その期待は羽のように軽く、背中を押している
白石先生と海崎さんは教室でたまに会話していた。新任故の心細さと何かと引き受けてくれる彼の性格故だろう。その度に聞いたのが彼は月曜日だけ調子が良いという話。
最初は図書室で休憩出来たからとか、適当に思っていた。
でも──。
自意識過剰だとは思うけれど、その理由をなんとなく察する自分がいた。
そして、黒木さんからのメッセージで確信に変わった。
「ふふっ」
思わず吹き出してしまう。心が躍っているのを分かっているのに、平静になることが出来なかった。
こんなところを誰かに見られてしまえば気味悪がられること間違いない。
でも、自分みたいな人間でも誰かに良い影響を与えられたのだという事実が、私をどこまでも遠くに駆けださせる熱を抱えていた。
渡り廊下を通って体育館の二階へ。下を通ることなく入ることが出来るため、ここの体育館は混みにくく会場にされやすいらしい。
ガラスで透明な二枚扉を開けて、観客席へ。
中はそこそこ賑わっていた。
適当な場所に腰かけて、下を見下ろす。
バスケットボールのルールはよく知らない。
全体で四つに分かれていることぐらいは知っている。
今は……多分前半が終わってハーフタイムのような何かの時間だと思う。
見たことのある人が何人かいる方がうちのバスケ部っぽい。
反対側のリングに居る方が相手チーム。
ぼんやりと眺めていると私を呼び出してきた張本人と目が合った。
その張本人こと黒木さんがにやりと笑っている。
そして、彼はその隣に立っていた。
にやけている黒木さんを小突いている。
何を話しているのかは知らないが、大方からかわれてとかだろう。
遅れて彼も私の存在に気付いた。私を見て、目を見開いている。
──ちょっとかわいい。
そうじゃないそうじゃない。
かぶりを振って本来の目的を思い出す。
正直、出来ることはあまり思いつかない。
彼のことはよく知らない。きっと横の黒木さんの方が良く知っているだろう。
彼のことをもっと知りたいとも思わない。
欲しいのは、あの月曜日の放課後だけで十分だ。
そう改めて心に決めた。
彼に向けて腕を伸ばし、小さく手招きする。
その手招きの意味を探りかねたのか、彼は小首をかしげる。けど、すぐに黒木さんから背中を叩かれ、不服そうに体育館の入口へと向かっていった。
ほうと息を吐く。体がじんわりと熱を帯びたのを感じた。この熱を表に出すわけにはいかない。
私は、彼の前では彼のよく知る私で在りたかった。そんなやせ我慢で熱を抑えようとすると、体がぶるりと震えた。慣れないことはするものじゃないらしい。
これだけ緊張したのはいつ振りだろうか。
一瞬目を下に向けていた間に、黒木さんが私に向けて親指を立てていた。
何の意味かは分からない。でも、ネガティブなものにも見えない。
迷った挙句、小さく頷きを返すに留めた。
*
体育館のあまり掃除されていない階段を上る。
左右の隅に埃が積もっている。
普段はこんなところに目が行くこともないのに、今はどうしてか気になる。
理由は分かっていた。平常心を失っているからだ。そして、その平常心奪った主がこの先に居るからだ。
二階の観客席にたどり着く。
朝一に並べさせられたパイプ椅子の座席。その前列に黒髪の少女が一人佇んでいた。
他の観客も居て選手もいて、いつもはここの学生しかいない体育館に有象無象が集っていて、それでいながらひと際存在を隠しきれていない。
マネージャーでもなさそうな女子生徒。
試合を観戦したり、次の試合に備えて休んでいる他校の生徒の視線をしっかりと集めていた。
意識していないと目を惹かれる美貌。多分、ネットだとか、今まで見て来た誰かの中に彼女より美人な人は居るのかもしれない。でも、どうしようもなく理解させられるのだ。
俺は彼女に惹かれていると。全く持ってずるいと心内で愚痴を吐いておく。
「よぉ」
なるべく気さくに、意識していないと思わせるように声をかけた。
一階で色んな人がシュートを撃っているさまをぼんやり眺めている少女。
その少女こと木藤が髪を整えながらこちらを向いた。
「急に呼んで悪いわね」
「いや、別に暇だったからいい。それより……何の用だ?」
「──その、大した用はないのだけれど……」
「……?」
珍しい。純粋にそう思った。
あの木藤が、理由がなければ動かない彼女が理由もなしに来る。
加えて、歯切れが悪そうな返答。
俺の方が混乱してきそうだ。調子が狂う。心地よかった静寂が訪れない。
「調子、悪いって聞いたから」
「あー、あぁ。うん」
正直、耳が痛かった。
木藤の前で情けない自分を見せたくない無意識が、俺の返事を不明瞭にする。
見せるつもりのなかった姿。けれど、木藤も見たこともないくらい子供のように口を尖らせている。
お互いがお互いに壁を介すことなく何かを晒していた。
「……せっかく見に来たのに」
「……なんで見に来たのさ」
せっかくってなんだよ。来てくれなんて言ってないぞ。
理解できない木藤の言動に語気が荒れるのを自覚する。
「……なんでも。それより、貴方が試合に出ないわけ?」
「俺の出る幕はないよ。あっても消化試合」
「……つまらないわね」
自分で言ってて胸が痛くなる。
口を尖らせたまま、今度は頬を膨らませた木藤がちらりと視線を下に向けた。
不満げな顔の先には悠介の姿。その悠介に対し、一瞬睨んだように見えた。
「き、木藤?」
「ともかく、試合に出なさい。そして勝つの。いい?」
「意味分かんないんだけど」
「私が見ててあげるから」
「上からだなおい」
「不満?」
「……」
悪い気分はしない。……などと、口が裂けても言えなかった。
それを素直に認めるのは癪だった。
けれど、不思議だ。
体が熱い。心が熱い。ぞわりと何かが沸き立つ。
心臓が物理的に動きているのではないかと疑うくらい心が躍る。
巡り巡る血流に身を任せ、今にも駆けだしたい。
期待をかけられるのが嫌だったはずなのに、今の彼女から期待に歓喜で打ち震える自分が居る。
「ふまん?」
「──じゃない」
木藤が口角を上げる。あの日、食堂で見た自然な笑み。普段の振る舞いのせいでどうにも年上のように感じるが、同い年なんだと改めて自覚する幼い純粋な喜びの表れ。
からかわれている。すぐに分かった。
「なんて?」
「不満じゃない」
「じゃあ決まりね」
「……あぁ」
頷きながら時計に目を向ける。
もうすぐ後半が始まりそうだった。
「行ってくるわ」
「ええ、期待してる」
嫌いだったはずの期待。だけど、彼女のそれに重さはなかった。
柔らかな声に送り出され、急ぎ気味に背を向ける。
そうしなければ、にやける顔を木藤から隠せなかった。
コート内へと戻って来るとあと一分で後半戦が始まる所だった。チームの皆は水分補給を取ったり準備を進めている。
そんな中、唯一俺を出迎えたのは木藤をここに呼んだと思われる悠介だった。
「どうだった?」
妙にニヤニヤとしながら尋ねかけてくる。普通にうざい。
もしかするとまだ顔が緩んだままだったかと、手で頬に触れる。
特に変化はなかった。だけど、今の動作でバレた。悠介の目尻がさらに下がる。
踊っていた心臓が委縮するように大人しく鼓動を刻みだした。
「なんにも?」
「今のはなんだよ」
「これが現実かどうかの確認」
「そうか──よっ」
「った!?」
急に踏み込んできた悠介の手が俺の頬をつねる。ぱちんと泡みたいに弾けた痛みが声を漏らす。
これが夢でないことを引っ張られた頬が分かりやすく教えてくれた。
「後半戦。出てもらうから準備しろよ?」
「マジで言ってんのか?」
「大マジ」
ちらりと我らが監督白石先生に視線を向ける。
俺の視線に気づいたのか、白石先生はこちらへ勢いよく腕を突き出し、拳から親指を立てた。
どうにも本気らしい。
「なんでさ」
「義理だな」
「……木藤はお前が呼んだのか?」
義理。その言葉に関連性を見いだせるのは一人しかいない。
「どっちでもいいだろ? お前に求められてるのはコートに出ることだけだからな」
「俺はともかく──」
自分でも不思議なくらい試合に出るのを拒んでいた。
期待されて嬉しかったくせに、いざとなれば足が竦んでる。体は熱いのに。いつでもでられると訴えているのに。
「話はつけてるよ」
視界の端、同級生が目でコートに出ろと訴えて来た。
残り二十秒。コート内に俺と同じ白のユニフォームを着た奴が三人。
つまり、残り二人は俺と悠介だ。
「──分かったよ」
腹をくくる。
ろくにウォームアップもしていない。
今日調子が良いかどうかも分かっていない。
それでも、悪いと分かり切っているよりはマシだと思った。希望的観測を抱ける分、まだましだ。
精神論は好きじゃないが、意気込みがあるに越したことはない。
試合再開を告げるブザーが鳴り響く。
ボール権はこちら側。
俺のマークについたのは相手チームの中でディフェンスが甘めな相手。
当然だ。いきなり十五番なんぞ後ろの枠が出た。
ベンチ温めてますと言いたげな人が出てくれば無警戒になるのも分かる。試合を諦めていると捉えられても可笑しくない。
だが、俺をマークする相手の顔は少し険しい。
コート外で最初のパスを出す悠介の顔。それが前半よりも真剣になっていたせいだ。
あんなの誰が見たって試合を諦めた奴の顔には見えない。
再びのブザー。試合時間が動き出す。
目の前のディフェンスの癖は読んでいる。
「──っ! ハイッ!」
警戒が緩んでいるのもあり、あっさりと振り切ってボールを貰った。
パスを回し、相手コートへ攻め入る。
相手は先程と同じで、悠介へ二人がかりの構えだ。
それが通じるのはシューターが居なければの話。外側にいる俺へのディフェンスはやはり甘く、再びパスを貰う。
立ち位置はスリーポイントの線より後ろ。
貰った瞬間、シュートを撃つ。こちらの遠距離シュートに警戒を割かれていないお陰であっさりと撃てた。
そこで決められたらかっこよかったのだが──いきなり撃って入るなら、三点ももらえない。
現実とはそういうモノだ。
山なりの弧を描いたボールはリングの縁に当たって跳ね跳んだ。
俺のマークの奴がほっと息を吐いている。気が緩んでいるのか知らないけど、それは悠長すぎる。
跳ね跳んだボール。リバウンド。
取ったのは悠介だった。体格の大きさを生かした単純明快な強さ。
囲まれているので流石にシュートまではいけない。
「蓮ッ!」
即座にボールが帰って来る。リングへと視線を向ける。
視界の端で身を乗り出してこちらを見ている木藤の姿が映った。
いつも冷静な彼女が周囲の目も気にせず身を乗り出しているのがあまりに可笑しくて、笑ってしまう。
自分のためでもなく、チームのためでもなく。誰かのために点を決めたいなんて、考えるだけで馬鹿らしい。
体が熱い。いつぶりだろう。こんなに心が躍るバスケは。
だけど、その感情のままでは勝てない。
心を冷ませ。
頭は覚ませ。
シュートを撃つ──
そう見せかけ、ブロックのため腕を伸ばしたディフェンスの脇をすり抜けてドリブル。
慌てて、ディフェンスが追いかけてくる。それを見越し、突き出したボールを引き寄せながらバックステップ。
緩急についていけなかったディフェンスが前方へ流れる。単純ながら自分の持っている手札を生かせる黄金パターン。
絶好のフリー。さっきから背中を押し続けてくる何かの勢いのままシュートを撃つ。
自分のためだとか、誰かのためだとか、大層な理由もなく自分が思い描く理想のシュートを再現した。
手に残ったボールの後味は、夏の終わりを教えてくれるような──滑らかで捕まえようにも捕まえられない解けた氷のようで。
もう音も鳴らせない解けた氷の代わりに、乾いた音を立てたネットがゴールを教えてくれた。




