陸の人魚姫
水平線はどこまでも広がる。太陽は海に眩しい宝石をばら撒き、波は風を呼び、鳥は自由に空を舞う。
ここは大陸からはぐれた小島。人口五百人程度の港町。この島と周りを囲む海がベルの世界だ。突出した崖の上に吹く海風がベルのオレンジ色の髪を揺らす。潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ後、ベルは全速力で駆け出して崖を飛んだ。
「ひゃっほーい!」
ひゅっと風を切る一瞬の恐怖の後、どぼんと水柱が立つ。途端に落下の流れが緩やかになって、空気の泡がこぽこぽと空を目指す音を聞く。水中から見上げた空はキラキラと青色に輝いて、今までいた世界を変える。宝石の中に閉じ込められたみたいにきれいだった。浮遊する体が水と同化していく。そんな心地の中で息を止めて目を閉じ、ベルは自分が海に優しく包まれるのを感じていた。
*
ベルがそれを見つけたのは沖の岩場の辺りでイルカと泳いでいる時だった。見つけたのは遊覧船。しかし島を定期的に回っている船よりはひと回り小さいものだった。それに遊覧船ならいつも島を一周するだけなのに、その船は一直線に港に向かっているようだ。
いつもなら、乗客を見つけるとベルは船に向かって手を振る。周りにボートもない沖から手を振る少女に乗客は大抵驚いて——時には海の亡霊だなんても叫ばれて——ベルはそのことを面白がっていた。しかし、その船には乗客が見当たらない。
せっかくまた驚かせられるかと思ったのに、と、いたずら心をため息と共に吐き出した。それと同時に、誰もいない船と、島に向かう船に興味を惹かれる。もしかしたら誰かが島に下りるかもしれない。
ベルは口笛で合図し、イルカに海岸まで泳ぐように伝えた。ベルが背びれに捕まると、イルカの群れは島に向かって泳ぎ始めた。
ベルは岸に上がり、一度素っ裸になって下着とシャツをきつく絞ってから港に走った。服はまだ濡れて重いが、この日差しがすぐに乾かしてくれる。脚は軽やかに地面を蹴り、自分の足音と風を切る音が聞こえる。港にはちょうどあの船が着いたところのようで橋をかけているのが見えた。
船を見つけたのはベルだけではないようだった。大人も子供も何人かが混じって、港と船を繋ぐ橋を眺めている。橋には体格のいい船員がこれでもかというほどの荷物を下ろしてトラックに積んでいるところだった。
「なになに、誰が来たの?」
興味津々に、誰にと言わずベルが弾んだ声で問いかけると、橋を見ていた商店のおばちゃんが答えてくれた。
「どこかのお嬢様だってさ。ジョージのとこの一番いい部屋をずっと借りるんだと」
「へー」
お嬢様という存在にピンと来なくて、わかっているのかいないのか曖昧な返事をした。絵本に出てくるようなお姫様と同じものだろうかと思いながら船を見る。
ジョージはこの辺りで唯一の宿屋を営んでいる。時々島の外から『ナントカ調査団』とか『島民体験ツアー旅行』とかの旅行者が来ると百パーセント泊まる場所だ。
荷物が全て運び込まれたのを点検し終えた後、船員とは風貌の違う三人が下りてきた。黒いスーツを着たお爺さんと、トランクを持った少し太ったおじさんと、ひらひらの白いワンピースにつばの広い帽子という出で立ちの少女。少女は背格好から見てベルと同じ年頃のようだ。顔は帽子で見えなかったけれど、腰まで伸びたふわふわの金髪がキラキラ輝いてベルの目に飛び込んでくる。きれいな水が太陽を反射させるみたいだった。
——人魚姫みたい。
抗えない不思議な引力。それはベルの目を奪い、この一瞬で崖から見晴らす夕陽の絶景を思い出させた。
ベルの視界を現実に引き戻したのは隣のおばちゃんの声だった。
「あらまあ、見るからにお嬢様だねえ。青っ白い顔して」
「あの子、生きてるよね」
「そりゃ人形じゃないでしょうよ。歩いてるしね」
おかしなことを聞いたようにおばちゃんは笑った。ふうんと聞き流しながら、ベルは切り取った絵本がそのまま歩いているような一行を目で追う。風に揺れるスカートすら絵に描いたようだった。彼らは予め停めてあった宿屋の車に乗り込み、荷物を乗せたトラックの後を追う形で発進した。
彼女を自分と同じ子供と思うには何もかもが違いすぎる。同じ背丈の人形と言われた方が納得できる。
そう思うくらいに彼女はこの島には異質で、きれいだった。