第二話 黒幕は誰だ その1
忙しいはずの土曜日だが今日に限って和道以外仕事がない状態だった。杉田も無言で椅子にふんぞり返っている。電話も沈黙を保ったままだ。
「あ~あ、暇だねえ」
管弦は上体を反らしながらあくびをした。
キーボードを叩いている和道が顔を上げる。
「女の子がそれじゃあみっともないぞ」
「やだ、みてたの」
来客用の古びたソファに陣取っていた出かける宛も無い的場が、ゲラゲラと下卑た声で笑った。
「何が可笑しいッ」
的場の下品な笑い声に癇癪を起こした管弦が立ち上がり的場を睨む。
「切り刻むぞ、この野郎」
いきなり右袖からナイフが飛び出す。殺気だった管弦に的場は口を塞ぐ。
「仲間割れはよせ」
杉田は諭すように言う。
一種即発の場面……いきなり電話が鳴った。
素早く管弦が受話器を取る。
「毎度ありがとうございます、何でも請け負いますスケロク商事でございます」
的場は管弦の変わり身の早さに舌を巻いた。
「金四大探偵社の須藤様、いつもお世話になっております。杉田でございますか」
管弦は上目遣いで杉田を見る。出る、と杉田は目で合図する。
「少々お待ちくださいませ」
保留状態の電話を杉田は受け継ぐ。
「須藤社長、ご無沙汰しておりますな。ほう、手伝って欲しい案件があると。……こちらも今忙しいことは忙しいですがね。……で、どんな案件ですか」
電話を切った杉田は上着を掴んだ。
「これから金四大探偵社に打ち合わせに行ってくるが、的場」
「へえ、なんでがしょう」
「出かける宛も無いならお前も同行だ」
「へ?」
「良いから一緒に来い」
杉田はそう言いながら管弦をみる。
「でないと血の雨が降るぞ」
金四大探偵社は日本大通りの喧噪感と違い、裏路地にひっそりと立つ草臥れた感じのマンションの2階にある。
応接室と言うには質素な部屋だ。そこに頭髪を金髪に染めた大柄の男が杉田達と話をしている。
「急に悪いな」
金髪の須藤が煙草に火をつけ杉田達にも勧める。杉田は受け取り、的場は断るように手を振る。
「こんな商売してるとな、どうもストレスが溜まっていかんな」
紫煙を吐き出した杉田が言う。
「御社とは長い付き合いだしな、むげには断れんよ。で、案件とは何だい」
「親会社の探偵社本社からこっち横浜に回された案件でな、素行調査なんだが、こっちも今のところ手一杯でね。断るつもりでいたんだが、依頼主を聞いたら断るにも断れなくなってな、仕方なく引き受けたんだが」
「そんな有名なクライアントかい」
「聞いて驚くな。依頼主はあの御泥木財閥の令嬢婦人だ」
その言葉に紫煙を吐き出そうとしていた杉田は噎せ返った。
「親方、大丈夫ですかい?」
的場は杉田の背中をさすった。咳き込みながら杉田が言う。
「御泥木財閥だって? 日本四大財閥の一つ御泥木かい? ウソだろう。なんでスーパー財閥がこんな名もなき探偵社に依頼をするんだ、冷やかしじゃないだろうか」
須藤はむっとした顔になった。
「ああ、そうだよッ、吹けば飛ぶようなチンケな会社だよッ、ここはッ」
「悪かった、須藤社長、すまん、謝る」
杉田は頭を下げた。
「まあ、本音で話が出来るのはお前さんだけだ。……親会社からとはいえ俺だってなんでだって思うよ。さらに……驚くなよ。素行調査対象は、なんと令嬢婦人の夫、曾太郎だ。一般人からの依頼ならよくあるパターンだし、今までもたくさんやってきた。しかし今回は日本経済を牽引するスーパー財閥だ。一般家庭の痴話げんかとは訳が違う。世間に知れたらゴシップ沙汰だぜ。マスコミが狂喜乱舞するぜ」
須藤の言葉に的場が茶々を入れる。
「御泥木だけに驚きッてか」
須藤が口元を緩める。
「だじゃれを言うのももっともだ。なんで令嬢婦人が旦那の素行調査を依頼するのか。これは何か裏があると俺は睨んだ。しかしウチらでは案件で手一杯と来ている。そこでスケロク商事さんは一時的にウチらの下請けになってもらい、調査をお願いするわけだ。もちろん調査費は即金だ。この前みたいに手形じゃないぜ」
杉田はうっそりとした表情で言う。
「割るのに苦労したぜ」
須藤は二本目に火をつけ、優雅に煙を吐き出す。
「あんときゃ悪かったな。あの時はそれしか無かったからな。しかし本件は違うぞ。手付金として一千万だ」
杉田と的場は驚いた。
「素行調査だけで一千万?」
「あの御泥木財閥の令嬢だ。それで素行が分かるなら安いもんだと考えたに違いねえ。どうだ杉田社長、満更じゃ無いだろ。手付金の他に調査費用や経費は別途出してくれる約束だ。引き受けてくれるよな。な、な、な?」
須藤は半ば強引に杉田の肩を叩き、なんとしても引っ張り込もうとしていた。
「あんたと俺は同じ釜で育った中じゃ無いか」
「それはそうだが」
杉田は腕を組む。
「ヨシッ、契約成立だ」
上機嫌そうに須藤は言うと、大型金庫を開け、札束をつかみ取り、机に積み始めた。あまりの用意周到さに的場は唖然とする。
「持ってけ」
そう言うと厚みのある紙バッグに詰め込んだ。
「近々令嬢婦人と第一回目の打ち合わせしてくれ。令嬢婦人もお忙しい方だから最初の打ち合わせの段取りはこっちでやっとく。名刺も作っとくから、後はあんたに任すよ。それと証拠用に撮るカメラを貸し出すぜ。こんな高価なカメラ、持ってないだろ。ほら、これは関係資料だ、これも渡しとくぜ。極秘資料だからな」
受け取った杉田は身を乗り出し、にやりと笑う。須藤に気がつかれないように、あるものをポケットから取りだし机の下に貼り付ける。
「社長に聞くが……」
つられて須藤も笑う。
「何だ」
「金四大探偵社としてはいくらで請け負ったんだ?」
須藤は素直に白状した。
「アンタにはかなわんな、二千万だ、その半分をあんたに渡したんだ」
「ほう、そうかい。遠慮なく受け取るぜ」
「社長、この札束は一体何だね」
和道は一千万の札束を目の前にして杉田に尋ねる。
「今回のクライアントからの手付金だ」
黒川のサングラスが光る。
「手付金などは受け取らないのでは?」
杉田は頭を掻いた。
「黒川君の言うことはもっともだ、社訓に反する。しかし我が社の財政を考えると、今日ばかりは背に腹は代えられん。理想ばかりじゃな。……瑠那、今日全社員が揃うのはいつ頃かな」
杉田の言葉に管弦はホワイトボードを見つめる。
「六時過ぎには揃うと思うよ」
杉田はキッパリと言った。
「全員が揃ったら早速会議を催すことにしよう。これは我が社にとっても重要な会議になるぞ。さて、会議の準備を行うので、和道と瑠那、手を貸してくれ」
閉店後、全員揃ったところで会議が催された。……と言うより、事務所の机には寿司やオードブル、ビールに日本種、ワイン等が所狭しと並べられ、さながらパーティの様相だ。応接用の机にも夥しい酒があふれ、皆、わいわいと騒ぎなが大いに飲み食いしている。
禁煙の張り紙が掲載されているにもかかわらず、事務所中煙でモウモウとしている。
願成寺はぐいっとビールをあおった。
「お代わりある~?」
「自分で取れよ」
傍らでは顔色一つ変えない伊東がひとり、椅子に座り煙草をくわえながら、一升瓶を抱えている。
管弦は伊東の横にドスンと腰をかけた。管弦は顔が真っ赤だ。
「銀ちゃ~ん熱燗にしよッか~」
「いや、冷やでいい」
「一人酒って美味しい~?」
「ちびちびやるのがな、良い」
「おいっ瑠那、お前、未成年者だろう、呑んでいいわけないだろうがっ。喰うだけ喰ったら早く自室に戻れっ」
杉田の怒鳴り声に管弦はギャハハと笑う。
「仲間なんだし、いいじゃ~ン」
「良いわけないだろ、この不良娘」
騒ぎを余所に、蔵前は黒川のためにいくつかにぎり寿司を皿に取り集め、左手に持たせた。
「クロちゃんドウゾ」
「ありがとう」
「足りなかったら言ってね」
「すまない」
喧噪感と煙草の臭いで黒川は気分が悪くなりそうだ。グローリーも人間の馬鹿騒ぎに辟易している様子が見て取れるようだ。しかし静かに時を過ぎるのを待っている。因みに黒川と蔵前は下戸である。
酔っ払っている祖父江が御手洗に命令している。
「さあ、龍馬喰え呑め。こんなことめったにないぞ」
「龍馬じゃ無いよぅ雄馬よ雄馬。この酔っ払い~ぃ」
ワインを取ろうとした祖父江の足下がふらついた。その拍子にグローリーの尻尾を踏みつけた。
「おっグローリー、ごめん」
訓練が行き届いているグローリーは異に返さない。しかし彼にとってこれは試練かも知れない。
酔っ払った管弦がソファに身を投げ出すと、短いスカートが翻った。
それを見た願成寺が慌てて管弦のスカートの裾を引っ張る。
「これ、一寸、瑠那ちゃん、スカートがめくれてパンツが見えるよ」
「えー、やだ-やめてー」
「だから、戻れと言ってんだッ……おい、的場の姿見えんが」
「事務所の隅で酔い潰れているようよ」と寿司を頬張りながら御手洗。
杉田は持っていた煙草をもみ消す。
願成寺は顔を真っ赤にしてつまみのさきイカを咥えていた。
「あたしンとこのいとこの子が御泥木学園幼稚園部に入学しているんだよね~」
杉田はワインをあおった。
「御泥木学園は幼稚園から大学院まで一貫教育を実施している。学校を出た大半の学生は御泥木銀行や商社、技術研究所等財閥関連の場所に就職することが前提になっているようだな。すると願成寺のいとこさんの子は将来安泰だね」
「そんな事、無いよう」
願成寺が口をとがらす。
「幼稚園から振り分けが始まってるらしいよ。頭悪いと直ぐに退園されるようだし、それに学費が高いらしいね」
和道は思い出したように言う。
「私は仲間四、五人と組んで御泥木銀行しぶしぶ支店に侵入を試みたけど、システムが頑丈で破れなかったことを思い出すよ」
ふらふらと管弦が起き上がった。
「四大財閥のひとつって言うことは聞いてるけど、そんなに凄い~?」
蔵前が口を挟む。
「あら、知らない? 銀行、商社、建築、土木、通信情報開発、総合病院、製薬、原子力発電、何でもござれのスーパー財閥よ。話によるとロケットを飛ばしての宇宙開発も目論んでいるようね」
和道が続ける。
「日本の全産業の売上のうち三分の一が四大財閥が占め、その中の半分を御泥木財閥のようだ」
「へ~そ~なんだ~」と管弦は言いながら、傍らにあった缶ビールの蓋を開け口をつけた。
「俺も知らなかったぜえ」と祖父江がぼそりと言う。「それより、瑠那、飲み過ぎだぜ」
管弦は異にも返さない。「今日は楽し~い」
杉田が言う。
「瑠那、やめろ。蔵前、連れてけ。未成年者に呑ませた事がバレると大変だぜ……で、今回の依頼だがスケロク商事は一時的に探偵社のセクションの一つになるんだが……かなり荷の重い仕事になるようだ。対応を間違えると我が社は消し飛ぶことになるだろう」
伊東が珍しく発言した。
「親分、そんなヤバいことなんで?」
酔っ払った管弦がニコニコ笑う。
「そんな事、後で良いからさ~呑も呑も。ワインちょうだ~い」
「瑠那ちゃん、一緒に部屋に戻ろうね」
蔵前の誘いに駄々っ子のように騒ぐ。「やだよー」
突然、事務所のドアが大きな音を立てた。吃驚して全員がドアを見る。
「何やってんの、みんなッ」
女の金切り声が轟いた。事務所が静まりかえった。飛び込んできたのは、地家優子だ。
杉田が陽気に言う。
「やあ、寺家先生、お帰り」
それを合図のように皆、口々に言う。
「ああ、ドクター、お疲れさまです」
しかし地家優子の怒りは収まらない。
「久し振りに帰ってきたというのに、この有様は何? 事務所で宴会なんて信じられないわッ」
酔っ払った杉田が言う。
「まとまった金が入ったんでね」
「まとまろうがまとまらないが、事務所ではあるまじき行為よッ。ここは曲がりなりにも会社でしょッ! いつからここは宴会場になったのよッ!」
「いやあ、それはそうだが……」
杉田はあまりの剣幕に言い淀んだ。
しかし寺家は言うだけ言うとにっこりと笑った。
「あたしも混ぜて」
全員から歓声が上がった。
宴会は、いや、会議は、深夜まで及んだ。
翌朝七時。黒川とグローリー、蔵前はあまりの荒れ果てた事務所を無言で立ちすくんでいた……。
「酷い有様ね……」
黒川も同調する。
「説明しなくても分かるよ。この空気感と酷い臭いで気分が悪くなる……」
この日、ケロク商事は臨時休業となった。
閑静な住宅が立ち並ぶ一角にそれとは不釣り合いな白亜の豪邸が丘の上にそびえている。ここは日本四大財閥の一つ御泥木財閥の最高顧問御泥木曾太郎総帥の屋敷だ。地元では『オドロキ御殿』と呼ばれている。
スケロク一号車に乗っている三人は、高い塀の前に設えてあるかなり頑丈な鋼鉄製の門の前にきた。その高い塀に囲まれて中の様子が全く見えない。しかし丘の上に確かに白い建物が見えている。
「かなり広大な土地のようですね。どれくらいの平米数があるのか分かりませんな」
二日酔いの和道は汗を拭いた。
「凄いなあ、あちこちに防犯カメラがありますわなあ。塀も高すぎてちょっとやそっとでは入り込めないつくりでっせ」
的場は三メートルは超えようかという高い塀の周辺を見回した。
「日本四大財閥の一つに数えられているからな。兎に角御泥木邸に行くには丘を上っていかないとならないようだ」
警備服を着た二人の屈強な体躯の男が近づいてくる。
「御泥木邸に何かご用ですか」
この屋敷の警備員だ。物言いは穏やかだが、目つきが鋭い。一人がしげしげとスケロク一号車の、あちこちにさびが浮き、ぶつけた後や掠った傷が多く残る車体を訝しげにみていた。
「御泥木弥生様と面会に訪れた金四大探偵社です。この二人は私の部下です」
運転席の杉田はそう言うと二人の目の前に名刺を差し出した。
「話は伺っております」
一人が所持していたリモコンを操作すると、巨大な鉄の門扉がゆっくりと音も無く左右に開いた。
「どうぞ、車ごと中へゆっくりとお進みください。カーブが多いので気をつけてください。事故を起こされてしまいますと後々面倒なことになりますので。登り切ると正面左側に車庫があり、何処でも良いので止めてください。執事の岡田が玄関でお待ちしてます」
うっそうと茂っている林の中をゆっくりと進む。それも丘の上なので、カーブを曲がりながらゆっくりと進めるしか方法はなかった。何故か玄関に至る道は細く、未舗装であり林道を走っている錯覚に陥りそうだ。
「ここの家主は相当自然が好きなようだな、社長」
和道の言葉に杉田が反応する。
「何故こんな曲がりくねった道なんだろう? 侵入車両を防ぐためか。しかしここが前庭というのだから先が思いやられるな」
車を降り荘厳華麗な装飾が施されたやはり巨大な鉄の門扉の前に三人は立った。
突然、門扉上方に埋め込まれているスピーカーから声が響いた。
「どうぞお入りください」
年配の男の声が聞こえたかと思うと、自動的に扉が重々しく開いた。
「ようこそお越し頂きました」
さらに扉の奥、玄関ドアが開き、黒いスーツを着込んだ頭髪の薄い五十代半ばと思わせる男が顔を出した。
「どうぞ靴のままお上がりください」
玄関といえども広大な吹き抜け天井に豪奢なシャンデリアが煌々と輝き、スケロク商事一行を迎える。
微かに香る香水のような匂いが鼻腔をくすぐる。
長く続く廊下はその先が見えないほど遠い。左右にはいくつものゴージャスな布張りの大きな扉がいくつも閉まっている。
めまいを起こしそうだ。
「どうぞこちらへ」
とんでもなく広い応接間に通された。
「お嬢様をお連れ致しますまで、どうぞご自由におくつろぎください」
そう言うと男は扉を静かに閉めた。
あらためて和道達は広々した応接間に見回した。
ふかふかの絨毯が足にのめりこみ、土足で歩き回ることに抵抗を覚えるほどだ。さらに夥しくも整然と並べられている家具調度品の類に杉田達はそのスケールの大きい応接間に驚く。
和道は特に巨大な女性の裸体彫刻に目を見開いた。
「これはアンタ・ダーレの彫刻では? もし本物なら数千万は下らないんじゃないか」
和道の言葉に的場はその彫刻を値踏みした。
「多分本物だあね。それにそれ、国宝級のお宝があっちのもこっちにも」
杉田が言う。
「おい、的場」
「ヘイッ」
「盗もうなんて魂胆を起こすんじゃ無いぞ」
的場は両手を大きく広げる。
「わかってまさあ、親方。トンデモナイしろモンばっかりで売りさばけませんや、一目で盗品と分かれば闇商人も手を出しゃしませんって」
程なくしてドアがノックされた。先ほどの中年男性が顔を出し、深々と頭を下げた。
「令嬢婦人がおいでになりました」
男はそう告げると促すように手招きする。
「弥生様どうぞお入りください。金四大探偵社様ご一行がお待ちかねでございます」
三人は息を呑んだ。純白のドレスに身をまい三人を圧倒するオーラを醸し出している妙齢なご婦人が入室してきたからだ。右手には白鳥の羽をあしらった、大きく広げられた扇子を優雅にゆっくりと煽っている。
扇子を畳み女性は頭を下げた。
「お待たせして申し訳ありませんわ、金四大探偵社様。私は当家の妻、弥生と申します。皆様そこの長椅子にお掛けください。岡部、お茶の用意を」
「かしこまりました」
岡部と呼ばれた男はまたもや深々と頭を下げ扉を閉めた。
前もって渡されていた資料では五十近い女、と言うことだが、かなり若く見える。背は高く優雅な物腰、そして何より美形だ。コンテストなら必ず優勝するに違いない。
「失礼します」
岡部がメイドとともにワゴンを押しながら人数分の紅茶を用意して入室してきた。目の前の豪奢な机に深みのある紅茶が置かれた。
「本題に入る前に、どうぞお紅茶、お召し上がりくださいな」
並み居る全員に紅茶を啜る。配り終えた岡田達は速やかに退室していった。
注がれている紅茶は、普通ではあり得ないルビー色の深い色合いであり、馥郁たる香りは鼻腔をくすぐり、口に含んだ際に広がる豊潤な味は一般庶民では決して味わえない豊かなコクとまろみを持っていた。……三人は天にも昇る心地だった。
一段落すると杉田は名刺を差し出した。
「金四大探偵社取締役副代表杉田耕一です。この者達は私の部下で、和道啓太、的場喜一です」
二人は頭を下げた。弥生は柔やかに微笑み一同を見回した。
「宜しくお願い親しますわ、皆様」
しかしその目は笑っていなかった。優雅な挨拶だがその裏では値踏みをしているようだ。
「こう申し上げるのはいささか恐縮ですが……」
杉田は言う。
「吹けば飛ぶような弊社にご依頼をかけるより、御泥木財閥の力を持ってすれば如何に総帥閣下といえど速やかに解決出来ますでしょう」
「そうおっしゃるのも分かりますわ。内部調査機関では、如何に極秘扱いとしてもいずれは曾太郎の耳に入ることは明白の理でございます。内部に通報者が出るとも限りませんし、いくら曾太郎の妻、と申しましても離婚などと言うような生やさしいものではなく、事と次第によっては、業界からの追放も曾太郎にとっては容易いことですわ。その点外部からの調査ではかなり有効になると思っておりますのよ」
「分かりました」
「では本題に入りましょう。曾太郎にやましい点があるのではないかと常々思ってまいりましたが、主人の情報端末にとある若い女性が映っていたのでございます。執事長の岡田に調べさせたところ御泥木物産庶秘書課の沢木田興子、この女性が曾太郎と何か関係があるのでは、と疑うようになりましたの……」
御泥木曾太郎の妻、弥生はおっとりとした口調だが、芯が強そうな確信に満ちた語りかただった。
机においてあるすずを取り上げ、鳴らすと岡田がやってきた。
「お嬢様、お呼びで」
「資料封筒をこちらへ」
「かしこ参りました」
程なく岡田は大きめの茶封筒を持ってきて、弥生に渡した。
「この女性が」と言いながら封筒から数枚の写真を見せる。「沢木田興子です」
四十代後半の髪の短い女性が映っている。正面、横顔、背後と写真がある。
「秘書課ですので曾太郎と打ち合わせなど頻繁に顔を合わせておりますのよ。参考にしてください」
弥生は封筒に入れ、杉田に渡した。
「その他の参考資料も入れてありますので、お使いくださいませ……それと私と長男で明日秋田方面に出張致しますので一寸不在になりますわ」
「お帰りになる日時は」
「こちらに戻るのは四日後の午後六時の予定ですわ」
草臥れたワゴン車を運転しながらの帰宅道中、和道が杉田に問いかける。
「いくら何でもねえ社長、危険な臭いがプンプンしますよ。あの令嬢婦人は私たちを出汁に使って自ら手を下さない、という感じですかね。総帥に知られても、金四大探偵社が勝手にやったのだから、知らない分からない、とこっちに罪を着せるような感じだね」
「やはりそう思うか。的場はどう思ったかな」
「立派な家具調度品で驚いてまさあ」
和道は呆れた。
「社長、人選間違ったようだな」
社に戻った杉田は早速祖父江と御手洗、伊東を呼んだ。
「君たちは今日から曾太郎素行調査班とする。専従班だ、他の仕事はしなくて良い。これから作業内容を説明する……」
説明を聞き終わった祖父江が言った。
「浮気の調査ッて事ですね、ボス」
「そう言うことだな。和道はできるだけ情報を集め専従班に渡せ。本日の曾太郎の居場所は掴めているかい」
「令嬢婦人から頂いた書類の中にはこれからの予定がびっちりと書かれているよ。たいしたものだな。それによると、今晩は御泥木道玄坂ホテル三番館最上階VIPルームに午後十一時に投宿する予定だな」
杉田は時計を見る。
「よし、ちょうど良い。曾太郎班はホテルに向かえ。スクープ写真を撮ってきてもらおうか」
祖父江達には携帯と望遠カメラ、スケロク一号車のキーが渡された。そして言った。
「専従班解錠せよ」
「ボス、なんのおまじないですか」
深夜午後十一時。スケロク一号車はホテル正面を見回せる脇の狭い路上で待機していた。
「曾太郎の車、未だ来ないのか」
祖父江の言葉に助手席に座っている銀次は腕を組んだまま無言だった。
後部座席で御手洗が呟く。
「お腹減ったわあ」
祖父江が呆れた顔をした。
「さっき弁当食ったろう」
「でも生きているんだもん、腹は減るんだわぁ」
「五月蠅いな、クソガキ、これでも喰え」
祖父江は御手洗にあんパンを放り投げた。
「一寸ぉ、下手な刑事ドラマじゃ無いんだからさぁ」
「黙って喰え」
そのやりとりに今まで無言だった助手席の伊東が身を乗り出した。
「来た」
祖父江は慌ててダッシュボードにおかれている双眼鏡をひったくる。ホテルマンの動きがあわただしい。
大きな黒塗りの専用車両がホテル玄関先に到着した。後部ドアから御泥木曾太郎が悠然と出てきた。同時にホテル正面から数人の黒ずくめの男が飛びしてくるのを確認した。
「銀次さん、カメラだ」
伊東は金四大探偵社から借りてきた三百ミリ望遠レンズ付きミラーレスカメラを構えた。
「ボス、今到着だ。曾太郎を確認できた」
覗いた祖父江が報告する。
「和道によると明日午前九時過ぎには埼玉の御泥木電気自動車工業に赴く。バレないように後をつけろ」
「了解だ、ボス……うん? 一寸待ってくれ、後からもう一台タクシーが来た」
双眼鏡片手に覗いている祖父江が言う。
「ボス、女がタクシーから降りてきた」
「総帥の今日の動きに女性は入っていない。とすると令嬢婦人か?」
双眼鏡を当てている祖父江は即座に反応する。
「いや、遠目で分からんが……まさか……」
女がホテルに消えていく。連写撮影していた伊東もカメラから目を離し呟く。
「沢木田興子のようにも見えるが……」
「やっぱりそう思うか……ボス、どうします?」
「暫く待機だな。動きがあれば教えてくれ。気を抜くなよ」
「ボス、了解だ……俺が二時間ほど見張っているんで、伊藤さん休んどいてくれないか。二時間後に交替しよう」
「分かった」
伊東は座席を倒した。
御手洗はニコニコしながら身を乗り出した。
「でもさあ、今の女性が沢木田だったらさぁ、むふふ状態じゃな~い?」
祖父江も口角をあげた。
「懇ろになるって訳かい。違いねえな」
しかし一時間も経たないうちに、目を凝らしている祖父江のまえに一台のタクシーが玄関に到着した。
「銀次さん、起きてくれ」
伊東は無言で座席を立たせた。
「タクシーが来た、気になる」
祖父江は双眼鏡を構え、伊東はカメラを抱えた。御手洗はだらしなく寝ている。
程なくして、ホテルの玄関から先ほどの女が出てきた。同時に伊東はシャッターを切り続ける。
祖父江は携帯を握りしめた。
「ボス、例の女が出てきた……乗り込んだぞ」
祖父江は双眼鏡を構え直した。「何処に行くんだ?」
女を乗せたタクシーが正面から移動し闇の道路に消え去っていった。
興奮する祖父江の声とは裏腹に伊東が振り返った。
「誰か来る」
伊東の声に祖父江は咄嗟にサイドミラーを覗く。薄暗い蔭からよってくる二人の警察官を認めた。
祖父江は総毛立った。本能的に危機を感じエンジンをかける……。
突然動き出したワンボックス車に慌てた警官の一人が通信機を取り出した。
「御泥木道玄坂ホテル三号館前、不審なワンボックス車発見。ナンバー不明。大須方面に進行中」
月明かりも無い暗闇の中、スケロク商事の事務所では祖父江達の報告に杉田は聞き入っている。
「逃げ出してすまねえ、ボス。習慣でつい」
「仕方ないさ、計画を練り直すだけだよ。しかし妙だな。いくら財閥のトップでも大統領でも何でもないし。タダの巡回中だったのだろう。……なあ、伊東さん、どう思うかい」
徐に銀次が言う。
「分からねえが、明らかに俺らを……」
和道は伊東から渡された映像をしきりに処理している。
「社長、写真から判別するとまず、到着した男は曾太郎に間違いない」
「そうか、で、女の方はどうだ?」
「女の画像を明るく修正して拡大にするとこうなるが」
拡大された女の横顔が鮮明に写されていた。杉田は呻いた。
「これは……秘書課の沢木田興子だ」
祖父江は確信したように杉田をみた。
「ボス、浮気確定だな」
「間違いなさそうだが……どうも納得がいかんな。時間的に無理があるぜ」
「撮影時間から類推すると、合っている時間は三十分あるかなかいか、だ。常識的にみても、とてもベッドインする時間はないと思うね、社長」
「ふむ」杉田は考え込むように、組んだ両腕を頭の後ろに当てた。
「これを不倫の証拠として総帥夫人に報告するにしても、秋田から帰ってこないと」
三人がやりとりしている最中、和道は御泥木財閥情報をダークサイドウェッブから引き出そうと悪戦苦闘していた。そしてそこで見つけたある一点の記事に目を見開いた。
「社長、面倒なことが起きるようだ」
祖父江と話し込んでいた杉田は和道の言葉に顔を向けた。
「どうした、和道」
和道は興奮した。
「御泥木曾太郎総帥暗殺計画が出ている」
杉田は立ち上がった。
「なんだって?」
祖父江と伊東も和道の前に集まった。
「これをみたまえ。曾太郎を亡き者にしようとしている計画が闇サイトに流れている」
確認するかのように杉田が画面をのぞき込んだ。
「これはどういう事だい……浮気調査と悠長に構えている場合ではないぞ。何時だ?」
「今見つけたばかりだからな、未だそこまでは不明だ。ガセネタと言うこともあるし、これから精査するよ」
「分かった、頼むぞ。……専従班はご苦労だったな、明日は、イヤもう今日だな、今日は一日休んでくれ」
「ボス、小僧はどうしますか」
「そのまま寝かしておけ」
伊東と祖父江が消えた後、杉田は考え込むように腕を組んだ。
「味方も多いが敵も多い、とか言ってたな。待てよ、事業計画を潰される、とも言ってたな。事業計画とは一体? おい、和道君」
「なんだね社長」
杉田の問いかけに画面を見つめながら返事をする。
「総帥は事業計画を潰すため……とか言っていただろう?」
「ああ……確かそんな事を話してたな」
「その事業計画とはなんだろう、そこのダークなんとかで調べることはできないか?」
「やれやれ……それも調べろというのかね、社長。これだと今夜は寝られそうにないな。分かる限り調べるよ」
何か陰謀が渦巻いているようだ……杉田はそう思った。
午前九時。杉田は金四大探偵社の須藤に報告を入れた。
「さすが社長、やることが素早いね。俺なんか出る幕じゃないな。ただ、それだけの証拠じゃクライアントは納得しないぜ」
「まあな、未だ時間はあるんで引き続き調査する」
「ま、頑張ってくれよな」
杉田は電話を切ると和道をみた。
「和道君、今日の総帥の動きは」
和道は書類に目を通す。
「午前九時、御泥木製作所水戸工場視察、十一時御泥木重電製作所で会合、それから御泥木電気自動車茨城工場、昼食を挟んで御泥木商事東京本社で全体会議……めまぐるしくあちこちを回るようだ」
杉田は溜息をつく。
「昨夜は運が良かったのか……」
「昨日はビギナーズラックだな、社長。それに今日はヘリや社用機を使って移動するようだ」
「金持ちはやることが違うな。それと……事業計画は何か分かったかい?」
和道は首を横に振る。
「それも未だ、なんだか分からん。見当もつかんよ」
管弦が愚痴った。
「……和道さん、昨日から寝ないんじゃ無い? 不眠不休だろ?」
和道は言う。
「ハッキングの辞書には就寝という文字はないよ、仕事をやり抜くまでだよ。それより社長、ハッキング仲間を招集したいが、いいかな。とても一人じゃ手に負えないので応援が必要だ」
杉田が答える。
「分かった、許可する。……出費はなるべく抑えてもらいたいがね」
「了解だ、社長。……それともう一つお願いがある」
「なんだい、和道」
「一寸寝かせてくれないかな」
管弦が呆れた。
「ハッキングの辞書に寝るなんて言葉無いって言ったのはどこの誰だよッ」
しかし管弦の言葉を聞くより早く、和道は机で突っ伏した。寝姿を見た管弦はロッカーから毛布を取りだし、和道にかけた。
電話が鳴り黒川が応対した。
「社長、金四大探偵社須藤社長から電話です」
「分かった……」
言われるまま、杉田が出ると勢い込んだ須藤の声が響いた。
「御泥木商事総務部秘書課高田様に至急電話をして欲しい。御泥木商事の御泥木曾太郎から、と言えば分かると」
電話番号を聞き出した杉田は御泥木商事に電話をかけた。
「弊社代表取締役御泥木曾太郎より、明日午後12時御泥木邸にて会食を含めて、相談をしたいことがあります。是非時間を割いてください。総帥はお忙しい方なので」
杉田は返事をし電話切った。
「有無を言わせない口調だな。腹立つぜ」
黒川は諦めるような口調で「下にみている証拠でしょう。何しろ財閥ですからね」と言った。
「逆らうなって訳か……」
次の日、十二時時きっかり御泥木邸の前に和道と共に駆けつけた。この前の警備員が対応しすんなりと屋敷に入り、スケロク号を進める。
屋敷前では同じように岡田が顔を出し招き入れる。この前と違う部屋に通された。そこは全体が白い大広間で二十人は座れそうな巨大な白テーブルの上に三人分、精細な彫刻が施された豪奢な椅子の前にナイフやフォークがずらりと並べられている。二人はひそひそ声で喋る。
「テーブルマナーを知っとくべきだったな社長」
「今更遅い」
左隅に数名の給仕係と年配の帽子を被った男が無言で深々と頭を垂れる。
「杉田様はこちらへ……和道様はあちらの席で」岡田は杉田達に席に着くように促す。全員が座るのを見届けると、岡田はゴージャスな扉をゆっくりと開いた。
「曾太郎総帥閣下、こちらへ……金四大探偵社様、お席に着きました」
黒いダブルを着込み、背筋がピンと張った、重々しい雰囲気を漂わせる、いかにも高価な黒眼鏡をかけ、髪をオールバックに整えた恰幅の良い男が大広間にゆっくりと入室してきた。やはり独特なオーラを振りまいている。
テーブルに着くと、給仕係のひとりが椅子を牽いた。当たり前のように席に着く曾太郎。一同の着席を確認した岡田は、指示を出すように手を振る。
給仕係が一斉に動き出し、奥に引っ込んだ。
曾太郎は徐に口を開いた。
「お待たせしましたな、金四大探偵社殿。依頼の話の前に食事をしていただきたい。御泥木家の家訓の一つとしていかなる来賓でも礼を尽くす。では始めてくれ給え」
野太い声が大広間中に響く。
つぎに料理長が話し出した。
「本日の料理を担当致しました山本と申します。料理の感想など忌憚ないご意見を賜りますので、遠慮なくおっしゃってください」
それが合図かのように各給仕係が大きなお皿を運び込み、各人の前に置いた。暑い湯気が鼻腔をくすぐる。料理長は効能を述べる。
「オマール海老を贅沢に使用し三日三晩煮詰めた濃厚スープでございます。仕上げに卵白を使い、インドネシア産の……」
二時間がかりの昼食会が終わり、二人は前回とは違う部屋に案内された。そこは純和風の部屋だった。日本画に屏風、正面には床の間があり組違いの棚に、掛け軸がかけられている。窓の外は日本庭園が広がっている。
「飯、喰った気がしないな」
ふかふかの椅子に二人は腰を下ろし主を待った。
木製のドアが叩かれ岡田が顔を出した。直ぐに引っ込み、曾太郎が入ってきた。二人は立ち上がった。
「充分堪能して頂きましたかな」
「御泥木曾太郎総帥閣下の歓迎ぶりはそれはもう、言葉になりません。弱小企業の弊社にはもったいない待遇です」
「こちらからお願いしている以上、礼をつくさんとな」
曾太郎は満足そうに笑ったが、急に真面目な顔をした。
「今日お越し頂いたのは妻、弥生が長男の勝彦とともに秋田県女鹿原子力委員会に出席して不在なのだ。そこでこの機会に相談に乗ってもらいたいことがあってお越し頂いたわけだ」
「ご依頼を伺います」
「相談とは、妻の浮気調査だ」
和道が言う前に杉田は和道の足を踏む。「いてッ」。
「どうかされましたか」
御泥木の声に杉田はすました顔をする。「何でもありません。で、浮気調査、とは」
「我が社は味方も多いが、また敵も多い。我が妻は、ああ見えても、……失礼、お目にかかったことがないと思うが、我が御泥木探偵事業部で調査をさせても良いのだが、社内で裏切り者がいないとも限らん。そこで執事長の岡田に意見を募ったところ御社の腕を聞いた。この場合内部調査よりしがらみのない外部の方が良いと提案されてな」
以下長々と曾太郎の話が続いた……。
「かしこまりました。頂いた資料を基にさっそく極秘調査にかかります」
曾太郎は机においてある鐘を鳴らした。
「岡田、客人がお帰りだ。粗相のないように」
「かしこまりました」扉が開き、岡田が顔を出した。
玄関前に到着すると岡田は左右を見回したかと思うと、杉田にそっと名刺を渡す。そこには携帯電話番号が書かれている。
「これは私の私的な電話番号です。何かございましたら、遠慮なくご連絡ください。例え真夜中でも結構でございます」
「岡田様」
「はい、なんでございましょう」
「何故総帥閣下に弊社のことを」
「腕を見込んでのことでございます」
そう言うと岡田はうっすらと笑うような顔をした。
奇妙な振る舞いに杉田は訝しく思ったが、それ以上のことは触れなかった……。
「お互いがお互いの浮気調査って一体何なのさ?」
帰社後杉田の言葉に管弦が癇癪を起こした。
「夫婦でも信じられないってかさ、なんなの、もう。訳わかんない」
黒川が言う。
「それで引き受けたんですか、社長」
「引き受けるも何も、引き受けざるを得なかったんだな。何たって手付金と称して二千万振り込むと言うのだからな、参ったよ。須藤社長に報告すると入金次第、こっちに振り込む、と」
和道は溜息交じりに言う。
「令嬢婦人の依頼調査もままならないのにどうしたものですかねえ」
「兎に角奇妙な案件だがやるしか無いだろう。全員揃った今晩にもに緊急会議を催すことにしよう」
その言葉に黒川は顔を顰め、管弦は柔やかな顔をした。
「ヤッター。宴会ね」
午後七時半、スケロク商事事務所では中華街で作られた豪華中華弁当が配られた。管弦ただ一人は面白くなさそうな顔をしていたが。
「みんな喰ったか? それでは会議を行おうか。夫婦別々で浮気調査をして欲しいという奇妙な案件だ。そこで曾太郎素行調査班と弥生素行調査班に分かれて行動調査をしてもらいたい。曾太郎を調査する班は祖父江と伊東、雄馬。弥生は願成寺と的場。その他のものは通常業務に当たってもらうが進行状態により班に入ってもらう」
「今の話だと弥生さんは原子力何たらで不在でしょ?」
願成寺は巨体を揺らす。
「そうだ。昨日より秋田県女鹿の原子力普及促進委員会に出席している。目的は詳しいことは分からん。よって弥生班は、これから秋田県女鹿に行って弥生令嬢婦人の動向を追ってくれ」
杉田の言葉に願成寺と的場はあっけにとられた。
「これから? 冗談でしょ。それにあたし、明日から二連休だわよ」
杉田は有無を言わせなかった。
「公休日は次にとらせるからスケロク二号車で行ってくれ。場所は普及促進委員会駐車場、到着次第連絡だ。あとの指示はおって出す。兎に角令嬢婦人の動向を調べないとならんのだ」
杉田は机から二号車の鍵と携帯電話、ナップザックを願成寺に渡した。
「中にETCカードと現金十万円を入れておいた。好きに使ってくれていいぞ。ただし領収書をもらってくれよな。領収書がないものは自腹だ」
願成寺はやや不満げだった。
「……あんなボロ車で秋田まで行けって? 途中で故障したらどうすんのさ」
杉田は冷ややかな目つきで願成寺を見つめる。
「了解了解……なんだって人使いが荒いんだから、しゃーないなあ、新人さん、行こ」
「へえへえ」
二人が出ていくと杉田は命令を下す。
「曾太郎班は充分休めたか? よろしい。今晩の曾太郎の動向では監視は難しい事が分かった。昨日は都合良く事が運んだが、成り行きを考えてみると曾太郎にはガードマンが張り付いているようだな。警戒が厳しいと言えるので曾太郎班にはターゲットを沢木田興子に変更しようと思う」
「沢木田興子ッて誰?」
いきなりソファの隅から声が聞こえた。
「なんだ管弦、いたのか。曾太郎の浮気相手とされる人物だが……ははあ酒が出なかったのが面白くないか?」
「ちぇ、つまんねえの」
管弦はぶつぶつ言いながらソファから起き上がり自室に戻っていった。
「未成年者に呑ませるわけにはいかん。と、まあ言った所で……」
杉田は机の下をごそごそとかき回したかと思うと、机の上に酒を並べた。
「飲みながらの会議だ」
祖父江は好相を崩した。
「銀次さんは日本酒だったな。和道もビール、どうだ?」
「充分だね」
景気よく栓が抜かれる。
「でもボス、なんでまた沢木田に?」
「警戒厳重な曾太郎を追うより彼女の動向を調べ、曾太郎の密会現場をキャッチする方が早いと思ったんだがね」
「でもボス、どうやって?」
「和道君、沢木田興子の住所など個人情報、分かるか」
和道は缶ビールを飲み干す。
「御泥木商事のサーバーをハッキングすれば分かるだろうが、それはれっきとした犯罪だよ。ハッキングがバレたら、栄えあるスケロク商事も犯罪集団になってしまう。社員を犯罪に巻き込んでも良いのかな」
杉田は反論した。
「何もハッキングしろとは言ってない。他に方法があるだろう?」
「他の方法?」
和道は怪訝な顔をした。
「私たちは金四大探偵社の人間だろ。今回は探偵社なんだから、それを利用するんだ」
丁度その頃願成寺達は首都高速神奈川一号横羽線を爆走していた。夜とは言え、それなりの交通量だ。
的場は尋ねる。
「願成寺の姉御、秋田県女鹿までどれくらいなんですかい」
「六百キロぐらいかな……午後八時に出たからノンストップでも午前三時過ぎになると思うけど」
「そんなにあるんだあ……姉御、運転は得意なんですかい?」
「得意ッていうかぁ、元々長距離トラックの運転手さ。川崎東扇島を起点に北は北海道網走、南は九州宮崎まで、依頼があればノンストップですっ飛んでいったモンさ。十トンロングで高速を爆走するのは快感だったね」
願成寺は笑う。そして……。
「でも事故っちまってサ、市原交通刑務所にぶち込まれてね……ダンナとは離婚だし娘の親権はダンナにいっちゃうし、養育費は払えないし、気を許した一瞬の事故で転落人生真っ逆さま、サイアク」
「そうだったんですかい、お気の毒でさあ」
逆に願成寺が的場に聞く。
「新人さんってさあ、どうしてスケロク商事にきたんかさ」
「ムショの紹介でさあ」
願成寺は笑った。
「アハハ、あたしと同じじゃん、行く当てがないと言ったら、スケロク商事紹介されてさ、そのまま居候さあ」
「親方、警察関係に結構顔が利くんじゃねえすか?」
「どうなんだろうね、あたしも社長は不思議と思っているけど……ねえ新人さん」
飢えた野獣のような目で的場を見た。
「道中のどっかでラブホ見つけたら休憩がてら入らない? この時間からノンストップで秋田にいくの疲れるし、十万あれば素敵な夜を過ごせそうじゃん?」
的場は笑う。
「わっちぁ、新人だし先輩の言うことに逆らえないでがす」
「じゃ、決まりッてコトで」
楽しい夜が過ごせるはずだったが……午前三時過ぎ。
願成寺と的場は、渇いた風が吹くだけの管理人などいない広い無人駐車場に突っ立っていた。深夜と言うこともあり、がらんとした広大な駐車場には数えるほどの車両が止まっているだけだ。
「チエッ、結局何処にもよらずじまいかよ」
「一気に来ちまいましたね」
的場の声に溜息交じりに願成寺は携帯を鳴らす。程なくして杉田が出た。
「指定の場所に着いたよ、ずいぶんデカい駐車場だね。言われるままに来たけどいったい何処ここ?」
「原子力設備関連の駐車場だ、そこに御泥木特殊車輌製造製の大型リムジンバスはいないか。令嬢婦人専用特別車両でかなり大きく豪華で目立つはずだ」
願成寺は唾を呑んだ。
「じゃあ、そこで浮気を?」
「それは分からんが、令嬢婦人はそこで寝泊まりしているはずだ。総裁閣下と違って行動するときは決まってリムジンバスを使うようだ」
的場が投光器に照らされ、遠くにあるバスを見つけた。
「姉御、アレじゃねえんですかい」
二人は辺りを警戒するようにリムジンバスに近づいた。杉田が言うようにかなり大型なバスで静かだが空調と換気扇の音が響いている。
「あたしもバカでっかい特別車両を運転したことあるけど、こんな大型初めてみたわ」
願成寺の吃驚顔に杉田の声が響く。
「日本でも数台しか製造されていない。特に令嬢婦人車両は唯一だろう。和道の調べによると走る2LDKと言うことだ。その車で充分生活が出来るな」
「やっぱ、浮気にはちょうど良いじゃん」
願成寺は羨ましげだ。
そのリムジンバスを取り囲むように、数台の黒塗りの大型ワンボックスカーが配置されている。的場が中の様子を覗うと、どれも無人だった。
リムジンの前面硝子や左右の大きな窓には分厚い遮光カーテンががかかっており、中の様子は全く分からない。
的場は医者がつける聴診器のようなものを採りだし、耳につけ、さらに車体を撫で回す。暫くして的場は言う。
「中には令嬢婦人はおらんようでがす」
「そんなんで、わかんの?」
願成寺は不思議そうな顔をした。
「これはわっちが苦心惨憺して作り上げた内部調査機材でさあ、それと長年の経験と勘がものを言いやす。……ここはわっちがしらべますんで姉御はスケロク号で休んでてくだせえ」
「そうだ、二人で探る必要は無いな、的場に任せて、願成寺はワゴンに戻れ」
願成寺は舌打ちする。
「分かった、社長、後は新人さんに任すわ」
電話を切った願成寺はスケロク一号車に戻っていった。
『さあて……』
的場は深呼吸し気配を消した。……これは彼一流の空き巣技だ。
バスの車体に聴診器を宛てたり耳を押しつけたり、両手で触りまくったり、忙しなく動いた。
『……なるほど走るって売り住宅って訳だぁな。しかしこの時間でも令嬢婦人は不在? こんな時間で何をしてやがんだ……』
突然、的場は寒気を感じたように身震いした。
振り向くと体格の良さそうな黒ジャケットに身を包んだ男集団がこっちにやってくる。『やべッ』。
的場は左右に首を振るが、投光器で照らされ身の隠し所が無い。
的場は焦った。見つかったら容赦ない仕打ちが待ち受けているだろう。警察に身柄を拘束されるとも限らない。
的場はぐるっと回り、車体に身を寄せる。
心臓が高鳴った。『気配を……気配を消すんだ』
集団の一人から声が響く。
「吉田、どうした?」
吉田と呼ばれた男が答える。
「いや、バスに人影が見えたように思ったんだが」
「こんな真夜中に、か? 弥生様、勝彦様、乗車のまえに辺りを調べますので、どうかそのままでいてください」
集団の中に弥生と勝彦がいる。勝彦は色白で優男の若者だ。勝彦は不安そうに辺りをみている。
男達は腰からステンレス製の頑丈な警棒を採りだした。殴られたら一溜まりも無いだろう。
数人の男がバスを取り囲み、ゆっくりと慎重に調べる。
いきなり一人がしゃがみ込んだ。そして首をグルグル回し、車体の下を丹念に覗く……。
そこに的場の影も無い……。
「異常は無いようだ。ご心配かけました。令嬢婦人、ご子息様、どうぞバスの中へ」
「ご苦労だったわね」
「私たちは隣のワゴン車で待機します。ご安心ください」
「ではお休みなさいませな。明日もよろしくお願いしますわ」
弥生は、しゃがみ込むようにお辞儀をする。誠に優雅な物腰だ。
二人が乗り込む先に調理場あり、コックがひとり恭しく二人を招き入れた。男集団はリムジンバスを囲うように配置されている黒塗りの大型ワゴン車に乗り込んだ。
「奥様、遅くまでお疲れ様でございました。何かお召し上がりますか」
「そうね……グラスワインを一杯もらおうかしら、勝彦、あなたもどう?」
「お母様がおっしゃるなら……」
「山本料理長も如何かしら? お疲れでございましょ、長く待たせてしまったから申し訳ないわ」
料理長は恐縮した。
「もったいないお言葉で恐縮致します。ですが、未だ仕事中でございます」
「あら、ではお休みなさって。グラスは置いときますから。朝食は九時にお願いしますわ」
「かしこまりました」
山本は直角に体を曲げた。
車体の床下には休憩用ベッドルームが設置してあり、床下に滑り込んだ。
「お母様、床下は狭いのではないでしょうか」
勝彦の質問に弥生は答える。
「三畳ほどの空間にふかふかのベッドが設えております。空調も効いていますし、走行中でも極力揺れないように設計されいるからこのリムジンは使用人にとっても、とても気持ちよく快適に作られているのよ。仕事に支障が出ても困りますからね。御泥木家の家訓に、使用人といえども粗末に扱ってはならない、とあります」
「とても良く分かりました」
「さあ私たちも休みましょう」
優雅に飲み干すと二人は最後尾のベッドルームに入った。
天井には薄明るく明かりが灯っている。頑丈な扉を閉めると、そこは完全な個室状態だ。分厚い遮光カーテンは光も通さない。
弥生はベッドの端に腰を下ろしながら勝彦に言った。
「どうでしたか、勝彦。今日の会議は」
「こんな深夜に及ぶなんて……非常に疲れました……」
「今日は特に重要だったのよ。よくお聞きになって勝彦」
「はい、お母様」
「御泥木電源開発社は常温核融合炉開発に社運をかけております。これを商用化させるにはいくつかの困難があります。この計画が頓挫でもしたら、御泥木電源開発社は潰れてしまいます。大勢の社員を路頭に迷わすことになってしまいますのよ。それは絶対に避けなければなりません。本来ならお父様が率先するのですが、曾太郎も忙しい。私たちが曾太郎の代理人として後方支援をなさなければなりません。分かりますか、勝彦」
「はい、お母様」
「如何に御泥木財閥と言えども、あの方達を納得させるにも私たちのチカラが必要です」
「最後に分科会長と長い間お話をしておりましたね」
「まず、分科会長を説得しなければなりません。技術的なお話しは御泥木電源開発社の役目です。私たちのお役目はあくまでも後方支援です」
「別れ際に何かお渡ししていましたね」
「心付けです」
「心付け?」
「それは気にしなくても良いのです。いずれあなたも分かることよ。それより勝彦」
「はい、お母様」
「こちらへ……」
「はい、お母様」
勝彦は弥生のまえに直立不動になった。弥生は立ち上がり、ゆっくりと勝彦の服を脱がせる。勝彦は黙ったままだ。弥生ハンガーを手にすると、勝彦の上着やシャツ、ネクタイをそれに掛ける。次に勝彦のズボンのベルトを緩め、ゆっくりと下ろし始める。勝彦はなすがままだ。
すっかり下着姿になった勝彦の姿に弥生は目を細めた。
そして、やおら弥生もゆっくりと優雅にドレスを脱ぎ捨てる。
二人とも下着姿になった。
「勝彦、もっとこっちへ」
「はい、お母様」
弥生は勝彦を招き、ぎゅっと抱きしめると、勝彦は無言で弥生の胸に顔を押しつけた。
「ああ……勝彦、あなたはなんて可愛い子なの」
二人はひとつになり、弥生が手探りで傍らのボタンを押すと室内はあっという間に真っ暗になった。
『こりゃあ、なんだか妙なことになってきたぞ……』
リム人バスの天井扇から微かに響く言葉に的場は戸惑いを覚え、呟いた。
的場はリムジンの天井に身を隠していたのだった……。
「……って言うことなんだけどさあ、社長これからどうしよう」
正面から朝日を浴び、あまりの眩しさで片手で光を遮っている願成寺が喋っている。
「弥生はよっぽど勝彦を大事にしているようだな」
「大事って言うよりアブナイ関係じゃ無いの? まさか……弥生の浮気相手って……?」
ややあって杉田は答えた。
「結論を急ぐことは無い。弥生班はできるだけ浮気の証拠を集めてくれ」
願成寺は髪を掻きむしった。
「社長は簡単に言うけどさあ……ずっと見張っとくなんて出来ないよ」
「兎に角リムジンバスを見張っててもらい……」
突然、二階からドタドタと音を立てながら階段を駆け下りてくる足音が響き渡った。
「社長、大変、大変」
足音の主は管弦だった。
「瑠那、話し中だ、静かにしろよ」
杉田は口を歪めた。
「沢木田興子さん殺されたって」
「なんだって」
予期せぬ管弦の言葉に杉田は吃驚してテレビをつけた。
ニュース画面の横に沢木田の顔写真が写り、アナウンサーが喋っている。
「……警視庁では殺人事件として捜査本部を設置しました……」
「なんてこった……」杉田は頭を抱えた。
第一部 完 次へ続く