愛
文化祭はあっけないくらいあっさりと終わった。
きっと学生にとって華々しい行事で、三年生であれば悔いを残さないよう楽しみたいものである。
だが、なんとか当日までに絵を仕上げ切った俺にそれを楽しむ体力はなかった。
クラスごとに与えられた準備室で過ごし、悠介に引っ張り出されて軽く出店を回った程度。
クラスのグループチャットには様々な写真があげられていたくらい。
自分でも不思議なくらい気力が尽きていた。
その理由は明白だったが、あえて無視していた。
それから月日は驚くほど速く流れた。
図書室で何かを語り合う相手は居なくなり、その時間は勉強へと割かれた。
おかげで期末テストの結果も満足いくものだった。
……そんなものはさして重要じゃないけど。
期末テストも終われば夏休み。
受験に向けて動き出そうとする俺を辛うじて学生につなぎとめていた部活。
それもついに終わりを迎えようとしていた。
「……相変わらずだな」
パイプ椅子を並べて作られたベンチに腰かけていると、悠介が声をかけて来た。
今日は引退試合。
正確には最後の地区大会の決勝だ。
俺は一度も出場していなかったが。
あれからシュートの調子も最悪で、白石先生からも困惑された。
月曜日くらいは調子が良かったが、今はそれもない。
スタートメンバーの入れ替え枠程度には期待されていたが、貰った番号は十五番。
三年生が五人いる中で、何人かの二年生に抜かされ、引退だからとお情けで貰った後ろの枠だ。落ちぶれ具合に乾いた笑みが零れたのは今も覚えている。
「気のせいだろ」
「……今日の相手的にお前も出番あるだろし、心構えはしとけよ」
「アップはしたっての」
「そうかい」
悠介が持っていたボールを撃ち放つ。
綺麗な山なりの弧を描いたボールは綺麗にリングをくぐった。
それを無言で見ていると、悠介が突然俺の手のひらにボールを乗せて来た。
なんだと顔を見上げてみれば、悠介が顎でリングを指し示す。
撃てと言うことだろうか。言葉で言っても聞いてくれなさそうなので、大人しく立ち上がってシュートを撃つ。
綺麗な山なりの弧を描いたボールはあっさりとリングに弾かれる。
せっかく自分の学校が会場なお陰でアウェイでもないのにこの始末だ。
「それに、俺の出番が来るのも怪しそうだしな」
「そうかい」
苦笑しながら諦観交じりに言ってやる。負け濃厚でもないかぎり、俺が出る幕はない。
少しくらい腹を立てても可笑しくない俺の後ろ向きな言葉を聞いた悠介は眉をひそめるどころかむしろ含みのある笑みすら浮かべて去っていく。
あまりにも棒読みな相槌の言葉が不気味で、彼の背中をしばらく目で追っていた。
結局、悠介が笑っていた理由も分からぬまま試合時刻になってしまった。
試合の始まりを告げる笛が鳴り、審判がボールを宙に投げる。
高身長とジャンプ力が売りのメンバーが容易にボールを確保して、先手を取る。
速攻。次々とパスが渡り、ボールは悠介の手へ。
そのままディフェンスを掻い潜って彼が打ったシュートはあっさりとゴールに収まる。
「やっぱ出れなさそうだなぁ」
ひっそりと追われそうなことに複雑な気持ちを抱きつつ、楽観的に呟く。
今の調子で出たところでろくに動けないのは目に見えていた。
しかし、腐っても決勝。
相手も綺麗にパスをつなぎ、今度はスリーポイントを決めてくる。
二点と三点。
小さくとも馬鹿に出来ない差。
お互いの攻撃力と防御力はそれぞれ拮抗しているように見えた。
ならば、試合の決着を分けるのはどれだけミスなく点を入れられるかと、スリーポイントを入れられるかに集約される。
あっという間に十分が過ぎて第一クォーターが終わり、試合の四分の一が経過する。
得点はうちが二十点で相手が二十五点。
バスケにおいて五点差などないに等しい。
しかし、何とも言えない空気があった。
それはこちらが二点を十回決めたのに対し、相手は二点を八回、三点を三回決めていること。入れた数で言えば誤差程度の差。だが、点差は確実に空いている。
それは皆も分かっていて、第二クォーターからは相手のシューターを抑えに行く方針に決まった。
皆が熱心に話し合う中、俺はどこか取り残されたような気持ちでそれを眺めていた。
ユニフォームを着ている以上同じ試合をしているのに変わりないが、どこか疎外感がある。
キュッと響くバッシュの甲高い音。
ボールが地面を叩く音。
パスが通り、手がボールを収める乾いた音。
ボールがリングをくぐり、ぱさりと響く綺麗な音。
その全てを右から左へ流すように耳にした。
試合の状況は確かに拮抗している。
シューターを抑えにかかる方針は間違っていなかった。
だが、相手もうちの得点源である悠介を二人で抑えにかかっていた。
それをすれば一人フリーになる。しかし、ゴール下付近で点を稼ぐこちらのスタイルでは選手間の距離が小さく、誰かがカバーに間に合ってしまう。
じわじわと点差が開く。
俺は他校の生徒がカウントする点数表が示す点差を他人事のように見ていた。
俺に出来ることはない。ほんの少しの苦労で誰かの感謝を得られる偽善とは訳が違う。
笛の音。
第二クォーターが終わった。
四十対五十六。
追いつくことは不可能じゃない。だが、悠介という得点源を抑えられ、息苦しいバスケを強いられているうちとのびのびと動く相手を見れば、試合の行く末はもう決まったと思われる。
ハーフタイムに入ったお互いのチームの雰囲気もお互いに違っている。
こちらはお通夜のようだ。暗い顔のメンバーが黙々とがシュートを撃っている様は見ていて痛々しい。
「れーんー……」
「辛そうだな」
「他人事じゃねぇぞぉ……!」
悠介が俺の背中をボールでごつごつと突いてくる。
あれだけ息苦しいバスケを強いられたならさもありなんと言えた。
「他人だからな」
「ひっで」
「実際試合出てねぇし」
「そうだけどな……」
そこで悠介の目線がちょこちょこ別の場所へ向けられていることに気付く。
どこだろうと彼の目線を追うと、体育館の二階、観客の居る場所だった。
「誰か見に来てるのか?」
「いいや?」
「じゃあ、なんで上ばっかり見てるのさ」
「ちょっとな──いだっ!?」
意味ありげににやける悠介。
なんとなく苛立ったので額を小突いておいた。
誰かが通った後なのだろうか。
普段は締まっている校門が半分ほど開いていた。
どうせ開けるなら全部開ければいいのにと思いながら、私はその間をすり抜けて校舎へと入る。
手持ち無沙汰になってスマホに目を落とした。
通知欄に表示されているメッセージ。既読だけつけて放置した代物。
『明日、俺らの試合なんだ。見に来てくれないか? それか蓮に一言を声かけといてくれ。あいつ、文化祭から調子悪いみたいでさー』
送り主は悠介と記されていた。
名前は知っていたけど、何のツテもないのにどうやって私の連絡先を知ったのかが疑問で、少し恐い。
それよりも目を引いたのは、追い打ちの如く送られた次の文面。
『蓮に助けられたんだ。義理くらいは通せよ?』
そう言われては無視することも出来ない。仕方なく、私は重い腰を上げて祝日の学校に来ていた。
義理。一応は絵を手伝うことで返したつもりだったが、そのメッセージを目にした瞬間無視できなくなった。
その言葉にこうも縛られるのは腹立たしいが、過去に選んだこの道を間違っていないと証明する言葉でもあった。だから私は義理だけを果たしにここへ来た。
「おや? 木藤君じゃないか。確か部活には入ってなかったはずだよね?」
聞き覚えのある声に振り返ると、ラフな服装に身を包んだ樫原先生が立っていた。
「樫原先生……図書室は開けなかったはずじゃ?」
「違う違う、小テストの採点。家だと集中できないからね」
まるで学生みたいなことを言ってのける樫原先生。
いいえ、緊張感のある場所じゃないと集中できないのは人類共通かもしれない。それとなく親近感が湧いた。
「そうですか」
「で、木藤君は何の用かな?」
「少し体育館に用があったんですけど、やっぱり辞めようかなと」
「体育館……あぁ、バスケ部が試合会場だったね。……もしかして海崎君かな?」
「いえ、黒木君ですが」
思わず即答してしまう。それを聞いた樫原先生がにやけるのを見て答えを間違ったことに気付いた。
「これでも教師だからね、顛末は聞いてるんだ」
「それが、何か?」
自分でも声が底冷えているのを分かってしまう。
まるで図星を突かれたみたいな自分の振る舞いにため息を吐きたかった。
「そうだね……体育館に行かないなら図書室に来ないかい?」
「……セクハラですか?」
「言いたいことも言えない世の中って難しいね……」
「すみません。調子に乗りすぎました」
「……構わないよ。ちょっと冗談にしては怖いけれどね」
「……本当にすみません」
普段はこんなことを言わない自覚はある。言ったのは樫原先生が比較的気心のしれた相手だからに他ならない。
「気にしてないさ。それにね、君が冗談を言える程度に柔らかくなれたのなら僕としても嬉しいからね」
「……」
色々と見透かされている。私を変容させた人がいることと、私の変容を受け入れてくれる人がいることが無性に恥ずかしくなってくる。
否定できる言葉を持たないまま、私は樫原先生の後を着いて行った。
「せっかく学外で友達を作って欲しいからバイトを勧めたのに、君はちっとも変わらなきから、こっちも心配だったんだよ?」
「……それは、すみません」
「気にしなくていいさ。それに、少しは変われたようだ」
「……何がです?」
「君にとって、学校は勉学に励む場所以上の価値を持たない。それなのに休日を消費するほどの何かがあった」
「別に、少し呼ばれただけです」
スマホの通知欄を見せる。
文面に思うところがあったのか、先生は少しだけ眉を持ち上げた。
「なるほど。……で、どうして試合を見に行かないんだ? 知らない仲でもないだろう」
「それは……」
答えに窮する。
義理だからと答えればいいだけなのに、自分でも理由が分からない。
「何となく──顔を合わせたくなくて……ええ。そういうことです。」
口をついて出たのはそんな答え。
けれど、ある種の真理を突いていた。口にしてから自分でも腑に落ちた。
彼は私を拒んだ。海崎さんが私の偽善嫌いを忘れるはずもない。
なのに、わざわざ口にした。拒絶以外の何が当てはまるのか私には分からない。
言葉にしてみれば自分の考えが纏まっていくのが分かって安心する。
私が築いた論理的防壁に隙はない。
「……それで逃すのかい?」
「──どういうことですか?」
だと言うのに、先生がその防壁の穴を探すが如く質問をしてくる。浮かべている微笑は崩れない。手の平の上で転がされているようでムカついた。
同時に、私の知らない隙があるのだろうかと謎の焦りに襲われている。
「怒らないでよ。……君は知っているだろう? 人間が意外と馬鹿な行動を取ることを」
「先生もその人間では?」
「そうだよ。だから僕だって間違いを起こすんだ。友達なんだろう? 一度の間違いくらい許してやればいいさ」
「まち……いえ、彼とは友達じゃないので」
断言した。少なくとも私と彼の中で私たちが友達に値する関係を築いていないのは確実だ。
『似たようなもんかな、友達はプライベートで時間を割ける相手、親友は心置きなく話せる相手だ』
以前、彼が私に友達がどうのと聞いてきたときに彼が言った基準。
そして、私が言った基準は──
『友達は……その人に時間を割くことを厭わない人、かしらね』
胸の内で思い出した。
そして、その基準に彼は当てはまらない。
私と彼の認識に穴はなく。違いもない。だから私の行動は間違っていない。
防壁の点検は捗り、穴がないことも確信した。
「友達じゃない、ねぇ。……どうしてだい?」
けれど、先生は絶えず聞いてくる。論理の防壁に囲まれているはずの私に、外から尋ねてくる先生の声は何故かよく聞こえた。
それが何故か分からないまま、質問に対し海崎さんとの会話を思い浮かべる。
「私たちはお互いがお互いのために時間を割くことはしてないからです」
これが私なりの結論だった。
完璧だったとも思う。
けれど、先生は呆けたのか私の顔をぼーっと見つめている。
「……ははははっ! それ、本当に言ってるのかい? ちょっとおかしいよ」
「ど、どこかですか」
理解できない。なぜそこまで笑わられるの。
「だって、君は貴重な休日を使って学校まで来てるじゃないか」
「それは……あくまで義理だからです。何の対価もなくやった訳では……」
一理あるとも思いつつ、反論を返す。口にすることで考えが纏まっていく。
そう。時間を割くと言っても義務的なら関係ない。 防壁の修復はすぐに済むのだ。焦る必要もない。
「木藤君がそうだとして、海崎君はどうなんだい? 彼は君のために貴重な放課後を消費して絵を描いたんだろう?」
「……」
「ほら」
それは、私も未だに理解できない話だった。けれど、彼はこうも言っていた。
「いえ、彼は……偽善と、言ってました」
「馬鹿だなぁ」
「何がですか」
「ちょっとした良いことなら分かるさ。みんなに良く思われるような。皆が思う善。でも誰もやりたがらないような善。それが偽善さ。嘘臭い善ってやつ」
「はぁ」
「海崎君が言う偽善は本当にそれかい? クラスの、大衆の前で罪を被ることが偽善なのかい? いいや、違うね。誰かのための自己犠牲だ。決して多数に良く思われるための──嫌われない為の偽善じゃあ、ない。」
「……」
今度こそ反論は思い浮かばなかった。
だって、だから私は聞いたのだ。
けれど、彼は何かを隠すように偽善だと言った。
その真意は分からないし、分かりたくもない。
彼が隠すと言うのなら、私も見て見ぬふりをするだけ。
たとえ、私がそれを暴きたいと思っても無視するのが最良。
私達はそうやって心地よい距離感を築いていたはずだった。
「まずね」
「……はい」
「大事なのはそこじゃないんだ」
「そこ、とは?」
反射的な、義務的な相槌を打つ。
「知り合いだから? 友達だから? 恋人だから? だから、手を貸すのかい? 理由はそこじゃないだろう? 君たちがどんな関係であるかなんて──関係ないだろう?」
先生の言葉で、私の中の考えが洗練されていく。
きっと頭の片隅で分かっていた答え。形になったその答えを聞くため、無言で耳を傾けた。
「誰かを助けたいから助ける。誰かと一緒に過ごしたいから時間を割く。それを妨げるものなんて、ないんだよ」
暖かいコーヒーが容易く砂糖を飲み込むように、その言葉は胸にすっと入って来た。けど、それを認めると言うことは彼の行動と私の行動に聞きたくない理由を与えられたようで……気付けば無意識に反論していた。
「ですが、そこに主観は混ざります。好感はその最たる──」
「それだよ」
「……?」
「客観的な関係。友達だとかは理由にならない。理由になるのは君が言う主観的感情だ」
「……っ」
息を呑む。
理解していた。けれど、目を逸らしていた事実。
「君は義理を理由にここへ来たと言った。よね? けど、君がわざわざ休日を使ってまで果たす義理なのかい?」
「……ええ。それなりに、助けられたので」
「それは、海崎君がそう望んでいるからかな?」
「……いえ」
「君がそうすべきだと思ったからか?」
「……はい」
そうだ。そうだった。
「君が能動的にそうすべきだと思った。うん……もう分かってるよね?」
「……はい」
「じゃあ、行っておいで」
「……はいっ」
私達はいつの間にか廊下で立ち止まっていた。私は先生に礼をして踵を返した。
ローファーが廊下を踏みしめる硬い音だけが響く。
能動的……。それは聞き覚えのある言葉で、
『……まぁ、分かるぞ? 恋が受動的なのに対して、愛が能動的みたいな感じ、だろ?』
海崎さんとの馴れ初め、私が考える恋と愛についての話を聞いた彼の言葉。
私達はいつの間にか、お互いに対し能動的に動いていた。
それが例えどちらかが先に始めて、その返報も含めた結果だとしてもだ。
私達は愛し合っていた。そう聞けば、大半の人は鼻で笑うに違いない。
だけど、そうじゃないのだ。この愛は決して性的だとかのものではなくて、異性に対するものではなくて、友愛に近い。
けれど、私達は友人じゃない。
でも、それでいいの。
見返りでも返報でもなくて。
私は、彼の助けになりたい。
気付けば早足になっていた。