ルーティン
五月、第二週の月曜日。今日は部活がオフだった。悠介に一緒に帰ろうと誘われたものの、忌々しい委員会があるので断りを入れた。
図書室通いはこれで四度目。片手で数えられるので少ないのは当然だが、今までは年に一回行くか行かないかだったのだからこれで四倍だ。……名誉ある数かどうかは横に置いておく。
鍵の取り扱いにもそろそろ慣れてきた。流れるような動作で図書室を開け、パソコンの起動を待つ間に鞄から教材を出して並べる。
今日は物理。数学が苦手なくせに就職に有利と言われてなんとなく理系に進んだのだが……正直いまでも悔いている。
だからと言って、やらない訳にもいかない。でもやる気だってない。
ただ漠然と、やらなければならないという義務感があるだけ。
その義務感だけなら今頃教科書を開いていることはなかったが――
ドアが開く。
カウンターの前を見慣れ始めた艶のある黒髪が通り過ぎる。
言うまでもなく木藤だ。そして、彼女のルーチンワークも変わらない。
長机の端に座り、鞄を置いて、参考書やらなんやらを広げる。
恐らく古典。赤シートを取り出したのを見るに暗記系なのは間違いない。
丁度月曜日とオフが重なったので、少しやりたいことがあった。
それは木藤がいつまで勉強しているかを知ること。これをやるには自分も勉強し続けないといけない。勉強が続かない自分にぴったりの理由付けができた。
いつもならやる気が湧かず、なんとなく部屋の本棚にある漫画を手に取ってしまい、そのまま自堕落に過ごしていた。
けれど、今はやけに頭が冴えている。環境が大事と実感した。
換気のために開けた窓からのそよ風が心地いい。
とりとめのない思考を他所にペンを動かす。
しばらく集中した後、キリの良いところまで進めてからペンを転がし、深い息を吐く。
ちらりと時計に目をやると一時間が経っている。木藤はまだペンを動かしている。
彼女が気を抜いたのは途中で聞こえた伸びをするときのかすかな声を漏らした時くらい。
気付かないうちに彼女が勉強している教科が物理に変わっていた。
開いている参考書のページは俺より後ろ。具体的なページ数は分からないが、左側に集まっているページの厚さが違うことだけは分かった。
積み重ねが彼女の勉強を後押ししているのは分かっているが、なんだか悔しくて転がしたペンを拾い、勉強を再開した。
次に集中が途切れたのはドアが開いた音がきっかけだった。
ここにいるのは仕事もあるので、反射的にドアの方向に頭が向く。
「あ――先生」
ドアを開けたのは老齢の男性──図書室の司書、樫原先生だった。
何やら他の仕事も抱えているらしい樫原先生は早くても五時まではここに来られないらしい。
そのため、図書委員が放課後すぐに来る生徒を相手にしているのだ。部活終わりであれば樫原先生も大概図書室にいるため、それ以降は問題がない。
「ん、君は……海崎君か。図書委員なんて大概サボっているのに、真面目に来ている三年は君だけだからよく知っているよ。噂もね」
「それは、どうも」
喜んでいいのか分からない先生の話を曖昧に頷いて流す。
にんまりと笑った樫原先生は少ない白髪を撫でると、不思議そうに眉を曲げた。
「それより、もう時間はとっくに過ぎているから帰っても――ああ、勉強しているのか。そういえば今日バスケ部はオフだったね」
「はい、せっかくなのでここで勉強しておこうかと」
「いいね、三年生らしくて。どうせ客はそうそう来ないから存分に勉強しときなよ」
満足げに何度も頷いた樫原先生は俺から視線を外して、木藤の方を見た。
「やあ、木藤さん。進捗はどうだい?」
「……樫原先生。勉強している時に話しかけてくれるのはやめてくださいと──」
木藤の返事はなんだか柔らかい声色だった。木藤がいつもこの時間帯にまで勉強しているなら樫原先生と何度も出会うはず、となればそれなりに親しいのも納得がいった。
それでも、誰かに気を許している木藤の姿を見たこともなかったので、物珍しさにぼんやり眺める。
「仕事は終わったからね、生徒に絡むっていう残業をしているんだよ」
「意味が分かりません」
「当然。適当言ってるからね」
「……はぁ」
困惑気味に頷く彼女の姿は思わずにやけ顔を隠しきれず、その場で顔を俯けた。
あまり見ないクラスメイトの表情は思いのほか面白かった。けど、ここで笑い声をあげてしまえばあとでなんて言われるか考えたくない。
「ともかく、進捗はどうだい?」
「……何も」
木藤が苦々しく言った。
進捗。
何のことかは分からないが、少なくとも勉強には見えなかった。彼女の成績はトップクラスだ。国公立も十分に狙える成績で足らないことはないだろう。
それと、勉強の進捗がゼロというのもおかしな話だ。
「君のことだ。どうせ大学に入っても交友関係を作らずに生きていくんだろう?」
「先生が私の未来を分かる訳ないと思いますが」
「分かってないのは君だ。大学なんて高校よりも浅い関係ばかりだぞ? 僕も大学で出来た知り合いで今でも友達なのは一人二人だ。僕でこれなら君は……分かるだろう?」
「━━別に、交友関係が狭かろうと生きていけます」
ぶっきらぼうで不満げな返しだった。
進捗というのは交友関係を広げることらしい。確かに彼女が誰かと親しそうに話しているところを見たことはないし、人聞きもない。それを樫原先生が不満に思ったというわけらしい。
「狭いというのは数人の話だ。君が友達と呼べる人は何人いる?」
「…………」
木藤が押し黙る。むぐぐと口を曲げ、眉をひそめる。
まるで苦渋の決断と言わんばかりに頬をぴくぴくとさせると、小さく声を発した。
「……一人」
「それは篠原さんのことだね? しかも彼女は転校してる」
いるのか……一人。
先生の問いに木藤は重々しく頷く。俺は篠原という苗字の知り合いを頭の中で探すが、身に覚えはなかった。
「君の場合……」
何かを言いかけた樫原先生は俺をちらりと見る。木藤のプライベートに深く関わる話だ。部外者が居てはということだろう。正直不服ではあるが、仕方がないので鞄から出したイヤホンを耳に突っ込み、音楽を流して聞こえないことをアピールした。
十分後。ドアがガラガラと音を立てて滑り、鞄を肩に通した女子生徒が図書室を出ていった。話は終わったらしい。
「すまないね、もう話が終わったから大丈夫だよ」
「そっすか」
適当に流していた音楽を止めて、イヤホンを外す。ちらりと画面に目を落とした先生は、スマホに映っていた音量バーが半分を超えているのを見て、意外そうな顔を浮かべた。
「海崎君、そんなにつまらない人間じゃ利用されるぞ?」
「それを言うなら追い出せばよかったんじゃ?」
「くくくっ。君、面白い子だね」
先生が顔を俯け、声を小さく漏らしながら笑う。残念ながら俺はそれさえできない程度の小心者である。毎週顔だけを合わせる人間に嫌われる勇気がないほどの。
スマホの画面は五時半を知らせている。
「……木藤はいつもこの時間まで?」
「いいや? 六時ぐらいまでだよ。図書室の開館時間もそのくらいだからね」
先生は首を横に振っていた。
毎日授業の後に休みなく二時間も。多分、それが受験生としては当たり前であることは頭で分かっていても実行できる気はしなかった。それに、あの慣れた動きを見るにかなり前からの習慣っぽい。
素直な感嘆の息が口から漏れる。
「すごいだろう?」
「……ですね」
「今日はまだ続けるつもりかい?」
今日はよく集中できているので、続けるのはやぶさかでない。だけど、少し気分転換もしたかった。その条件を満たす場所がこの近くにあったことを思い出す。
「はい、気分転換に喫茶店で」
「……なら六時頃に行ってみなさい」
「はい?」
妙な言葉に思わず呆けた声を出す。
樫原先生は茶目っ気のあるウインクを一つすると、体を反転させた。
「鍵は閉めるからいつでも上がって大丈夫だ。私用を思い出したから失礼するよ」
情けない子を出した俺に構わず、先生は図書室を去って行ってしまう。
六時。今から行けば四十五分にはつくだろう。微妙に時間があく。その時間を作る意味が分からない。
━━だけど、従わない理由もなかった。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい」
「空いている席におかけください」
樫原先生の言葉に従って六時過ぎに喫茶店へ訪れる。いつも通り窓際の席に座って、鞄から途中だった教材達を広げていく。別の教科をしようかと思ったものの、結局物理だけをしていた。
「お冷とおしぼりです」
人の気配にそっと教材を押しのけてスペースを作る。
「ご注文がお決まりになりましたらお手元のボタンでお呼びください」
反射的に顔を上げた。別におかしな話ではないが、ルーティンが崩されたことに驚いてしまったのだ。
「……木藤さん?」
そして、顔を上げた先にいた店員━━店の制服を纏った木藤を見てさらに驚いた。
「……海崎さん?」
さん付けで呼ばれたことに思わず首を傾げ、そういえばまだ一度も名前を呼ばれた記憶はなかった。自分もたいして親しい訳じゃないからさん付けで呼んでいる。別におかしな話でもない。
「ここでバイトしてたんだ」
学生が働ける時間帯は平日の夕方以降か休日。最低週一の頻度で来ている俺と出くわさなかったことを考えると恐らく入ったばかりに思われた。
「最近入ったのよ。……樫原先生に言われてね」
「へぇ」
尋ねてみると不思議な答えが返ってきた。最近入ったこと自体は別に不思議ではなかった。それよりも何故三年生になってからとか、樫原先生に言われて入った理由の方が気になる。
「なんでこんな時期? お金?」
周りの知人や友人はみんなバイトを辞めているのに対して真逆。毎日積み重ねで勉強している木藤なら可能だとしてもする理由が思いつかなかった。お金と聞いたがそれならもっと前から働いていてもおかしくはない。
「……?」
すると彼女の顔が怪訝そうに歪んだ。何を言っているんだと言わんばかりの表情だった。
「何だよ」
「……ふふっ」
意味が分からないと尋ね返すも木藤は小さく噴き出すのみ。いや、もっと意味が分からない。
笑う要素がどこにあったんだ。そんな俺の内心を読んだのか彼女は小さく首を横に振った。
「いえ、思ったよりあなたが正直者で偽善者ということがよく分かったから」
「はぁ?」
「……ご注文がお決まりになりましたらお手元のボタンでお呼びください」
「あ、ちょ、おいっ! 注文決まってるって!」
強引かつ早口で話を打ち切った木藤が去っていくので、慌てて彼女の背に声をかける。
店員として働いているため、流石に足を止めた彼女が不満げにハンディを開いて戻って来た。
「……ご注文お伺いします」
「アイス一つ。無糖で」
「アイスの無糖。フレッシュはお付けしますか?
「うん」
「以上でよろしいですか?」
「大丈夫です」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
注文を聞き終え、ハンディを閉じて軽いお辞儀する。その所作があまりにも綺麗なものだから見とれてしまっていた。幸い、すぐに踵を返して厨房へ行ってしまった彼女にバレなかった。
「……ふぅ」
小さく息を吐く。思いのほか頭の中を乱された。あれだけ愛想が悪くても見とれてしまうのだから美人はずるいものだ。勿論、それを維持するためにそれなりの努力がなされていることは分かっているが、目に見えたものだけに情報源を委ねるのが人のサガだ。
「……やるか」
始めてからたいして進んでいないページを見て、再び気を引き締めなおしてペンを握った。
「お待たせしました。アイスコーヒーです」
ことりと教材が並んでいる横にカップが置かれた。その動作も最近始めたにしてはやけにこなれたもので、とても新人には見えなかった。新人ならもうすこし腕が震えているだとか少しぎこちない動きなのだ。
「本当に最近?」
少し省略した説明だったが、その意図を汲み取った木藤は頷く。
「ええ」
「ふぅん。あと、さっきの。笑ったのはなんでさ」
昼間はおばちゃんだとかがお茶しているが、平日の夕方は客が少ない。厨房にちらりと目を向けても暇そうにしている見慣れた店員が居たので、もう少し聞いてみることにした。
「あなた、イヤホンしてたわよね?」
「ああ」
「そういうことよ。樫原先生にも笑われたんじゃない?」
「そうだけど」
確かにあっているのでなんだか釈然としない。
何が面白いのかさっぱりだった。俺が馬鹿真面目に話をスルーしていたことに対してなのは分かるけど、別に笑うことでもないのに。
「ちぐはぐってこと」
きっと納得が出来ないことを俺の顔から読み取ったのだろう。木藤が柔らかく微笑んで言った。彼女が着ている制服とその笑顔はやけに似合っていて腹立たしいことにまた見惚れてしまった。異性に対する一目ぼれというより、完成度の高い作品を見た時の勝手に息が零れるやつだ。
「何がさ」
「あなた、前から私のことを見ていたでしょう?」
「……分かるのか?」
確かにそれとなく目で追っていた。
「ええ、あまり気持ちのいいものではないから」
「それは……ごめん」
他人からじろじろ見られるのは確かに気持ちのいいものではない。素直に謝る。
「それ自体はいいのよ。そんなのきっと誰にだってあるし、どうしてもいやなら見られない振る舞いをすればいいだけだから」
「そんな振る舞いがあるのか?」
「簡単よ。嫌われればいい」
……簡単に繋がる方法じゃないのはすぐわかった。
少なくとも俺には出来ない。
「……そっすか」
「ともかく、私に対して興味があるのに、あの時は律儀に聞かなかったから━━面白いと思った。それだけよ」
「……そっすか」
まるで褒めているかのような口ぶりというか、感心したような声色だった。自己保身のための行動をそんな風に言われるのは背筋がぞわぞわする。何か含意があるように聞こえて素直に喜べなかった。
「浮かない反応ね」
「褒められるような行動はしてないから」
「別に褒めてない。感心しただけ」
……? つまりなんだ? 木藤からすれば俺は面白く、奇妙な奴で。
俺からすれば木藤はどこか俺と似ているよく分からない奴だ。……人間そんなもんか。
「ま、なんでもいいよ」
心からの言葉だった。
趣味だとか意見だとかが一致する人間ばかりじゃない。そんなの稀だ。一致したからといってその人のことを理解できるわけもないし、どれだけ名目上の関係を深めようと、お互いを理解できるわけがない。中学生の頃、痛いほど理解させられた。
それ以上会話が続くことはなく、お互いに話題を探すこともなく、だからと言って、無言で離れるほど薄情でもなかった。結果残ったのは微妙な無言。自己保身の良心がこの状況を変えろと訴えてくる。それがたまらなく鬱陶しい。
木藤も仕事中なのに立ち去ろうとしないのはそれを忘れているからか、はたまた人との交流を避ける彼女にも最低限の人付き合いをこなす努力はするのだろうか。無言で立ち去るには少し話し過ぎて、会話を続けるほど仲が良い訳でもなかった。
だから思った。この無言をどうにも思わない関係こそが至高なのではないかと。
だが、その関係をどうやって作るのかは知らない。少なくとも恋人同士でも無言を気にすることは知っていた。
無意味な想像を他所に、自分を支配している良心に従って無言を壊しにかかる。
「仕事、いいのか?」
会話を終わらせようという言外の意。無言の対処に困っていた木藤もすぐに頷き、また綺麗な一礼をしてから厨房へ戻っていった。
無理やり会話を終わらせたことに罪悪感を抱く。
そんな自分に嫌悪し、せめて勉強をすることで自分を正当化するため、ペンを握りなおした。