる目の動きは素直に嬉しかった。
「貴方、こんな時間に登校する人じゃないわよね?」
口調そのものはいつもの彼女だが、声色はほんの少し柔らかい。だから、俺もなるべく他人行儀にならないよう口を開いた。
「ちょっと目が覚めた」
「そう」
「いつもこんな時間に来てるのか?」
ここ二ヶ月間、木藤よりも早く教室についたことはなかった。
この時間帯に出ているならばそれも頷ける話である。
「そうね。いつもこの時間」
「早いな。朝練とかもないのに」
「部活にも入ってないから。ルーティンを保っているだけ」
「それは偉いことで」
親の言葉に従うのをやめ、その途端に堕落していた俺とは正反対だった。
同時に、彼女がそこまで自分を律する理由が分からなかった。
「……なんで、そんな勉強とか頑張れるんだ?」
それを口にして初めて気づいた。
彼女の領域に踏み込んだと。他人の領域に干渉しない俺たちの関係を壊す動きだと。
「いや、今のは忘れてくれ」
「……そう?」
木藤は俺の挙動を訝しみつつも、すぐに前を向いた。
人一人分の間隔を開け、横並びで歩く。暫しの無言。無理に会話するわけでもないのだからそんなもの。
それよりも、何故俺が領域を侵そうと、そもそも何故彼女に話しかけるか迷ったのだろう。
話しかける必要などなかった。図書室ならまだしも、こんな通学路で。
自分の感情を整理する。普段と違う要因を上げ連ね、ついさきほどの出来事を思い出す。
――遠慮のない期待。労っているようで自分の正しさを押し付ける声。誰かのためだと主張する自己弁護。
ああそうだ。自分は苛立っていた。
このどうにもならない、どう整理していいか分からない感情を吐き出したかった。
そして、対象に木藤を無意識に選んだ。彼女なら下手な同情を示さないからだと思う。
「……なぁ」
「なに?」
「少し聞いてもらえないか?」
「……何を?」
「話を」
「聞くだけなら」
木藤の領域に入るのは違う。だから自分の領域を見せるならばいいだろうと、俺が承諾し、提案する。案の定その提案は通った。
「……中学の頃に出来た彼女が居たんだ。当時の俺の振る舞いも含めて優しいところが好きになったんだって」
それから話した。親が望む俺を振る舞ったこと。勉強も部活も真面目に、それが当時の俺のアイデンティティでもあったと。その自分がない振る舞いに失望した彼女が俺をフったこと。
話してみればなんとも情けないことを引きずっていると、話し終えてから自嘲した。
幸いにも木藤は終始無言で聞いてくれていた。相槌はなかったが、気にもならない。ただの独り言にも等しいのだから。
「長ったらしくてすまん」
話し終えてからいつの間にか校舎の中に入っていたことに気付く。
「……いえ、それより」
「……?」
短い静寂。木藤は何かを口にするか否かを迷っていた。
それを促すように、小さく頷いてやる。
「貴方がしていた──困っている人を助ける偽善。それは誰でも与えていたの?」
「……好き嫌いで分けていたってことか?」
質問の意図が読めず、尋ね返す。彼女の神妙な顔をから見るに、何か思うところがあるのだろう。
「ええ、そんなところ、例えば……いじめられている孤立した子にも──その手を伸ばすかどうか」
いじめ。いきなり例として持ち上げるものかは気になったが、所詮は邪推に過ぎない。
それよりも俺は今までいじめとは周囲も含め無縁だった。
だから本当に四面楚歌で、誰の助けも借りられない子に手を伸ばすかと言われても少し考えにくかった。だが、偽善の殻が残った今の自分には出来ない。過去に限定すれば出来るというのは簡単だった。だけど、その偽りこそが彼女が嫌うものだと思うから。
――もう人から失望の目を向けられるのは嫌だから。
「さぁ? もう分からないな。だけど、今は出来ないって言い切れる」
「そう。ありがとう」
何故お礼を言われたかは分からなかった。返事に困り「おう」とだけ返しておく。
無表情にそっけないお礼。彼女の内心は読めない。
丁度、自教室に入っていたのでお互いの席にいくだけ。話を辞めるには丁度よかった。
「あと」
「ん?」
自分の席に鞄を置きながら顔を上げる。
「あなたみたいな捻くれ者に個性がないなら、大概の人は無個性だと思うわ」
俺の目を覗き込み、真剣な表情の木藤がいた。彼女の爛々と輝く瞳には呆けた顔の俺が映っている。
「それでも個性がいると思うなら、また同じ振る舞いをすればいいんじゃない? 自分の軸を持った上で、だけど」
そう言い残し、木藤は自分の席に戻っていった。
色々と聞いてみたいことは残っている。喋りかけるにも遠い距離ではないし、人目をはばかるも何もまだ教室に人は居ない。
だが、物理的にも心理的にも話しかけられる距離かどうか、分からなかった。
*
私にしては珍しく余分な考えが積もっていた。
先生が黒板にチョークで書きこんでいる。かつかつと黒板を叩く音が教室に響いている。しかし、生徒たちはその音を気にもせず各々が持つ紙面に夢中だった。
今やっているのは数学のテスト問題とその解説。教室にいる全員が、自分の点数に関することで夢中になっている。間違った問題や合っていた問題の共有。自分の点数から相対的な地位を確認し、安堵したり落ち込んだり。
誰もが己の世界を、領域を、立ち位置を手に入れようと点数を武器に彷徨っていた。
黒板で解説が挙げられているのは正答率が低かった問題。
どれも解けていた問題で、聞く意味もない。受験に役に立つ話もないが、違うことをしようにも教卓に近い席ではやりづらい。
代わりに頭の中を駆けるのは、朝聞いた海崎さんの話。
正直、理解は出来ても納得のいかない話だった。
自分は自分。言いなりだろうと出した結果は自分のもの、ならばそれを誇っていればいいのに。
テストの点数だって、親が塾に行かせてくれたから取れた高得点だとしても親のおかげだけじゃないでしょうに。
誰にでも優しい優等生。そこに勝手な期待を膨らませた子が自身の過大評価に苛まれただけの話。彼に問題があるかどうかは知らないが、惚れさせられなかった人の問題。
つまり、考え方の話だ。
ただ、彼が居たのなら私の小中学生の暮らしも変わっていたのではと。
――少し、期待させられた。