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出会い

 宿の一番広い部屋に使い慣れた家財道具が設置されていく。期限を決めない旅行だが、引っ越しさながらの光景だった。ベッドやタンスの位置を執事が指示し、隣の部屋ではトランクを持っていた医者が少女の診察を行なっている。


「具合はどう?」


「船酔いしましたけど、思ったより悪くありません」


「ちょっと少し外の空気を吸った方がいいかもね。他に痛みとか、息苦しさとかはないかい?」


「はい。少し疲れましたが、それ以外は平気です」


 穏やかな口調で話す彼は少女の主治医だ。この旅行に連れ添うように少女の両親から依頼されて来た。ほとんど生まれた時から世話になっているから十年来の付き合いになる。

 心拍と血圧を計った後、彼は「少し休憩したら外に出てごらん。気分がよくなるよ」と言い、部屋の窓を開けた。風がわずかにカーテンを揺らしたのを見た後、ほのかに潮の香りを感じた。


「いい景色だね。ここなら気分も変わると思うよ」


 この旅行は、病状が改善しない少女の具合を少しでも良くしたいという藁にすがる策だ。少女の病気は決して不治の病ではないはずが、長年の投薬を以てしても健康にはならなかった。だから環境を変えてお茶を濁しているのだ。決定的に有効な治療法ではない。それを理解しつつ、両親はこの島に少女を送った。それとももしかしたら自分はついに見放されて、こんな遠い場所まで連れてこられたのだろうか。そんなことを考えてしまうほどには、少女は自分の体に住み着く病に感傷的になっていた。


「ここで良くしていこうね」


「……はい」


 良くしていこう。それに一体何度同じ返事をしただろうか。それを聞くと考えるよりも先にはいと答えてしまう、型にはまった会話だ。


 何か変わる予感なんてない。都会から離れて自然が多く残る島に移っても、風景は見慣れれば日常になる。そうなれば、変わった気がしていた気分だって、今の会話と同じように、型にはまっていくに違いないのだ。


 少女、シェルローザはそんな諦念を胸に抱えたまま、窓から広い海を眺めた。明日にはこの景色にも飽きるだろうと思いながら。


      *


 窓辺に座っていたら、船酔いで悪くなっていた気分がいくらかよくなってきた。寝泊まりを予定している部屋に向かおうと思ったが、部屋にはまだ人の出入りがあると気配でわかる。ゆっくり落ち着くことができなさそうだとわかり、上げかけた腰を再び椅子に沈めた。診察に使ったこの隣室は、借りた部屋に元から設置してあるベッドなどを運び込むために借りている。既に家具はこの部屋に全て移し終えており、そのせいでずいぶん狭苦しい。執事と主治医は更に隣の部屋に泊まる予定だった。


 しばらく窓の外を見ていると、ノックと共に執事の声が聞こえ、応答するとドアが開いた。


「お嬢様。お部屋ができるまでまだ幾分かかりそうです。お待ちいただく間、お茶とご本を用意いたしましょうか。それともせっかくですし、お外を見て回られますか」


「そう。じゃあ少し外に出るわ」


「お供いたします」


「いえ、いいわ。隣の林を見るだけだから」


 シェルローザは帽子を被り、緩やかな歩調ながらも振り切るような態度で部屋を出た。

 二階の廊下は吹き抜けのL字型の回廊となっており、宿泊する部屋は廊下の一番奥の突き当たりに位置する。吹き抜けからはロビーを見下ろせて、中央の辺りにソファ、その脇のサイドテーブルには畳んだ新聞が置いてあるのが見えた。長い方の廊下には客室へ繋がる扉が三つあり、角を曲がって短い方の廊下の途中には扉が二つある。階段は短い廊下と隣接する形で設置されており、突き当たりをくるりとターンしてシェルローザは階段を下りた。


 階段を下りるとフロントと目が合うようになっているが、今は誰もいないようだ。入り口はフロントの正面にあるので、シェルローザは階段を下りた先でまた身を翻し、ロビーを通り過ぎてから外へ出た。


 見上げると白い雲が散らばる晴天。風は緩やかに隣の林を揺らし、葉擦れの音が聞こえる。遠くにあるはずの波が近くに聞こえるのは、海に囲まれた島だからだろうか。見渡した場所には誰もいない。宿屋は街を少し行き過ぎた小高い場所にあるため、軒の間の遠くには来た時の港が見える。立っているだけで体力を奪うほどの暑さもなく、心地よい気候だった。


 宿の周りを歩き、林へ続く小道を見つけるとそこから足を踏み入れる。さほど手入れはされていない。時折背の高い雑草が脛をくすぐった。木陰に入るせいか、空気はほんの少しだけ冷たい。風が枝葉を揺らす音をずっと聞いていると、ここも絶えず打ち寄せる波の中のようだった。シェルローザは瞼を閉じ、この林が海の世界だと空想し、その音に耳を澄ませた。


 だから抜き足差し足で自分に近付いてくる気配に、声をかけられるまで気付かなかった。


「ばあ!」


「きゃあ!」


 ドンと背中を押された瞬間、体が跳ね上がった。心臓が止まった。体の中身が宙に浮いた感覚のまま足がふらついて、雑草の中に転ぶところだった。そうならなかったのは、反射的に回した腕を後ろから取られ、肩が引き抜かれそうなほど強く引かれたからだった。その痛みは、心臓が止まる驚きよりは大したことはない。なんとか足を前に出して踏みとどまって、シェルローザは長く息を吐く。間一髪、崖から落ちそうなところを助かったという気分だった。


「あはは、驚いた? アンタどっから来たの?」


 明るく笑う声に悪気は一切なく、むしろいたずらが成功して満足しているようだった。未だに弾む胸を手で押さえながらシェルローザは声の方を見る。自分と同い年くらいか、少し年下に見える少女。オレンジ色の髪を右耳の上で結んで、男の子が着るようなランニングシャツに短パンという軽装。肌は健康的に日焼けしている。表情を見るだけでシェルローザに興味津々ということがわかった。


 今までシェルローザの周りにはいなかった、自分とは正反対の子供らしい子供だ。そのことに人見知りもしたし、自分と歳がさほど変わらないのにシェルローザの体をしっかりと支えた力強さにもドギマギした。びっくりして冷静さを取り戻せないまま、この子は誰なんだろうという疑問が出るより前に、シェルローザは自分に向けられた質問に律儀に答えていた。


「クロッシェルから……」


「クロッシェル?」


「ロコフ大陸の」


「大陸! じゃあアンタ都会から来たの!?」


「え、ええ……」


「ねえねえ、都会ってどんなところ? 夜が明るかったり、いろんなお店がこーんなにおっきい建物に入ってたり、人を乗せて飛ぶ鳥がいるって本当?」


「あ……うん、そうみたい」


 身を乗り出して質問攻めする少女の勢いに流されるまま答えていき、そうしている間にもシェルローザも会話のテンポに合わせて驚きを引っ込ませることができた。夜が明るいのはきっと繁華街のことで、いろんなお店が入った建物はデパートのことで、人を乗せて飛ぶ鳥は飛行機のことだ。この島には空路がなく、船で行くことしかできないというのは出発前に聞いていた。それでも飛行機という単語すら定着していないのは驚いたが、生活に馴染みのない言葉などその程度の認識なのだろう。

 しかしシェルローザも知識でしかそれを知らない。繁華街とは具体的にどういう風景で、デパートにはどんな店が何軒くらい入っていて、飛行機がどれくらいの大きさで何人くらい乗れる乗り物なのか、この目で見たことはない。はっきりしない返答に 少女は首を傾げ、意外そうな顔を見せた。


「見たことないの?」


「うん」


「ふーん、大陸って全部が都会じゃないんだぁ」


「あっ、でもデパート……お店がいっぱいある建物ならクロッシェルにあるわ。行ったことないけど……」


「え? 都会に住んでるのになんで?」


「人が多いところには行けないの、体が弱いから……。ここにも空気がいいところで病気を治すために来たの」


「そうなんだあ。じゃあここ、誰もいないところいっぱいあるからすぐ治るね!」


「……うん」


 ここで良くしていこうね。

 医者に返事をした自分が重なった。この子は何も知らないから治ると思ってる。だから楽観的なことが言えるのだ。

 そのシェルローザの卑屈は、長く病にかかれば誰にでも現れる心傷だ。心はその傷の形をもう覚えていて、病気の事情も知らないくせに軽々しく治ると言うなんて、なんて無神経な人なんだろうと思うほどに捻くれていた。


「ねえねえ、アンタ名前は? あたしはリベルタっていうの。ベルでいいよ」


「シェルローザ……」


「へー、名前までなんかオシャレ。シェリーって呼んでいい? 来たばっかでどこに何があるかわかんないでしょ。あたしが色々連れてってあげるよ!」


「ちょ、ちょっと待って……!」


捲し立てながらまたも腕を強く引くベルに、シェルローザは足を踏ん張って抵抗した。


「……まださっき来たばかりで、疲れてるから今日は……」


 行きたくない。こんな無神経で体力有り余ってそうな人と出かけたら絶対にくたくたになるまで振り回されるに決まってる。


 頭の中でそう思った。それをそのまま声に出せるほどの素直さはシェルローザにはない。また、シェルローザが何かをほのめかせば、周りは大抵察してくれる。だから言いかけた言葉は当然のように途中でぷつりと切れた。


 ベルはその言葉の先をぽくぽくと少し考えたが、やがて「そっか」と呟いて手を離した。


「じゃあまた明日ね!」


「えっ」


 ベルはそれを別れの言葉にして、シェルローザにぶんぶんと元気一杯に腕を振りながら坂を下っていった。


 明日ならいいなんて言ってない。

 それはベルの勢いに圧倒されて声にできなかった。シェルローザは一人ぽつんと残されたまま、どんどん小さくなるベルを見送り、明日雨が降ればいいのに、と思った。

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