価値観
図書委員の活動で部活は途中から合流した。
皆がシュート練習を始めているのを他所に、コート端でウォーミングアップのフットワークを終えた。
手ごろなボールを拾い上げ、列に並べでいると見慣れた姿が俺を見つけると手を振って来た。
「おーい」
部活仲間で一年生から友達の茶髪男──黒木悠介が並んでいる列に分け入り、俺の一つ後ろにまで近寄って来た。
「返事しろって蓮さんや、悩み事か?」
開口一番、同年代にしては少し高めの声が数センチ上から降ってくる。
百七十少しから身長が動かなくなった身として腹立たしい。悩みを抱えていることを当てられて動揺し、腰の横でバウンドしていたボールを抱えてしまった。
「なんで分かる?」
「そりゃあ、お前のシュートの調子がいいからな。変なことを考えているときだけ、お前のシュートはよく入ってる」
「変な、は一言多いぞ」
「どうでもいいだろうそんなこと。……何悩んでんだ?」
こうずかずかと人のパーソナルスペースに入って来るのは悠介の良いところであり、悪いところでもある。
でも、自然に相手との心の距離を詰めていけるからこその彼女持ちというべきか。
一途なのも相まって、高校一年生の文化祭で告白したとかなんとかが続いている。
「悩みっていうよりはちょっと悪いことをしたかなって後悔」
「後悔? いつものことじゃん。図書委員なんて毒にも薬にもならねぇよ」
「図書委員もちょっと後悔してるけど、そっちは違う」
確かに一年通して毎週三十分、三年生は秋ごろから行かなくていいとはいえ、束縛されるのは誰もが嫌がる。加えてしゃべる相手も来ないのだから。合法的に部活をサボれるぐらいが利点かも知れない──時間の無駄が勝るな。
だけど、そっちはもう諦めている。後悔は木藤のことだ。
「ほーう? 何か珍しい話でも?」
「人の悩みに対する聞き方じゃないだろ」
「そいつは諦めてもらうしかないねぇ」
平常運転の悠介。列を追いかけながら足の間にボールを通している彼のボールさばきも相変わらず上手い。ボールが自由自在に滑らかに動き回る様は見ていて気持ちが良い。万年ベンチの俺と違って流石スタメンというべきか。
「はぁ……ちょっと図書室で困ってたやつを放置してきた」
「それはダメだろうよ」
番が回って来たのでシュートを打つ。バスケと別のことを考えている時の調子はいい。
盤面が高速で動くせいで、素早い対応が求められるバスケに向いていない性格だとつくづく思う。
綺麗な放物線を描き、リングの縁に触れず綺麗にネットをくぐったボールを拾いながら悠介の方を振り返る。彼のシュートもボードにバウンドしてリングをくぐっていた。見ている限り全部入っている。どうしてそんな入るんだか。
「何割?」
「ディフェンスが居ないならスリーの中から打てばだいたい入るぞ」
「あっそ」
嫌味かこのやろ。
顔を背けて心底うざそうに言えば、拗ねんなよとボールを背中にぶつけられた。
「そんなことより誰だよその困ってたって子。図書室に行くなんて珍しい」
「別に年がら年中居ないわけじゃないだろ」
いくらうちの図書室が遠くても、利用者がゼロにはならない。普通に読書が好きな奴がたまに訪れることはある。それでも大抵は昼休み来るから図書委員が仕事をする時間帯の客はやっぱり少ない。
「まぁまぁ。で、どんな奴なんだ? お前が後悔するほどだろ?」
「どういう意味だ」
「お前、接点がない奴には冷たいだろ?」
「後輩に聞こえるからやめろ」
割と真面目なことを言われて思わず焦る。
悠介の言う通り、俺は所詮小心者であり、今後影響の少ない相手に対しては偽善だろうとあまり関わらない。別にそれ自体は割りと日本人がそうだと思うけど、彼は普段の振る舞いとの差があることを言いたいのだと思う。
ただ、周りに嫌われる勇気もなく、必要な偽善はこなしていた。この自己矛盾を木藤は嫌ったのだろう。そのことを今更ながらに気付く。
「心配しなくても結果的にお前は冷たくないさ。学校に居るやつは無視できないんだからな」
「……」
それも嫌われるのが嫌で……と、下手に答える方がダメな気がして沈黙を貫いた。
「少なくとも俺はそういう打算を普通にする人間らしい奴は嫌いじゃないからよ」
「よくあっさり言えるなぁ。って、人間は基本汚いみたいな言い方」
「俺は性善説を信じない質だ」
悠介がバウンドしていたボールを指先に乗せて回転させている。
気さくな雰囲気を纏っているくせに言っていることは僅かな毒が混じっていた。
「そうかよ」
呆れを隠さず肩を落とせば、練習の終わりを告げるブザーが鳴った。
ウォーミングアップも兼ねているから今の練習は緩くやれるが、ここからだんだんとキツイ練習になっていくのが憂鬱で。
落とした肩をあげる気力すらなかった。
それから次の月曜日。
やる気が起きず、カウンターのパソコン前に座って見せかけのノートと参考書を開いているだけ。時間つぶしに木藤が勉強しているのを横目に参考書をぱらぱらとページをめくる。今年中にこれをすべて終わせるビジョンは見えない。先の長さにため息を吐く。
そのとき、椅子を引いた音が聞こえた――と思えばすぐ目の前に彼女が立っていた。
「…………先週の件、答えを出してもいいかしら?」
木藤の視線が広げられた白紙のノートに向けられている。
勉強した痕跡のない、潔白な証をじいっと見ている。
言及はされなかったが、彼女の目が勉強していないのかと訴えていた。
ともかく、木藤は律儀にも自分なりの答えを見つけて来たらしい。お陰で俺のよくわからない後悔も晴れるのだからありがたい。
「ああ、でも座りなよ。わざわざこっちまで来て話すことか? 人もいないのに」
「別に答えを述べるだけよ」
「述べるって……。じゃなかった、答えを聞いて、はいそうですかで終われるならそれでいいけど、あんまりな答えだったら再提出だ」
「何様のつもり?」
目で椅子に座るよう促しながら言えば、木藤はノートを見た時と同じ冷ややかな目つきで見下ろしてくる。見つめ返してみれば微動だにしない瞳に俺が映っていた。椅子に座っていいと言いたかっただけなのに、何故変な建前を作ったんだろう。
「とにかく椅子に座れよ。話は聞くから」
「…………」
不満ですと言い張るオーラを隠しもせず、踵を返した木藤が参考書を広げていた元の席に戻る。
そして、これまた律儀に椅子だけこちらに向けて座った彼女がこれで満足かと目で尋ねてくる。
「じゃあどうぞ」
「……ふんっ」
俺の対応に尚のこと不満げだったが、態度が直りそうにないことを悟ったらしく、不満げに鼻を鳴らして佇まいを整えると話し始める。
「──恋。貴方は優先順位を狂わせるもの。と言っていたわね」
「だいたいそんな感じ」
ただの思い付きでしかないことを一週間も覚えられているのは少しむずかゆくて、明瞭の得ない濁した返事を返してしまう。
「私も似ているけれど、恋はその人の行動や意思を歪められるものだと思ったわ」
ただの思い付きの疑問に対する答えなのに、彼女の答えは質問に対して釣り合わない重みを持っていた。それだけ真剣に考えたのだろうと思わせる何かがあった。
木藤の表情は別に何も変わっていない。ずっと真顔だ。
そんな彼女を否定するようで悪いとは思ったが、まるで病気のような扱いに俺は少し納得できなかった。
「……分からなくもないけど、別にどんな人と出会うかで人の行動とか意思なんて簡単に変わるだろ」
正直、理解していた。納得だって、半分くらいしている。ただ難癖をつけたいだけだった。
中途半端な気持ちで返した答えに自分で罪悪感を抱いた。
そんな俺の後ろめたい気持ちとは裏腹に、木藤が俺の難癖を真摯に受け止め、目を伏せると考え込む。
悩んでいる姿も様になる。美人はやっぱりずるいなと思っているうちに、彼女がまた口を開いた。
「一理あるわね。でも、だからこそ歪められる、ってことよ」
やけにられるを強調する木藤。言いたいことは受動と能動の違いか、恋が受動と言いたいのは何となく伝わった。それでもいまいち理解できていない俺を見て木藤が補足する。
「本人にとっては能動に思えても、実際は恋の対象の反応だとかの影響を受けて行動してるってこと。そして恋が終わればもとに戻る。一つの要素だけに縛られた行動。一人だけじゃしないような馬鹿な行動、受動的じゃない?」
確認するように、同意を求めるように木藤が尋ねてくる。皮肉気であざ笑うように言う彼女はどこか恋を嫌悪しているように見えた。
きっと、借りを嫌うような振る舞いも、ここに関わっているのかもしれない。まぁ、どうでもいいけど。
「筋は……通ってるのか?」
「いえ、知らないわ。私の勝手な推測、妄想の類よ」
木藤が椅子の背もたれをぎしりと鳴らして少し体を預け、声のトーンを落とした。まるでクールダウンするように。そこで初めて彼女の話に熱がこもっていたことに気付く。少なくとも、単純な依頼だからみたいな義務的感情とは別に、何か私情があるのだろう。
一週間も持ち越して話に来るくらいだ。頷ける話でもある。
それに恋が受動、というのも分からなくもないと思える自分が居た。
同時にまた疑問が頭の中へと振って来る。
「ふぅん。じゃあ、愛ってなんだ?」
「……もう話は終わったはずだけど」
「恋愛って言うだろ? セットみたいなもんだ」
とんでもない屁理屈。それを言ってしまえば、この議論のような会話自体も屁理屈の塊だろう。今更気にするのもおかしな話かと開き直って、挑発するように笑ってみる。
「恋と愛の違いって話なら、恋は自分中心の、愛は相手中心の考え方かしらね」
「ポエムみたいだな」
「……」
無視だった。だけど、彼女の目が俺を見据えながら、「死ねばいいのに」と言わんばかりに瞬きなしに睨んできている。生きた心地がしなかった。
「……まぁ、分かるぞ? 恋が受動的なのに対して、愛が能動的みたいな感じ、だろ?」
……思いのほかあっさりと答えが返ってくるものだから少し驚いた。
けど、その答えは割と納得のいく答えだとは思う。恋と愛がそういう違いなら――
「俺、愛は受けてみたいけど、恋はしたくないな」
ふと零れた一言。他の人が聞けば何を言っているんだこいつと思われても仕方がない。
だから、意味不明な言動を聞いた木藤の反応が気がかりで、彼女の顔色を見る――
彼女の口端は見たことないくらい吊り上がっていた。
「ふふ……奇遇ね。私もよ」
笑顔と呼ぶには目が笑っていない。微笑と呼ぶには頬が硬い。
なんというか、純粋無垢な喜色だけが浮かび上がったような、そんな表情だった。
木藤の顔を見ていると何故だか鏡を見ている気分になる。
良いとも悪いとも取れない感情から逃げるよう、俺は時計に目を向けた。もうすぐ三十分だ。
「……そろそろ部活に行くから。質問に答えてもらってありがとう。じゃあまた」
ぺこりと、小さな礼を一つ。
彼女の方を振り向かないよう歩きざまに鞄を担ぎ、流れるように図書室を出て体育館へと向かう。
それが俺と木藤が言葉で言い表すのが難しい関係の始まりだった。