第2話
薬工房を出て教会敷地内を歩いていると、前の小径を聖騎士たちが慌てた様子で走っていくのが見える。
何か事件でもあったのだろうか。
不思議に思いながら歩みを進めていると、彼らは吸い寄せられるようにリズが暮らしている邸の中へと入っていく。
「どうして邸に?」
嫌な予感がして自然と早歩きになる。リズの嫌な予感はよく当たる。
(叔母様に何かあったのでしょうか?)
歩くスピードは徐々に増していき、邸に到着する頃には駆け足になっていた。
邸の中に入ると、玄関ホールには額に手を当てて俯くドロテアと付き人の聖騎士が立っている。
「叔母様っ!」
リズが声を掛けるとそれに反応してドロテアが真っ青な顔を上げた。
「ああ、リズベット。今までどこにいたの?」
「今まで薬工房の修道女といました。何かあったのですか?」
「それは……」
ドロテアの疲弊具合を察して、聖騎士が代弁する。
「何かあっただと? それはこちらが訊きたいところだ」
眉を吊り上げている聖騎士が顎をしゃくって奥の廊下を示すので、リズはそれに従って進み出た。すると、前方からゆっくりとした足取りで両手に風呂敷を抱えた修道女と、その後に見習いの修道女が続いてやってきた。風呂敷を抱えた修道女はリズに気がつくと、怒気を含む顔つきになる。
「リズベット! あなたは一体なんてことをしたのですか!!」
「えっ?」
突然責められて面食らっていると、修道女が風呂敷の結び目を解いた。中から明日の儀式で使用するはずの聖杯が顔を出す――が、縁の金細工が割れて盃の瑪瑙にはヒビが入っていた。
無残な姿になった聖杯を見て、リズは目を丸くする。
「誰がこんなひどいことを……」
暗い表情で呟くと、付き人の聖騎士が舌打ちをした。
「しらばっくれるな。これを壊したのはおまえだろう?」
「ええっ!?」
リズは聞き咎めた。
そもそもの話だがリズは聖杯が邸にあったことすら教えられていない、保管場所すら知らない。
これは完全なる濡れ衣だ。リズはすかさず反論した。
「どうして私なんですか? 私は聖杯を壊していません」
「じゃあ誰がやったと言うんだ? 俺やドロテア様は先程までずっと礼拝堂にいた。聖杯を壊せる時間はない」
「聖杯がいつからあるかなんて私は知りませんでした。それに場所も教えられていません。どうやって知るというのですか? 私を疑うなら私以外にも、邸を掃除していた修道女や見習いの修道女がいるでしょう?」
すると今まで黙っていたドロテアが口を開いた。
「聖杯は今朝から密かに邸の保管室で預かっていたの。昼間確認した時はなんともなかった。保管室は鍵が掛けられるから修道女たちには開けられない。だけどリズベット、あなたには万が一に備えて鍵のスペアを渡していたでしょう? 保管室の扉にこれが刺さったまま、開いていたのよ」
ドロテアはポケットから鍵を差し出した。スペアの鍵には数字の二という文字が彫られていて、それは数カ月前にリズがドロテアから渡された鍵で間違いなかった。
鍵は見つからないよう常にベッドの裏に隠していた。誰にも教えていないのに犯人はどうやって隠し場所を突き止めたのだろうか。
「待ってください。その鍵は確かに叔母様から預かっていた鍵ですが、私は保管室を開けてはいません。アリバイだってあります。今まで薬工房にいて、その前は薬草園で薬草を摘みに出かけていました。その前だって炊事場で食材管理をしていました」
「……それらを証言できる者はいるのか?」
付き人の聖騎士が腕を組んで胡乱げに尋ねてくるので、リズは力強く頷いた。
「もちろんいます。薬工房の修道女と一緒にいましたから。その前だって……」
しかしそこでリズはあっと声を上げて口を噤んだ。
薬工房の修道女と薬草園へ薬草摘みに出かけた。しかし、ドレスを直し終えて花を生けに来た修道女と挨拶を交わしてから、炊事場で食材管理をしている間は一人だった。
その間、誰にも会っていない。
従ってリズの炊事場にいたというアリバイを証言してくれる人が一人もいない。
(どうしましょう。どうやって無実を証明すれば……)
汗が滲む手でエプロンを握り締めていると、聖杯を抱えている修道女がドロテアに話し掛けた。
「ドロテア様、私はあなた様のお召し物を届けに昼間こちらへ伺ったのですが、その際に保管室から立ち去る者を遠巻きに目撃しました」
着替えを届けに来る頃といえば、邸を掃除していた修道女と花を生けに来た修道女たちが引き上げた後だ。着替えを届けに来る修道女は決まっていつも最後に邸へやって来る。
その時間帯となると、リズがまだ炊事場で食材管理をしている頃だ。
「後ろ姿だけですが、はっきりとこの目で見ましたとも。その者の髪は丁度リズベットと同じ長さで、シルバーブロンド色でしたよ」
着替えを届けに来た修道女の一言によって、疑いの目がリズへと集中する。
リズは首を横に振って再度否定した。
「待ってください。違います。私じゃありません!」
すると見習いの修道女がおずおずといった様子で手を上げる。
「私も当時彼女の隣にいたのですが……同じように女の人の後ろ姿を目撃しています。シルバーブロンド色の髪をしていました。リズベットと同じ髪色の修道女は何人かおりますが、この邸では働いていません」
その言葉が決定打となったようで、後ろで静かに控えていた聖騎士のうちの一人が声を上げる。
「ただちにこの女を引っ捕らえよ!!」
それを皮切りに仲間の聖騎士が縄を使ってリズを捕縛する。
「私じゃありません! 叔母様、お願いです、助けてくださいっ!」
「リズベット……」
助けを求めてリズがドロテアへと手を伸ばすが、その手は空を掴むだけ。抵抗も虚しく、リズはそのまま教会の地下牢へと投獄されることになってしまった。
薄暗く灯りもほとんどない地下牢で、リズは混乱する頭を必死に働かせて状況を整理していた。
(誰かが、叔母様から預かっていたスペアの鍵を盗んで保管室に侵入し、聖杯を破壊しました。もう一つの鍵を持っている叔母様は、礼拝堂にいたことを付き人の聖騎士が立証済みです。叔母様にはアリバイがあります。その一方で私には誰とも会っていない空白の時間があって……)
リズの記憶が正しければ聖物の器物破損は聖国の法律には適用されず、教会の評議会が裁きを下すことになっている。
どういう裁きが下されるのかはまったく想像がつかない。
ましてやこんなことが起きるなんて前代未聞だ。だが、この世に二つとない聖物を壊したのだからきっと重罪に処されるだろう。
「スペアの鍵もそうですが、あの修道女たちの証言で周りは私が犯人だと確実に思っていますね……」
はあっと深い溜め息を吐いて俯く。
日はとうに暮れて、天井付近にある小さな窓からは真っ暗な景色が見える。
夜になって気温が下がり、ひんやりとした空気が辺りを包み込んで肌寒い。暖を取るために牢屋の隅っこで膝を折って座り込み、自身を抱き締める。
冷たくなった指先に息を吹きかけて温めていると、外の扉の開く音が聞こえてきた。
音に反応してリズはゆっくりと顔を上げる。コツコツと階段を下りてくる音が響き、オレンジ色の灯りがこちらへと近づいてくる。
立ち上がって鉄格子に近づくと、そこには沈痛な表情を浮かべたドロテアが姿を現した。
「大変なことになってしまったわね、リズベット」
「叔母様っ! 何度も言っていますが私は聖杯を壊していません。あの修道女たちはきっと私を誰かと見間違えています」
必死に訴えるとドロテアは分かっていると何度も頷いた。
「真面目なあなたがあんな悪いことをするはずないもの。今あなたのアリバイが立証できないか調べてもらっているの」
ドロテアは鉄格子を握り締めるリズの手に自身の手を重ねて力強く握り締める。
「リズベット、必ず救ってあげるから少しの間我慢してちょうだい」
「……っ、分かりました」
彼女は聖国唯一の聖女で大司教と同等の地位にある。きっとあらゆる手を使って助けてくれるに違いない。
この時リズは、ドロテアが必ず自分をここから救い出してくれると信じていた。しかし、いくら聖女であるドロテアであってもリズの無実を証明することはできなかった。
結果として、リズは妖精界へ追放されることが決まってしまった。




