Ep.6-99
魔王モルゴースの襲来。それによって、峡谷の道は一瞬にして大混乱に陥った。
血を噴き出して倒れ、崖下へと落ちていく死体に恐れ慄く者、魔王の圧倒的な覇気の前に昏倒する者、その存在に恐れをなして周囲をかき分けて逃げ出す者。阿鼻叫喚の渦が隊列全体に波打つように広がっていく。
そしてその混乱はすぐに、隊列の最後尾にいるエリオスたちにも伝わった。
「——魔王、だって?」
流石のエリオスも耳に飛び込んできた情報に困惑と疑念を隠せなかった。まさか、こんな行軍中に敵の首魁である魔王自らが飛び込んでくるだなんて、思わなかったからだ。当然それはシャールやエリシアも一緒で、目の前で起きている地獄のような狂騒に動揺する。そも、兵士たちが恐れ、口にしている存在が本当に魔王なのかすらわからない。情報が交錯した状態なのだ。
そんな中、兵士たちが我先に来た道を引き返そうと、エリオスたちに迫る。その鬼気迫る様にシャールたちが跨る馬が慌てふためき暴れ出す。
「――面倒な」
そう言って、エリオスは暴れる馬の目を「憂鬱」の影で目隠しする。その瞬間、馬の全身が数度跳ねるように痙攣して、動きを停止した。死んではいない、安らかな寝息を立ててその場に膝を折る。それからエリオスは、右手をその掌に何かを乗せたように差し出す。すると、差し出された掌に紫煙が滞留し始める。
エリオスはその紫煙にそっと息を吹きかけると、それは何倍の体積にも広がって、殺到する兵士たちを包み込む。それとほとんど同時に、兵士たちの眼がうつろになり、呆けた顔で音も立てずに全員がその場に崩れ落ちる。
そうやってできた人の肢体で組み上げられた壁が、後続して殺到する兵士たちをせき止める。怒号や悲鳴を上げる彼らをちらと見遣りながら、エリオスはシャールとエリシアの方を振り返る。
「私は一足先に震源地に向かうとするよ。君たちは、あの烏合の衆をかき分けて頑張って追い付いてくれたまえ」
「――え、ちょ……エリオス!?」
シャールがその言葉を咀嚼しきる前に、エリオスは影を身に纏い、それの形を翼に変える。影で編み上げられた翼は大きく羽ばたいて、彼の身体はふわりと浮き上がる。それを確認すると、エリオスは混迷を極める兵士たちを見下ろしながら、その上を優雅に飛んでいく。
シャールとエリシアは、ただそれを見送るしかなかった。
「――あそこか」
峡谷の道の上を飛びながら、エリオスはすぐに狂騒の震源地を見つける。これだけ人が溢れんばかりに満ちているこの崖道にありながら、一点だけ人の密度が異様に薄いところがある。その中心に、エリオスは一つの人影を見た。異様な角を持つその人影は、エリオスに気付いたように見上げるけれど、攻撃してくる様子はない。そんな人影の前に、エリオスはひらりと降り立った。
「――貴方が魔王か?」
エリオスがそう問いかけると、ソレは嫣然と微笑みながら答える。
「——如何にも。我こそが、其方らの倒すべき敵よ」




