Ep.6-42
「――シャール?」
エリオスが自分の名を呼ぶ声に、シャールは正気に戻る。また、あの光景を反芻してしまっていた。目を開けていてもこれなのだから、目を閉じてしまったら――
「……ごめんなさい。えっと……何の話でしたっけ……?」
「――いや、いい。もう寝なよ」
「寝るのは……目を閉じるのは……」
抵抗するシャールにエリオスは目を細める。それからため息を吐くと、ゆらりと立ち上がる。そして、シャールの横たわるベッドに腰かけると、じっとその瞳を覗き込む。
それから、ふいに相好を崩して彼女の額を人差し指で軽く突く。
「――ぇ?」
「少しは成長したかと思ったら、本当に少しみたいだね。蟻だってもう少し前に進むよ?」
エリオスの皮肉にシャールは唇を噛む。
分かっている。これは戦争で、この先もっと人が死ぬ。自分の横で、後ろで、目の前で。その全てに心を砕いていてはきっと立っていられない、何もできない。分かっているから、目を背けているのだ。でも、目を背けるほどに目の前に突き付けられる、逃げられない。後悔、恐怖、自己嫌悪――こんなものに囚われているべきではないと分かっているのに。苦しいだけだと分かっていても。
「――私だって、頑張っているんです」
「だろうね。それでも、進めないから君は始末が悪い」
「私だって分かっているんです」
「知っている。だから、君は少しだけ変わってきている」
慰めとも玩弄とも違う、エリオスの言葉はまっすぐに自分と向き合った対話のそれであるようにシャールには感じられた。エリオスはシャールのベッドに腰かけたまま、サイドテーブルの上のホットミルクが入ったマグカップに手を当てる。
「まだ温かいね――うん」
エリオスは懐から、小さな瓶を取り出した。中には黄金色のとろりとした液体。エリオスは瓶のふたを開けると、マグカップの横に置いてあったティースプーンで中身を掬い取ると、ホットミルクの中へと回しいれる。
二掬い、三掬い。たっぷりとミルクに溶かすと、エリオスはマグカップをシャールに差し出した。
「蜂蜜だよ。さっき下からくすねてきた、安眠作用があるから」
「――ッ」
「毒なんて入ってないよ? 変な魔法もかけてない」
そう言ってエリオスはもう一本置いてあったティースプーンで瓶の中の蜂蜜を一掬いして口にする。
「うんおいしい」
「別に……この局面で貴方が私に何かしてくるなんて思ってませんけど……」
マグカップから立ち上る甘い香りにシャールは思わず喉を鳴らす。そんな彼女を見ながら、エリオスはゆらりと立ち上がる。
「君が何を見たのか、何を恐れてるのか、何から目を逸らそうとしているのか……私は分からないし、分かろうとする意思もない。ただ、君はもう自分がどうそれらに向き合うべきかは分かっているようだからね。あとは時と睡魔が解決してくれるだろうさ」
エリオスはそう言って船室のドアに手をかける。そんな彼に追い縋るように、シャールは声は問いかける。
「エリオス……どうして、貴方はこんな……」
どうして手を貸してくれるのか、どうして私に前を向かせるようなことを言ってくれるのか。問いたいこととぐちゃぐちゃの感情が渋滞して、言葉が詰まる。
そんな彼女を振り返り、エリオスはくすりと笑う。
「君にはしっかりと働いてもらわないと困るからね。だから、餞別。もう数刻すれば暗黒大陸だ。それまでしっかり寝て、体力を取り戻したまえよ」
そう言ってエリオスは部屋を出る。シャールはそんな彼を何の言葉を紡ぐことも出来ないまま彼を見送る。
それからほんの少しの沈黙の後、シャールは両手でマグカップを口に運ぶ。
「あったかい」




