Ep.5-58
エリオスは踵を返して、来た道を駆ける。
さっき見た記憶、その中でフードの人物が立っていたそばの建物。あのアングルからまともに見たことはないから確証はないが、その煉瓦組の壁やそこに這う蔦は見覚えがある。
あれは、エリオスたちが泊っている宿だ。
「――ッ! 馬鹿な女たちになんてかまっている場合じゃなかったかも……」
苛立ち紛れに暴言を吐きながら、まっすぐに宿を目指す。
自分の中で組み立てた仮説が正しければ――
「アリア……!」
§ § §
「あら、リドルさんお帰りなさい。どうしたのかしら、そんなに慌てて」
宿の女将が微笑みながら、宿の扉をぶち開けたエリオスを迎えた。カウンターで宿帳を書きながら、一人の男性と話し込んでいるところだったようだ。
話し相手は白髪交じりの穏やかそうな表情をした男性。彼は、エリオスをちらと見ると女将に問いかける。
「エヴァ、彼が例のお客様かね?」
「ええそうよ、ジョアン。ベルカ公国から来られたリドルさん。ああ、リドルさん、こちらはジョアン・ブルーノ、このディーテ村の村長で私の従兄なのよ」
女将に紹介された村長は、ゆったりとした仕草で腰を曲げ、頭を下げる。そして、そっと皺だらけの手をエリオスに差し出す。エリオスは、その手を軽くとって形だけの握手をすると、すぐに視線を女将へと向ける。
「女将さん、あの……私のツレ、アリアはもう出かけましたか?」
「え、ああはい。半刻くらい前に……温泉に行くんだって言って。たぶん今頃、源泉かけ流しの浴場で入浴中じゃないかしら」
「――ッ! そう、ですか……ありがとうございます」
そう言うが早いかエリオスは踵を返して、宿から駆けだしていく。そんな彼を、女将と村長は首を傾げながら見送った。
「――ああ、もう……みっともない……なんてみっともない……」
エリオスはそんなことを呟きながら、村のはずれに向かって駆ける。
確証なんて何もない、ただの杞憂かもしれない。けれども、エリオスの中には拭い難い懸念があった。抑えきれない焦燥感があった。
そんな感覚に突き動かされながら、エリオスは駆ける。
女将が言っていた源泉かけ流しの浴場――それは村のはずれ、山際にある岩場から湧き出る温泉をそのまま引いてきた露天浴場のこと。
かつては多くの観光客でにぎわっていたが、今日ではもはやほとんど客もいないので誰も入りに来る人間がいないのだと、昨晩女将が話していたのを思い出す。
実際、昨晩ディーテ村についた直後に入浴しに行ったアリアの言葉によれば、完全な貸し切り状態だったという。
「遠い……ッ!」
エリオスは遠くに見えた温泉の湯気を見て、表情を歪める。走りなれていないエリオスの脚では、ヒール付きのブーツでごつごつとした岩場の道を走り抜けるのには耐えられない。一歩踏み込むごとに足の全体が痛む。いつ崩れ落ち、倒れたとしてもおかしくない。
「――ッ! 『踏破するは憤怒の罪』ッ!」
エリオスは周囲に人の姿が無いのを確認すると、素早く権能発動の詠唱を行い、そして一歩強く踏み出して空中に飛び上がる。その瞬間、エリオスの身体は青白い炎に包まれる。炎はみるみるうちにその形を小さな竜に変えて大きく羽ばたいた。
あっという間に、温泉の立ち上る湯気が近づいてくる。
エリオスは、温泉の入り口の目の前で権能を解除すると、中に駆け込む。
下足置き場にあるのは、アリアの靴だけ。エリオスはためらうことなく、女湯の脱衣所へと駆けこむ。
そして、その先の光景を見た瞬間に絶句する。
「――あ、ああ……ッ!」
歯を噛み締め、血が出そうなほど拳を握りしめながら苦悶の声を上げるエリオス。
彼の視線の先にあったのは争いの跡。ずたずたにされたアリアが着ていたはずのドレス、彼女の首飾り。そして微かに飛び散った血の跡。
エリオスは、口元に手を当てて荒れた息を押し殺すようにしながら虚空を睨んだ。




