処世術
五月。目立つ行事は月末に中間テストがあることぐらいか。
二年生の頃まではみんな和気あいあいと受けていた授業。それも三年生となると硬い雰囲気が満ちてくる。一部の生徒が授業中によく声をあげることは変わらないが、ペンがこつこつとなる音が多く聞こえたり、授業には関係のない教材を広げて熱心に取り組む人がいたりと忙しない。
木藤はどうしているのだろうかと気になる。「か」から始まる俺と木藤の出席番号は三つ違い。五十音順なのだからそんなもの。ちなみに席替えはまだ先らしい。
俺の席は一番後ろなので教卓に近い木藤の席を見ると彼女は熱心――には見えないが、先生の授業に合わせたペースでペンが動いている。
「どこ見てんだよ」
俺の隣から悠介の声。こいつの苗字は黒木なので、木藤とも出席番号が離れていない。
それでも四つ離れているのは珍しいのだがそれを一度横に置いて、声の方へと顔を向ける。
声の主は古典の教科書とノートを机の端に置き、中央を何やら化学式が並ぶプリントが占領している。
内職じゃねーか。
「当然黒板だよ。お前こそ、なんで科学の宿題してるんだ。今は古典だぞー?」
「理系なのにどうして真面目に古典なんぞ受ける必要があるのかねぇ」
真面目に授業を受けていないことを指摘してやれば、途端にそっぽを向いて、悠介が愚痴る。
気持ちは分かるので頷いてやりたいけど、木藤を見ていたことを追及されるのは面倒なので、責めるように見つめる視線は止めてやらない。
「そんなこと知るかよ」
「まぁ、ノートは取ってるからいいんだよ。んなことよりお前、木藤さんを見てただろ」
「どう勘違いすればその結論に至るんだ」
当てられたことに内心ヒヤッとしつつ適当に誤魔化す。別に悪いことをしていないのだから隠す必要もないのだけれど、何故か後ろめたく感じた。
「至るとか変な言葉使うなよ、相変わらずさ。……まぁ勘だからそんなに責めれないけど」
「勘って」
「まぁまぁそう怒るな」
確かな証拠はなかったらしく、何とかその場は誤魔化しきることに成功した。
そうして退屈な授業を乗り切り、迎えた放課後。月曜日なので図書委員の仕事がある。
委員会がなければ悠介と部活に行くのがお決まりの流れだった。
図書室に行く途中で職員室に寄り、一度校舎を出てグラウンドを走る陸上部を横目に別館へ。
別館は音楽だとかの教室では難しい授業をする移動教室が集まっている場所。図書室はその別館にはない。しかし、別館を経由しなければたどり着けない。
別館を入り、一番上の階である四階まで階段で登る。登り終えれば今度は長い廊下を通って突き当りの扉を開く。そこから伸びているのは校舎へと繋がる吹き抜けの渡り廊下。
ここまで来るのが面倒なのを除けば、グラウンドを一望出来るのは悪くない景色だったりする。外周を走る陸上部に、中央でドリブル練習をしているサッカー部。奥の方で筋トレしている野球部とすべて見渡せる。
ぼんやりとグラウンドを眺めながら本館校舎の四階へ入る。何故か本館の四階には階段がない。そのせいでこんな遠回りをさせられているのには気にくわないが、秘密基地のようなワクワク感がある所だけは褒められる。
どうでもいいことをぼんやりと考えながら図書室にまで近づくと、扉の横の壁にもたれ、スマホを弄っている木藤の姿があった。
木藤より先に教室を出たはずなのに何故? ともかく、待たせたのは悪いと思い、急いで鍵を開けながら頭を軽く下げる。多分、職員室にいる間に抜かれたのだろう。
「ごめん、遅くなった」
「いえ、気にしてないわ」
こちらを見ずにあっさりと言われると少し思うところがなくもない。別に礼を求めたわけでもないのだが……。
気にしても仕方ない。スマホの電源を切り、肩掛け鞄のポケットに突っ込んでいる木藤を横目に、鍵を開けた扉を横へ滑らせる。扉をくぐってすぐ左手にあるカウンターの中に入りながら鞄を無造作に放り投げ、デスクトップパソコンの電源を入れる。
パソコンが立ち上がるのを待つ間に顔を上げる。
カウンターとは逆、扉をくぐって右側へ向かった木藤がお決まりの長机に鞄を置き、お決まりの席に座って鞄を漁っていた。
「…………」
パソコンの起動音を耳にし、軽く操作していつでも貸し出しのシステムが使えることを確認。椅子に座って息を吐く。
あっという間にひと月が過ぎた。月末には中間テストだ。
こうやってぼーっとしている時間などないはずだった。むしろ焦りながらでも何か手を付けなければならない時期のはず。教材を広げて勉強を始めた木藤のように。
――蓮君からは何も、何も貰えなかったから……
ふと、脳裏に嫌な思い出がよぎった。あの記憶が教えてくれるのは受け身でいてはならないということ。自発的に、動かなければならないこと。
一歩でも動かなければ始まらない。丁度目の前に一歩踏み出すにはふさわしい相手がいる。
失敗したって誰にも言わない都合のいい相手が、そしてどこか気になる相手が。
放り投げた鞄を拾い、木藤が座る長机に行き、彼女とは対角の席に鞄を置く。
カウンターに居ても仕事を言い訳に勉強が進まない。ならばこうするのが手っ取り早い。
仕事はいいのかとか野暮なことは聞いてこない。
そういうやつだと分かっていたから出来た行動だ。心地よさすら感じる。木藤の在り方に内心感謝しつつ、一番テストで点が振るわない数学の参考書を開いた。
三十分あれば、見開き一ページぐらいはできるか。
自分の計算の遅さに苦笑しつつ、ペンを動かし始める。
二人が勉強するには広すぎる図書室にこつこつと机を突く音が二つ響く。
意外なことに頭が冴えている。十五分かけて解くつもりだった片側のページが数分で片付いた。一度やった範囲でも、ここまであっさり進むものだったっけか。
始まって数分なのに肩の力が抜けた。
しかし、ペンが鳴らす音は止んでいない。対角の席にいる美人のせいだ。
教室では背中姿しかまともに見れないが、垂れた黒髪の陰から覗く、凛とした目元が綺麗だった。見惚れることはないが、感嘆の息が自然に漏れた。
「……邪魔するなら部活に行って欲しいのだけど」
見つめていたからか、息を漏らしたからか。珍しく木藤から話しかけてきたと思えば、その言葉には暗い感情がこもっていた。
なんというか、嫌悪しているようなそんな感じの感情だった。何故急に声をかけてきたのかは分からない。けど、俺がここに来て何かをしたせいで、木藤の踏み込んではいけないスペースに触れてしまったのは分かった。
「いや……ごめん」
弁明を述べようとしたが、彼女を相手に見栄を張った所で意味がない。
俺には彼女が抱えている何かを少しでも軽くすることすら出来ない。
出来るとすれば、木藤の何かに触れないよう彼女と同じく距離を詰めないこと。
上辺だけの謝罪をして大人しく勉強に戻る。
「っ…………」
計算することに頭のリソースを割く傍ら、意外そうな息遣いが聞こえた気がした。
もちろん気に留めることはしない。俺たちはそういう距離を保つべきだし、互いの領域を冒す必要などありやしない。
静かに過ぎる時間。不思議と計算は捗った。見開き一ページと低く見積もっていたが、ふと息を吐くころには見開き二ページ分片付いていた。
計算が苦手な割に集中できていたことを自分で驚く。俺と対角の位置に座って勉強している彼女が何故放課後ここにいる理由も分かった気がした。
「じゃ」
一応顔は知っている。無言で帰るのも悪いと思って、声だけかけておく。
返事はなかった。
三対三の実戦練習。ボールを回し、相手の隙を伺っているオフェンスをぼんやりと眺めながら過ごす。前に並んでいる人数から逆算し、もう一セット分は待つのを確認して思考に耽る。
役割としてはシューター。遠距離から圧力をかけ、他のポジションのメンバーを動かしやすくする。
勿論、狙えるならば点を稼ぐのが仕事。だが、俺のシュートの成功率は高くない。正確には練習中は入るが、試合形式になった途端入らない。当たり前の話だと言われれば否定できないが、あがり症のようなものだと思っている。
勉強が出来ないなら部活ぐらいはと思っていたが、うだつの上がらなさに嫌気がさす。
それに引き換え――
中央でボールを持っている悠介がパスフェイクでディフェンスの一瞬の隙をついて、鮮やか抜き去り、フリーの状態から撃たれたシュートがリングをくぐる。
「悠介ぇ! 今はパスを重視だといっただろ!」
「すんません! つい体が動いちゃったんで」
「……ディフェンスもあっさり抜かれるな! 次ぃ!」
何やら怒られてはいるようだが、一瞬のすきに合わせて動くボールの扱いと、近距離まで行くのではなく、中距離で入れる自信を作り上げるシュート力は羨ましい。
それと、普段は頼りない我らが担任の白崎先生も部活の時はがらりと変わる。どこの先生もそうだが、授業と部活で変わりすぎじゃないか?
「海崎ぃ! 早く位置につけ!」
「あっ、すみませんっ!」
一セット余裕があると思っていたら、いつの間にか終わっていた。悠介達が俺の一つ前だったらしい。慌てて位置につくとオフェンスのボールが動き始める。
ディフェンスにとられないよう、貰ったパスを回し続ける。時にはドリブルもはさみ、ディフェンスを惑わせる。体育館を半分に区切るネットの向こう。女子バスケ部がちらりと視界に映った。その中に木藤と似た姿の部員を見つけ、一瞬目を取られた。
何故か気になる。いや、何故かは分かっている。俺と木藤はどこか似ているんだ。
恋に対して好感情を抱いていないこと。恋から距離を置いていること。そして、俺も木藤もひねくれた考えを持っていること。鏡に映った自分のよう。
恋なんてきっと思春期の学生からすれば所詮は娯楽の一部に過ぎないのだろう。中には本気で付き合っている者がいるのは知っているが、別れるカップルの方が圧倒的に大多数だ。
まるで遊び。一時は好きだと本気で宣いながら一瞬で他人のように離れていく。それを当たり前に思えるのが納得できない。
こんな話をすれば鼻で笑われるのはよく分かっている。だけど、俺は恋という感情を理解も納得も出来ない。
木藤もまたこんなひねくれた俺と同じ価値観を持っているように見えた。
だから仲間意識のような何かを勝手に抱いた。それだけだ。
何となく頭がすっきりしたところで自分の手からボールが離れていることに気付いた。
パスでもなく、取られたわけでもない。
宙に放り出されたボールは綺麗な放物線を描いてリングを静かにくぐった。
ボールを跳ねさせる音がいくつも重なる中、ネットの擦れる音が嫌に響いた。
「……ディフェンスッ! 簡単にシュートを打たせるんじゃない! なんのための近距離ディフェンスだ! 相手をしっかり焦らせろ! あと、海崎はこっちにこい」
僕をマークしていた後輩の二年生が顔を歪める。無理もない。今のシュートは自分の中でも最高の動きだった。別に何かを意識したわけではないし、むしろバスケのことは何も考えていなかった。
今の練習は相手がチーム全体でボールを持っていられる時間、二十四秒間を稼ぐ、もしくは二十四秒間経つことを恐れた相手に不完全なシュートを打たせるのが目的だった。
圧力をかけられた上でこちらも完璧にシュートを撃った。運が悪かったと諦める方が吉まである。
それはともかく呼び出された。列の並びから外れ、コートの端にいる白石先生の元へ行くと、先生は困った顔で俺を出迎えた。
「……今のシュートは完璧だった」
「あざっす」
含みのある誉め言葉。言わんとすることは分かるので、とりあえず短縮した礼と共に頭を下げる。
心にもないことを言ったせいでどこか棒読みに言ってしまった。
「……お前のアガり症はどうすれば治るんだ?」
少し悩んだ素振りを見せて先生が尋ねて来た。正直俺も治るものなら治したいものだ。簡単にできていれば苦労なんてしない。だけど、それを言っても仕方がない。だから、静かに肩を竦めることしか出来なかった。
「シューターのシュート率がブレることはみんな知ってる。でもお前のシュート率はアガっていなければほとんど入るんだ。……それと、黒木が言うには今日は調子のいい日らしいな。見分け方は教えてくれなかったが」
ブレの理由が悩み事の有無だとは言ってなかったらしい。正直、悩み事の有無でそこまでブレるとは自分でも思っていない。調子がいいとか勝手に外野から決められるのもよく分からないが。
「そうっすか」
結局口を突いて出たのは雑な相槌。
先生は深いため息を吐く。それなりに俺のことを考えてくれていることは素直に嬉しい。
部活に興味がなく、最低限見に来るだけのいるだけ顧問より遥かにマシだ。
「……お前がそのブレ幅をある程度抑えられるならスタメンなのになぁ」
「すみません」
「いや、すまん。俺もお前が頑張っているのは知っているんだ。どうせなら報われて欲しいだけで……」
推測に過ぎないけど、半分の本音と半分の嘘に聞こえた言葉だった。
そのシュート力が使えれば勝てるのにという本音を隠し、なるべく相手の気持ちを盛り下げないように伝えられた言葉。当然分かっている。社会に生きるならば当然の処世術の一環。
それでも、正直に言ってくれた方が……楽だった。