Ep.6-2
「あらシャール。こんな夜中にどうしたの?」
屋敷の玄関まで降りてきたシャールを、くすくすと笑うアリアが迎えた。そんな彼女の向こうには夜の闇に溶け帰るような真っ黒な外套に身を包んだエリオスの姿があった。
「起こしてしまったかな……音は立てないようにしたつもりだったのだけど」
「いえ、ちょっと目が覚めて……夜風に当たっていたら、エリオスが屋敷から出てくるのが見えたので」
そこまで言ってシャールはその後に紡ぐべき言葉に迷う。エリオスが出てくるのが見えたからなんだと言うのだろう。自分の行動に理由が見出せなくて、シャールは少し首を傾げた。
そんなシャールを見てエリオスもアリアも苦笑を漏らす。
「——どうやら、寝起きで思考が鈍っているみたいだ。ふふ、そろそろベッドに戻った方がいい」
「そうね。私もコイツを見送ったらすぐ寝るわ。こんな時間に起きてるなんて肌に良くないものね」
冗談めかす二人の言葉にシャールは眉を顰める。
「エリオスは……どこかに行くんですか? もうすぐその……お迎えがくるっていうのに」
「うんシャール、その死に際みたいな言い方は今すぐ改めようね——とはいえ君の懸念はもっともだね。うん、でも安心して欲しい。本当にちょっとした野暮用なんだ明日の夕方には戻る」
「そう……なんですか」
ふと、エリオスが対魔王の戦線から密かに手を引こうとしているのではないかという疑念が浮かんだが、それはすぐにシャールの中でありえないこととして霧散する。
対魔王の戦いから手を引くにしても、エリオスが逃げるようにして屋敷から出て行く必要はないし、何よりそうなればエリオスがアリアを置いていくはずがないからだ。
それ以上紡ぐべき言葉が無くなり黙りこくるシャールに苦笑を漏らしながら、エリオスは二、三歩踊るように、ステップを踏みながら後退る。
「それじゃ、おやすみ二人とも」
そう言いながらエリオスは一際強く地面を蹴り、ふわりとその体を宙に浮かせる。
その瞬間、エリオスが天に突き出した腕から黒い影が形を持って夜空に顕現し、コウモリのような羽根を形作った。
羽根は大きく羽ばたくたびに、エリオスの身体をふわりと上空へと運んでいく。
そしてあっという間にその姿は夜の闇へと消えていってしまった。
彼が消えていった空を見上げながら動かないシャールの肩にアリアはぽんと手を置いた。
「さ、寝ましょ。夜更かしは乙女の大敵なんだから」
「——はい」
アリアに促されるままに、シャールは踵を返して屋敷へと戻る。しかし、ふと足を止め夜空を再び見上げる。奇妙な焦燥感が胸の中に燻っていた。
§ § §
薄暗い部屋の中、ちろちろと燃える一本の蝋燭だけが豪奢な調度品やステンドグラス、重厚な背表紙が並ぶ本棚をぼんやりと照らしている。
そんな部屋の中心で、不機嫌そうな表情を浮かべる男がいた。
口の端に刻まれた皺や垂れ気味の目は柔和な印象を一見して与えるが、その眉間に刻まれた皺の深さは彼がそんな見た目通りの人物ではないことを示している。
「……忌々しいことだな……全く……」
手元の書類の束に目を落としながら、男は低くそう呟いた。ぱらぱらと紙をめくり、その最後に付された署名を見て、彼の表情の歪みはさらに大きくなった。
ぎりぎりと、奥歯を噛み締める音が部屋中に響くようだった。そんな中、不意に冷たい夜風が彼の頬を撫でた。彼はびくりと全身を震わせる。
「ふふ、御老体にはこんな夜更かしは命取りじゃあ無いのかな?」
開いた窓から吹き込む青い夜風に乗って、軽やかな声が響いた。その瞬間、男は表情を凍りつかせながら、机の上にあったベルへと手を伸ばす。しかし——
「おっと危ない。人を呼ばれちゃ困るんだよ」
そんな声と共に夜風とは別の黒い風が男のすぐ横を吹き抜けた。男は思わず目を閉じる。
彼が目を開いたときには、机の上にあったはずのベルが消え失せていた。
男はその場に崩れ落ち、窓の方、声の聞こえてくる方を睨みつけた。
「刺客か……? 私を暗殺しに来たのか?」
「暗殺? ああ、失礼。確かに私の言動はまさしく夜闇に紛れて命を刈り取る暗殺者じみていたね。でも、私が貴方に運んで来たのは地の底のように暗く冷たい死じゃあない。燦然と輝き、熱を帯びた栄光だ」
声の主——黒い外套に身を包んだ少年はそう言ってにっこりと微笑むとゆっくりと男に歩み寄る。そしてそっと手を差し出した。
そんな彼に、男は訝しむように問いかける。
「栄光、だと……貴様、何者だ?」
「嗚呼、取引相手にはちゃあんと名乗ってあげるのが誠意と言うものだよね——私の名はエリオス・カルヴェリウス。これ以上の説明は、不要だろう?」




