Ep.5-69
とぷんと小石を投げ込んだ水たまりの表面のように波打つ純黒の影から、これまた黒く染め抜かれたような手が伸びてきた。それは人のような五指を持っていながら、まるで子供が描いた絵のような不格好さで、その不自然さが見るモノに恐怖を与える。
黒い影の水たまりからは、次々に同じような手が一本、また一本と伸びてくる。黒い手は辺りの地面を掴むと、その触手のようにうねる腕に力が入る。
――何かが出てくる。
男たちは、そう直感した。何か、得体のしれない、よくないモノが現れる。恐怖を感じていながらも、彼らの脚は動くことが出来なかった。彼らはその目を背けることが出来なかった。
そんな彼らと、現れ出るモノを見つめながらエリオスは満足げな笑みを浮かべる。
「私、考えてたんだよねえ。私が与えられた権能、人の九つの罪業の概念を形とするチカラ。ずっとそれぞれ単独で使ってたけど、これってまだ最適解に至ってないんじゃないかって」
エリオスは口元に手を当てて、笑みを隠しながら、それでも隠し切れない愉悦を声に載せて呟くようにそう語る。そんな彼の目の前では、黒くて歪な形をしたナニカが影の中から立ち上がって来る。
それを見つめながら、エリオスはさらに続ける。
「だってそうだろう? この世の人間の悪は、それぞれ単独で成立するものばかりじゃない。『暴食』にしろ、『怠惰』にしろ、『傲慢』にしろ。それぞれが結び付き合って、新たな悪が生まれる。この世にはそんなものがはびこっている」
そう宣う彼の目の前に浮かび上がってくるのは巨大な球体。ごつごつとした表面、歪にいくつも入った切れ目、そしてその全体から伸びる黒くうねる手。それを目の前にして、男たちは完全に戦意を失っていた。エリオスを散々に面罵していたフードの男でさえ、護符を握りしめたまま足を震わせて、その異形の球体を見つめている。
そんな彼らを見つめながら、エリオスは目を細める。
「例えば、成功している人間の脚を引っ張り陥れ、そして破滅させるというよくある光景。あれだって、一見すれば単なる『嫉妬』かもしれないけれど、実際にはそれに加えて、自分はその成功者と並べるほどの存在だという思い上がりを許すような『傲慢』があり、それでいて並び立つ努力をせずに楽に引きずりおろそうとする『怠惰』さがある。そんな悪性の絡み合いが生み出すのが人間の世という醜悪極まる地獄絵図だ」
そう言って、エリオスはふと目を閉じた。古い記憶が瞼の裏によみがえる。エリオスは、その中に浮かび上がった少年の顔を一笑に付しながら再び目を開ける。
「でも、私に与えられた権能は純粋すぎて醜悪さには欠ける。別にそれが弱いというわけではないし、甘いというわけでもない。だけどね、ときどき思うんだ。醜悪で、反吐の出るような人間を殺し、貶めるのなら、その手段はそれをはるかに凌駕し、踏破するほどに醜悪でなくてはいけないんじゃないかと――だから編み出した。権能と権能を重ね合わせ、撚り合わせ、綯い交ぜて」
エリオスがそう言って笑った瞬間、巨大な黒い球体の各所に走っていた切れ目が開く。それはいくつもの目といくつもの口だった。
無機質で感情の見とめられないいくつもの目は、じろりと足元に立つ男たちを見下ろしていた。




