笑み
第四週月曜日。五月末であり、中間テストの始まりでもある。
この日は物理、数学Ⅲ、化学というこれ以上にないくらい理系教科で染められた日だった。終わった後の手応えとしてはどれも上々だ。今までほとんどやらなかったことをやったのだから前よりいいのは当然とも言える。
ただ、少し意外なことが分かった。
勉強は苦手だし嫌いまであるが、つっかえることなく問題が解けると存外に気持ちが良いということだ。
「手ごたえはどうだった?」
昼過ぎに放課後を迎え、教室から次々生徒が出ていく。その流れに従わず関所の如く一部を遮る悠介が話しかけてくる。
「上出来」
いつもなら「まぁまぁ」と返し、「お前のまぁまぁは良くないんだよなぁ」と言われるのがお決まりと化していたが、今回は違う。もう大人も見えてきているのに自慢する子供みたいに勝手に歪む自分の口元。
内心苦笑しつつ今回の手ごたえを言った。
「ほう? さすがの蓮も三年は本気とな」
「そういうのじゃないけど」
「あ、じゃああれか。今日は月曜日だからか?」
最近言われるようになった言葉。バスケ部で調子が良い日が大抵月曜日になっているからだろう。別に曜日は関係ないと思っているのだが、プラシーボ効果みたいなものなのか、確かに月曜日は自分の思う通りの動きが出来る気がしていた。
それがテストに生かされたとは思えないものの、頭の回転が速くなっているのは事実だろう。
「かもな」
「で、今日はどうするんだ?」
「どうって?」
「月曜日じゃん」
そこまで言われてようやく図書委員のことだと気付いた。テスト期間で無意識にないと思い込んでいたせいか、微塵も頭になかった。
「流石に今日は……」
「ないだろ?」
こんな時期に本を借りに来る奴は居ないのだから仕事はないはず……と願いたい。
樫原先生に一応聞いておいたほうがいいか? でもあったら嫌だしなぁ……。
最悪、どうせ居ないもう一人の担当を言い訳に出来ると思う。ただ周囲が自分に求めている海崎蓮という人物を鑑みれば何をするべきかすぐに想像できた。
「一応先生に聞く」
「……お前はそういうやつだもんな」
悠介は少し悲し気に目元を伏せて鼻で笑った。
「性分なんだよ」
「知ってる。俺もついてくから早くいこーぜ」
「先帰っていいんだぞ?」
「お前の勝手に付き合うのも俺の勝手だろ?」
自分の意思ではなくエゴに従った用事で悠介を巻き込むのは申し訳ない。
そんな意味も込めて言った言葉は彼の頭が横に振られることで止められた。それに彼が言ったことも筋は通っていて、俺がこれ以上気にする話でもなかった。だけど――
「たまに思うけど、彼女はいいのかよ」
悠介が彼女と一緒に帰っているところを見るのは週に一、二回程度。それが少ないのか多いかはともかく、そっちを気にかけなくていいのか疑問だった。だからその疑問を口にしながら廊下を歩く。
「今日は同じ塾の奴と行ってるよ」
「ふぅん。それについては何も思わないのか?」
「男と二人だったら思うところはあるけど、そうじゃないなら口出しする問題でもないだろ」
一年の付き合い始めの時はしょうもないことで嫌われていないかどうかとうるさかったのに、今ではこの達観ぶりだ。こうやって信頼が出来ていくのだろうなと他人事ながら思った。
「ならこれ以上言うことはないか」
「もう二年たった。倦怠期も過ぎたよ。……蓮のお陰でな」
彼らが二年の時、月に一度ぐらいしか一緒に帰っていない時があった。クラスも同じだったのに昼食を二人でとるようなこともなく、休み時間もそれぞれの友達と過ごしていた。
気になって尋ねてみたところスマホで連絡を取っているわけでもないらしい。
そんな状態なのに恋人なのかと言うと、「なんかつまんなくなった」なんて無情な言葉が帰って来た。
俺が初めて悠介と喧嘩した時でもある。喧嘩というよりは俺が一方的に怒鳴りつけただけのこと。俺が短気なだけだったこと。
俺の中では告白をしたやつが相手を振るという、ある種の矛盾が大嫌いだったのだ。
勿論、理解は出来るし、俺の勝手な理想なのは重々承知している。付き合ってみたけど、思っていたのと違っただとか色々あるのだろうと。だけど、感情の乱高下ごときに振り回される側が納得できるはずがない。
俺の論理を淡々と悠介に浴びせた。
その時だけは、俺がつまらない人間になる前の俺に戻れていた。
今のこの関係があるのにも起因していた、かもしれない。
「あの時は悪かったよ」
「怒ってないっての。むしろ、感謝してんだぜ?」
「そっすか――んじゃ、ちょっと待ってて」
「あいよー」
丁度職員室の前にたどり着いたので会話を打ち切って樫原先生の姿を探す。室内には居ないようなので他の先生に樫原先生の所在を尋ねると、この時間は学校には居ないとのこと。
――初耳だ。
図書室に関しては自習する生徒のために開けて欲しいとだけ言われ、それを引き受けた。仕事に関してはどうするべきか分からないまま鍵を持って職員室を出る。
「鍵持ってるってことはやっぱあるのか? 仕事」
「仕事はなかった。あ、これで図書室を開ける仕事だけ任された」
「んじゃ、それだけやってとっとと帰ろーぜ」
「だな」
他愛もない話をしながら図書室への道を歩く。渡り廊下から見下ろせるグラウンドに誰もいないのが少し寂しく思えた。悠介といなければ、この五十メートルよりも短い渡り廊下を歩くのはつまらない時間だっただろう。
凄まじくどうでもいい思考と、他愛のない会話を両立させながら図書室の前にたどり着き、壁にもたれかかりスマホを弄る木藤の姿を見つけた。
「あれ、木藤さんじゃん」
「お得意様だよ」
「そうなのか。あの人、読書が好きなのか?」
「知らない――」
会話を打ち切り、鍵を差し込んで図書室の扉を開ける。
「ごめん、待ってたとは思わなかった」
言ってから後ろの言い訳は要らなかったと内心苦笑する。
「いえ、気にしてないわ」
「……それは何より」
以前と一語一句違わない言葉。以前と同じこちらを見ない姿勢。内心の苦笑が外にも飛び出した。
「んじゃ、帰ろーぜ」
言われなくてもそのつもりだった。だけど、このまま家に帰っても勉強する未来が見えなかった。今日の手ごたえに満足して残りを自堕落に過ごす自信しかなかった。せっかく変われるチャンスを不意にするのは勿体なく思い、
「ついでだし、勉強してから帰らないか?」
と誘ってみたものの
「俺、明日の教科のやつ全部家なんだけど」
断りにくい答えが帰ってくる。一人で帰らせるのも申し訳ないし、一緒に帰ってしまえば二年と変わりない日々に戻ってしまいそうで次の言葉が口から出なかった。代わりに悠介の口がまた動く。
「……せっかく調子いいもんな。先帰ってるよ。……テスト悪かったら許さねぇからな?」
「ごめん」
「気にしてねぇよ。サボんなよー?」
「勿論」
申し訳なさが溢れてくる。自然と悠介の顔から目を逸らしていたことに気付いて顔に目線を戻した。
――悠介はとても嬉しそうな、満足げな笑みを浮かべていた。
「……?」
「んじゃなー」
「あ、ああ。また」
機嫌良さそうに帰っていく悠介の内心が理解できずに首が傾く。
何故あそこまで良い笑顔を浮かべていた理由が分からなかった。作り笑顔にも見なかった。むしろ稀に見る会心の笑顔だった。場当たり的にその場を盛り上げる笑い声をあげることもなかった。
何がそこまで悠介の機嫌を良くしたのかが分からないままその場に立ち尽くす。
「いつまでそこに立っているつもり?」
「――ごめん」
木藤に言われて初めて自分が扉前で立ち続けていたことに気付き、慌てて頭を下げながら図書室に入った。
今は仕事ではないのでカウンターに行くかは迷ったが、本を借りる人が居ないならカウンターを自由に使える。つまり、専用の勉強机だ。これを利用しない手はない。
なので、パソコンをつける以外は同じ流れでカウンターの席に腰かけ、鞄から明日の科目――今日とは真逆の文系特化な奴らの教材を広げていく。
「……っし」
ペンを握り、静かに気合を入れて、勉強に取り掛かる。
テスト週間でも図書室が開いていると知っている生徒は少ないらしく、俺と木藤の他に来た生徒は片手で数えられる程度だった。その生徒らも悠介と同じく塾などで勉強するらしく、自習室が開く時間が遅いだのと愚痴をこぼしながら出ていった。
多分、彼らがテスト期間でも図書室に入れることを知っているのは、塾の自習室とやらが開くまでの時間つぶしも兼ね、自習場所を探し求めた結果だろう。
職員室で鍵を借りた教員曰く、テスト期間は自習のために樫原先生以外の教員が開けているらしい。
結果出来たのは俺と木藤の二人きりの図書室。だからといって何も起こらないけど。
正直明日のテスト勉強で手一杯なのだ。聞いてみたいことはあったが、それはテスト明けにしたい。
そこまで考えて俺が自分から木藤に話しかけに行こうとしていることに気付いた。
他愛のない話で同じ時間を共有したいだとかそんな意図はないし、目的合っての会話だ。
だが、事務連絡でもない。
気軽に話しかける相手としては最も見当違いな相手。その相手に能動的。少しおかしくて自嘲気味に笑う。単純接触効果、なんて言ったっけ。俺は少なからず木藤のことを少なからず好意的に思っているらしい。勿論異性としてではなく、あくまで人として。
勉強の進捗は上々。
こうやって向かい合ってみるとすがすがしい気持ちにすらなれる。
きっと心のどこかでは、勉強から逃げていたことに負い目を感じていたのだろう。
だから、こうやって真面目に取り組んだことでその負い目が消えて、静かに蝕んでくるストレスが消えた。
勉強が好きだというやつの気持ちは一生理解できない。けれど、面倒な問題に当たらない限りは悪くない気分だった。
木藤や悠介のような勉強が出来る奴はこのことをもっと早くから知っていたのだろうか。
学校としては昼までで終わっているので腹時計がご飯を食べていないことを教えてくれた。
食堂で何か食べるか……。
席を立つ。ここに鞄を置いていくかどうか悩んだが、貴重品だけあれば十分だと考え、財布とスマホをポケットに押し込む。
木藤はまだ机に向かったままだ。いつまでも続けて居そうな感じがするが、木藤は俺たちが来る前から図書室前に居た。食べる場所はその辺りにはないし、彼女も昼食を取っていないはず。お腹は減らないのだろうか。
気にはなったものの、わざわざ声をかける仲でもない。ドアに手をかけ――
きゅーっと可愛らしい音を後ろの方で耳にし、動きを止めた。
反射的に音のなった方向を振り返る。おそらく音を立てた犯人は何事もなかったと言わんばかりにペンを動かしていた。
気のせいかと思い、振り返ろうとする前にまた可愛らしい音が一つ。
堪えきれず、鼻から息が漏れた。
「……何笑ってるの」
俺が笑ってしまったことがお気に召さなかったらしく、細められた目が俺を捉えた。
「いや……な――くくっ。……何も?」
「……」
否定しようと首を振るが、犯人の赤い顔も相まって思い出し笑いをしてしまう。
それを聞いた犯人もとい木藤は絶対零度並みの目で睨みつけて来た。もうここまで来たら不可抗力と言っても良い気がする。
思い出し笑いを堪える俺と、笑うなと目で訴えてくる木藤との睨み合い。視線が痛い。
それは数秒に渡って続いた。
「……悪かった。なんか飯奢るから許してくれ」
「……」
下手に知り合いなせいで無視できない。俺が悪いと半ば諦め、停戦を申し出る。
俺を勉強させる気にしてくれたささやかな礼も含めていた。
停戦の申し出を受けた木藤は無言で俺を睨み続けていたが、しばらくするとペンを置いて立ち上がった。