期待と信頼
「ハイッ!」
右サイドのスリーポイント上。ディフェンスを振り切り、短く叫ぶ。フリーになっていることを教え、中央からパスを貰った。
リング下のセンターが上手く移動してリングまでの道を作ってくれている。
息を止め、全身の筋肉をフル稼働させてドライブ――ドリブルで突っ込む。
当然、一瞬振り切ったディフェンスが立ちはだかる。
前でドリブルをするために突き出していた右手でボールを手前引き寄せながらバックステップ。
追いかけて来たディフェンスは緩急について行けず、慣性に体を縫い留められる。
スリーポイントライン上。そして、フリー。
なんども繰り返した黄金パターン。そのパターンはシュートまで続いている。
何度も繰り返したルーティン。止めていた息を吐き出すと同時にボールを撃つ。
手に残る後味が慣れ親しんだものであることを知覚して、確信を得る。
ボールは弧を描き、見慣れた軌道を進む。ネットに擦れ、聞き慣れた音を立ててリングをくぐった。
俺にマークしていた相手は人数の都合で二年生だった。
いくらスタメンに選ばれてないとはいえ、一年の差は大きい。
気持ち良くシュートを決め続け、その日のゲーム練習は終わった。
「ナイッシュッ」
モップをかけていると、あとから来た悠介が俺の肩を叩く。
「スカッシュみたいだな」
「人が褒めてんのに、なんだその言い草ぁ!」
「で、一軍の練習はどうだったんだ? 見た限り調子はいいみたいだけど」
人数の都合というのはつまるところ、一軍二軍の話。
白石先生が付きっ切りで見るのは一軍。勿論役割の都合だとか、練習の都合もあるので明確な区切りはない。
「もう引退も見えて来たからなぁ。新任の癖してうるさいのなんのって」
「大変そうだなぁ」
「言っとくけど、他人事じゃねぇからな?」
最近よく見るようになったニヤニヤ顔を浮かべる悠介。嫌な予感がする。
「今日の動き、完璧だったろ? 相手も相手だけど、先生が目ぇつけてた」
「うわー……」
「いいじゃねぇかよ。引退試合をベンチで過ごす気か?」
「どうせ、負け試合になったら出してくれるだろうに」
バスケは好きだが、正直中学の頃程の熱量が消えている。今更一軍に上がった所で、足を引っ張るだけだろう。口を突いて出たのは消極的と取られても仕方のない言葉だった。
「中学の頃からそんな感じか?」
「……いーや?」
「まっ、中学と高校じゃあ考え方は変わるか」
中学の頃はもっと純粋で、もっと善であろうとしていた。
それは自分からそうであろうとしたというよりは。
「知らないことが多すぎたんだよ。ある意味幸せだったかもな」
ただ、それだけ。
周りの言葉以外のものを知らなかった。
親の言うことが正解と限らないことを知らなかった。
解は一つに定まらないことを知らなかった。
「今は?」
「……知らぬが仏ってよく考えたよな」
昔の人はよく考えたと思う。
この世はいかにやるせない。そんなこと、高校生の身で言えることじゃないし、現状の打開に全力を尽くしたこともない。だって、真面目に頑張らずともどうとでもなることばかりなのだから。
「そうかい」
呆れ顔で悠介がモップを持ち上げ、埃を落とす。掃除機を構えて待っていた一年生が落とした埃を吸い込みに来ていた。
いつのまにか、端から端まで掃除を終えていた。相変わらず、ひねくれた考えは時間を忘れさせる。
無言で後に倣った俺に向かって悠介は言葉を続けた。
「実際、スポーツは論理で固められるわな」
「だろ?」
悲しいことに、精神論は脆い。気迫で流れを変えられるのは同じく、精神論を信じる人で。論理を固めた人間にはそう通らない。いくら叫ぼうと技量が急に変化するわけじゃない。ポテンシャルを引き出すためならばあり得る選択肢か。もしくは相手のミスを誘うのか。
それならば論理に基づき、ルーティンを組み、どんな状況下でもポテンシャルを発揮し続ける自己を作った方がいい。
「けどな、試合には流れがある」
「……」
「お前が信じなくても、俺は信じる。だって、俺はお前に流れを作られて負けたんだからな」
ニッと白い歯を見せ、悠介が笑った。微塵も陰りを感じさせない笑顔が妙に眩しくて、磨いている体育館の床に目線を逃がした。
「……過大評価だろ」
「お前が自分を過小評価してんだよ」
「そっすか」
肯定するにはむず痒くて、否定するには冗談に聞こえない言葉。
だから、曖昧に頷いて誤魔化した。
「ご期待に添える自信はないぞ」
「期待じゃないね」
思わず首を傾げる。一軍で活躍すると思う。それは期待と言わずしてなんという。
「期待だろ」
「これは信頼」
「……」
信頼――信じて、頼る。
字こそ違えど、結局誰かに望みを託して待つことには変わらない。
「何が違うんだよ」
「さぁ? なんとなくーってやつ。それこそ、いつもの捻くれた思考を発揮して考えれば?」
悠介が意味深に口端を吊り上げた。自分はともかく、人に言われるのはうざったいことこの上ない。
「捻くれてない」
「捻くれてないやつは恋人がうんたらとか言わねぇ」
「……」
それについては何も言えなかった。きっと、大抵の人間はスルーする問題。
けれど、与えられた答えだけを信じて来た人間にとっては別だ。
一面しか知らないあらゆるものへ、疑問がふつふつと湧き上がる。それは、なぜ、なぜとせがむ幼児の如く。
多分、自分が納得できていないだけなんだ。
普通の人は折り合いをつけて、諦めて、野ざらしにする話。
その一つ一つを納得しないと済まない。
――やっぱり捻くれている。
「確かになぁ」
「認めるのかよ」
「うん」
捻くれているか否か。それはもうどうでもいい。
それより――気になることが出来た。
「なぁ、期待と信頼って、何が違うんだ?」
「……急にどうしたの?」
六月、第四週月曜日。作業が一息ついた隙を狙い、木藤に質問を投げかけた。
「ちょっと、気になったから」
立て看板は随分と仕上がって来た。あとは細かい塗り残しや、塗りが甘い場所の補修。簡単なものは俺がやり、難しい場所は木藤がやる。こうやって、関係のない話が出来る程度には余裕があった。
「……少し考えさせて」
せがむ子供に雑な答えを返す親とは違い、出来るだけ完成された答えを探す木藤。
体操服の裾をペンキでうっすらと汚しても尚、彼女の姿は夕焼けに映える。それは鮮やかな長い黒髪のせいか、丁寧な所作のせいか、はたまた彼女の態度のせいか。
手持ち無沙汰になっっている間、刷毛を手の中で弄ぶ。その傍ら、自分なりにも考えてみるが、やはり大した違いはない。
強いて言えば、親から期待していると言われたことはあっても、信頼していると言われたことはないなと気付いたこと。
「例えば」
「例えば?」
「前に、私は貴方に期待したことがある。だけど、その時は信頼していない」
「はぁ」
いつの話かも分からないのにそんなことを言われても。
今の心情を天然水くらい澄んだ返事に込めて返すも、木藤は一瞥しただけで話を続ける。
「この仕事において、私は貴方を信頼している。だけど、期待していない」
「……つまり?」
思ったよりプラスの評価を受けていたことに喜ぶべきか。それよりも彼女の言葉の意味が分からなかった。
「期待は、望み薄なことを相手が出来るかもしれないと願うこと。信頼は、相手が成すことを確信すること。」
「願う……確信する……」
それが彼女なりの認識であることは理解している。
だけど、俺にもしっくりと来る表現だった。
親からの期待は気持ち悪かった。だけど、悠介が言っていた信頼がむず痒い理由だ。
期待はその人の願いを誰かに託している。言い換えれば持っていた荷物を預けること。勝手な話なのは分かっている。だけど、俺にその荷物は重かった。
信頼はその荷物を分けられる相手にするものなんだ。
両者の違いは荷物の持ち主の立ち位置。
勝手に託せる期待は離れたところから眺めるだけ。
荷物を分け合う信頼は隣に並んで歩いている。
自分に適合する考えに修正する。
すっと胸の中で溶けたのを確かめ、思考の海から這い上がる。
「……なるほど」
大きく、頷いた。氷解した疑問に口角が吊り上がるのを感じた。
それを見た木藤が微笑みながら口を開いた。
「ご期待に添えたかしら?」
つい苦笑が漏れる。
――わざと言っているのか?
彼女がどう思っているかさておき、俺は――
「いいや、信頼した通りだった」
くしゃ、とビニールシートに落ちた細筆が音を立てた。
その細筆は木藤の手の中に納まっていたもの。
「……そう」
小さく頷いた木藤が落ちた細筆を拾い上げる。拾い上げた拍子にばさりと髪の毛が前方に垂れた。
それに構わず、木藤は拾い上げた細筆をじっと見つめている。垂れた前髪に隠され、彼女の表情は分からなかった。
「木藤さん、海崎君、調子はどうかな?」
合図もなく、作業を再開しようとした俺たちへ声がかかる。
声の主は残り一人の……大空? ではなく。
先週話した文化委員の二人、中野と角町。前回以来から彼らが毎日覗きに来るようになった。
「海崎、絵はどんな感じ?」
「見ての通り、だいたい出来たよ」
「でも、まだ筆持ってるじゃん。完成じゃないってこと?」
「修正。時間がなかったら辞めてると思う」
「いいじゃん。その調子で頼むよ」
にっと角町が笑う。たった一週間ほどだが、角町の話し方が随分とフランクになった。原因は分からないものの、話しやすいからありがたい。
完成した絵──デフォルメされた動物たちが、風船に吊るされた板に乗り、お茶をしている情景だ。
その絵を挟んだ反対側では木藤と中野がガールズトークをしていた。
軽く進捗の話をした後は、彼らの愚痴を聞く。
大抵は喫茶店の準備を後回しにダンスの練習をするグループ。普段はまっすぐ帰る訳でもないのに、塾を言い訳に帰る人達へのもの。
「十分でもいいし、買い出しだけでもありがたいんだけど……」
「三年だから僕らも強く言えないんだ。なんとかなってるのもあるし」
「案外、私たちがズレてるのかもって話してたの」
二人も根っこは良い人間らしく、曖昧にちょっとでいいから手伝って欲しいという程度。
話しぶりから本心でそう思っているらしい。不公平だとかその辺りの理由を挙げないのは人間的に良い人だと思う。
「難しい話だしな」
ともかく穴はあれど、全体としては致命的な遅れはない。
結局、行事というのは何人かかけたところで進むのだ。出来た穴は誰かの負担となるだけ。それを許すことは周りの人間が許さない。互いが互いを監視する仕組み。
だが、大義名分が出来れば……ということだ。
俺には曖昧な共感しか出来なかった。
「ズレてないわ」
けれど、木藤が口をはさむ。怒気を含んでいるのかと思える断言ぶりだった。
今しがた作業に集中していた木藤が口を挟んだこと、断言したことに中野と角町が目を丸くする。
「どうにも出来ないと口をつぐんでいるうちに、手遅れになる」
顔はこちらを向いていない。けれど、彼女の声は凛と響く。
木藤とはそれなりに過ごすことが増えた。だから俺も彼女のことをそれなりに信頼している。
でも、俺は木藤が怒ったり、喜んだりするトリガーを知らない。
俺たちの関係において、そのトリガーを知ることは必要なのだろうか。
「だから、主張し続けるの。……一人でも多く」
付け加えられた一言。孤高である木藤とは正反対だった。
「……でも、無理矢理はやっぱり悪いから……」
中野の言い分。雰囲気を壊すことを恐れているのだ。角町も同じ意見だろう。
間違っていない。致命的な遅れがないなら尚更。
クラスの輪を乱すことの危険性は去年も今年もクラスを主導したことがある二人なら良く知っている。
同時に木藤の言い分も間違っていない。遅れはある。さらにひびが入れば、イレギュラーが起きれば容易に崩れる。
解は常に複数ある。全くもって度し難い。唯一解のある数学が苦手なのに恋しくなる。
平行線をたどりにたどり、結局その日に答えが出ることはなかった。