言語化
第三週の月曜日。テストは丁度来週で、部活もテストが終わるまではなくなった。いわゆるテスト週間となる。
「勉強は捗ってるか? 俺は上々ってとこだけど」
放課後、帰り支度をのんびりしていた俺に悠介が話しかけてくる。こいつの成績はだいたい上の中。常にその辺りの成績をキープしている。部活でエースとしてスタメンを維持できる練習と勉強の両立が出来ているのは日ごろからどこかしらでコツコツと勉強をしているからなのだろう。
「……いつもよりは割と出来てる」
そんな悠介と比較すると微妙な成績の俺が十分とは言えなかった。だから濁すように言ってしまったが、高校生活の中では一番真面目にやったとは言い切れる。皮肉にも図書委員を押し付けられてからは図書室で何かと勉強をするようになったからだ。そうやって勉強に取り組む機会が増えれば心理的ハードルも下がる。すなわち家でも取り組むようになり、必然的に勉強時間は増えていった。
指標を平時にしたのは俺の中で十分でも、あいつから見れば十分じゃないと言い出すのは分かり切っていたから。
認識の違い。中学に比べれば勉強に対する拒絶は少なくなった。こうやって人はいつのまにかふるいにかけられ、適切な場所へと並べられるのだろう。
「確かにいつも授業に当てられてもろくに答えられてないくせに、今月は全部答えれてたもんな。間違うことを期待してお前を当てた先生の顔は中々面白かったし」
「……よく当てられるとは思ってたけど、そんな狙いだったのか?」
「ああ、考えがひねくれていても、基本的に素直で学力が中途半端な蓮の答えって、授業を進めるのに使いやすい間違いなんだよ」
「そうかよ」
どう受け取っていいか分からなかった。ただ、自分の中途半端な良心が利用されているのは少し腹立たしかった。それも過去の話となればどうでもいいが。
「拗ねるなよ」
「拗ねてない」
なるべく自然に目を逸らそうと教卓で提出物を集めるクラスメイトに目を向けた。拗ねてはないが、思うところがあるのは間違いでない。それを指摘されてしまった気がしてなおのこといたたまれなくなって顔を背ける。背けた先は木藤が鞄を肩にかけて教室を出ようとしている姿だった。
「今日から部活はないけど……委員会はあるのか?」
「それは勿論」
「客こねぇだろ?」
「多分、そうでもない」
テスト習慣に入って、話の流れで友達同士放課後勉強しようと場所を求め、図書室へたどり着く人は少なからずいた。実際に図書室に何人いるかは知らないが、いつもより人は多いだろう。
それが本を借りに来る人ならば少しはやりがいを感じられるのはさておき、そのことを話すと納得したらしく悠介はへぇと声を上げた。
「だから部屋は開けに行かないとって訳」
もう木藤は教室を出ていった。多少行くのが遅れようと図書室の前でスマホを弄っているだけなのは分かっているが、それを分かっていて遅れるのも出来なかった。
面倒だという素振りを見せながら鞄を肩に担ぐ。それを見た悠介が何故か苦笑した。
「何回も聞いたけどさ、なんでそんな中途半端に律儀なんだ? 誰も怒らねぇのに」
心底不思議――いや、理解できないという声色で尋ねられる。
その問いに対する答えは中学の時から変わっていない。
「だから……嫌われたくないからって言ってるだろ?」
高校に入ってから何度聞かれたか分からない悠介からの質問に対し、ずっと同じ答えを返してきた。これだけ言っても理解は得られないらしく、悠介が不満げに眉をひそめる。
「気にしすぎだと思うけどなぁ」
「分かってるよ。んじゃ、また明日な」
「……おう」
むぐぐ、と唸りながら腕を組む彼を放って教室を出る。正直、申し訳なさが大きかった。
高校三年間、黒木悠介が俺の行動に疑問を持ち続けたように、彼が何故俺のことを気にかけてくれているかが分からない。
音楽を聴いて、自堕落に過ごすくらいしか趣味のない俺と、バスケが好きでアウトドアが好きな悠介。趣味関係で話が合うことは少ない。でも、たわいのない世間話に花を咲かすことは出来るし、お互い興味がないと言ってもマイナーな趣味でもないから話を聞くことは出来る。
故に続いたのかもしれない。
それが果たして友達だとか親友の枠に入るものかは分からなかった。
同時に、木藤ならこの関係を何というのだろうと、ふと疑問に思った。
図書室のカウンターで教材を広げ、テスト勉強に取り組む。
室内の長机は半分以上埋まっているのに、不思議なくらい静かで、聞こえるのはペンが紙面を叩く音とページをめくる音、静けさを求める来訪者がドアを開ける音のみだった。
空きがあれば隣を開けて、席が埋められていった長机も場所によっては全て埋まっていた。
俺はある種の特等席なので悠々とカウンダーを占領している。本を借りに来るものが居れば当然すべて片付けるのだが、幸いここにいる客が求めているのは本ではなく勉強場所だ。
俺のような特等席を持っていない木藤は隣が埋められるはずだと思っていたのだが――。
実際は誰も彼女の隣には座らない。別に彼女が意図的に隣に座れないくらい教材を広げているだとかそんなこともなく、むしろ最低限の教材だけを広げている彼女の隣は座りやすいまである。
しかし誰も座らない。多分、彼女が放っている独特の雰囲気がそうさせているのだろう。
羨ましいような羨ましくないような状況だった。電車で誰かが椅子に座っている時に隣が空いていても誰も座らないのと似ている。
それが二時間たてば周りも席がぽつぽつと空き始める。その間でめぼしいことは樫原先生が来て、俺が持っていた鍵を回収していったことだけ。
テスト週間の間は部活が休みだが、最終下校は七時まで伸びる。
だから普段は下校時間で一人もいなくなる図書室にもまだ人が片手で数えられるほどは残っていた。しかし、もう時計はもうすぐ六時半に差し掛かるころで、残っている僅かな客も帰ろうとしていた。つまり勉強を続けているのは木藤一人ということ。
まぁ、塾とかに行ってるもっとハイレベルな奴がいるんだろうけど、そいつらが図書室に来ることはない。
「まだやるのか?」
単語帳と赤シートを持ちながら木藤の席の対角に座って声をかける。人が減り静かになった図書室で響く音に時計の針の音が加わった。
すると眉を少し持ち上げた彼女がこちらを一瞥し、またノートに視線を落とす。
無視ですか……。
勉強している最中に声をかけたこちらに非があるとはいえ、せめて一言ぐらいは返って来るかと思っていた。最低限はこなす木藤ならなおさらのこと。
ともかく、木藤に話せるタイミングを窺うため、集中しなくても出来る英単語の暗記で時間を潰す。
その間に残りわずかの人が出ていき、図書室に残っているのは俺たち二人になった。
「まだ帰らないの?」
非常に面倒くさそうな口ぶり。少し持ち上げられた木藤の顔から覗く目突きは鋭く、肩に力が入ってしまう。
十分前の質問に答えるつもりはないのだろうか。質問に質問を返してはならないのは常識だろうに。
「そっちこそ」
「七時半からバイト」
「遅くね?」
前は六時くらいから働いていたはずだ。それに、平日の喫茶店でそんな時間からシフトを入れる意味も分からない。
「閉店作業とかその辺りのためよ」
「あっそう」
「貴方こそ、こんな時間まで残って何がしたいの?」
「……勉強、ですけど」
下心があるのは否定できないが、主目的なのは間違いない。
「嘘でしょ。言いたいことがあるならどうぞ」
「……!」
「何驚いてるのよ」
そりゃそうだろう。何か彼女を動かすものがなければ彼女から尋ねてくるなんて有得ないはずだったのだから。少し考えてみても彼女から動いた理由は分からなかった。そこを掘り返して藪蛇になるのもはばかられて、大人しく流れに身を任せる。
「じゃあ、聞いてもいいか?」
「ええ」
「友達とか親友ってさ、前みたいに言葉にしたらどうなるんだ?」
友達と呼べる人は少なからずいる。そして、悠介は俺の中では親友に当たる。そこに明瞭な線引きはない。今までは気にしていなかった。そりゃそうだ。そんなことを気にするぐらいなら遊んでいた方がよっぽど楽しい。友達以上であるならば、親友かどうかなんて線引きが必要なことはないだろう。
でも、恋について似たような価値観を持っている木藤の話なら。
自分が友達や親友の間に敷いている境界線を明瞭にしてくれそうだった。だから、尋ねた。
予想外な質問だったらしい。手からペンを離さないまま、ノートと俺の中間で木藤の顔が固まる。
少しの間を置いてその顔が完全に上げられた。そして、彼女の焦点の在っていない瞳がパチパチと瞬きを繰り返した。
あまりの驚きぶりについ噴き出してしまった。すると、そこで我に返った木藤が俺を一睨みすると、「少し待って」と言って目線を落とした。
何か思うところがあるのだろうか。
少なくとも恋について何かしらあることは知っている。
友達についてまであるというのなら彼女が抱える、もしくは過去にあったなにかはよほど規模の大きいものなのだろう。
そこに興味を抱くことはない。
少なくとも木藤と俺は不干渉である方がお互いにプラスになるのだから。
一分ほど待たされ、ついに木藤の顔が再び上がる。
「つまり、定義ということでいいのよね?」
「そうだな」
俺の頷きに頷きを返すと木藤が言葉を綴り始める。
「友達は……その人に時間を割くことを厭わない人、かしらね」
「うん」
「その上で、自分の素をさらけ出せるのが親友……だと思うわ」
たった一文なのに納得できるのは俺が木藤と似た感性だからか、それとも単純に木藤の説明が上手いのか、どちらかは分からなかった。だけど、合わせて二文の説明は水に溶かした塩みたいに違和感なく俺の中で溶けていった。
「なるほど……」
「貴方はどう思っているの?」
木藤の言葉を反芻していると、ペンを片手で器用に回転させながら彼女が尋ねて来た。ペン回し、出来るのか。
「似たようなもんかな、友達はプライベートで時間を割ける相手、親友は心置きなく話せる相手だ」
感性が似ているとはいえ、同じ答えにはならない。でも、悩んでいたはずの答えをそれぞれ一文で話せたのは木藤の考えを聞いたからだった。
「ふぅん」
何考えているかは想像つかないが、勉強に戻らずペンを回しているだけになっている彼女に理由はあるのか気になった。
「ちなみに、知り合い……知人はどうなる?」
「言葉通りでしょう? 知っている人」
即答だった。確かにそう言われるとぐうの音も出ない。
だけど、不思議なことはよくわかった。
「知人、友人、親友、恋人。人との関係性を表す言葉の代表格の境界線が曖昧すぎるし、広すぎる。変だと思わないか?」
「それについては賛同するわ」
ペン回しをぴたりと止めた木藤がこくりと頷いた。
「俺と木藤の関係を表す言葉はこの中じゃ知人だ」
まぎれもない事実。学校外で俺が木藤に時間を割くことが無ければ、木藤が俺に時間を割くことはないだろう。友達でないなら親友もない。恋人なんてまっぴらだ。
消去法で知人。だからこそ、不思議だ。そして、面白い。
面向かってこの人は知人だ。と言えるのもそうそうないのだから。
また、こんな話は知人とする話にしてはやけに込み入っている。自分が抱いている感情を恋か恋じゃないかで分けようとする。ある種の恋愛相談のような。
「でしょうね」
「だけど、知人にしては変だよなって」
「強いて言うならクラスメイトじゃない?」
クラスメイト。それならしっくり来る気がした。学校の中だけでの付き合いがある人を指すのにもってこいの言葉。熱いコーヒーにぶちこんだ砂糖くらいすぐに俺の中で溶けていく。クラスメイト自体は当たり前の話でも俺たちにとっては大事な言語化だ。
「それだな」
悩み抜いた計算問題の解を導き出した時に近い満足感を得て、頬の筋肉が緩む。
心なしかいつも凛としている木藤の雰囲気も少しだけ和らいでいるように見えた。