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5月16日昼〜夜

□ 五月一六日 昼過ぎ 湖の村の親切な女性の家


 正直言ってしまえば、彼女のスープの野菜は少し硬く——わたしが知っている野菜なのかはわからなかった。しかし食べられるならなんでも構わない——、薄味だったが、今のわたしにとってはこの上ないご馳走だった。


 スープを平らげ、ほっと一息つけたところで、命の恩人たる女性を改めて見た。


 膝を隠すほどの長さの農茶色のチュニックの上にエプロンを身に着け、中世ヨーロッパを題材にした絵画に出てきそうな、典型的な農村の娘に見えた。背はわたしよりずっと低く——わたしの身長が高すぎるのだ——、肩甲骨辺りまで伸びた髪をポニーテールにまとめている。そして何より注目すべきは、隠しても隠しきれないほど豊かな胸で、思わずわたしと比較してしまったが、とても勝負にならなかった。


 わたしの変態親父のような視線に気づいたのか、女性は目をぱちくりさせながら首を傾げた。


 しかし、その動きを見て、わたしはハッと閃いた。言葉は通じなくともジェスチャーなら通じるのでは? と。さっきの手招きは理解できたのだ。しかしジェスチャーも文化によって大きく異なる。必ずしもVサインが勝利を、サムズアップがグッドを表すとは限らないのだ。でも、試して見る価値はある。


 わたしは食事のお礼をしようと、空になったお椀を指差しながらお辞儀した。すると女性の顔がたちまち恐怖で歪んだ。……違う意味で捉えられてしまったようだ。慌てて、お椀を指差したまま、にっこり微笑んでみせた。今度は女性も微笑み返してきた。そして、わたしからお椀を取り上げると、再びスープが入った状態で戻ってきた。


 ……感謝の意が伝わったのか伝わっていないのか、微妙なところだが、お辞儀よりはましだと思う。とりあえず、喜怒哀楽の感情くらいならなんとかなりそうだ。


 それから、遠慮なく二杯目のスープを啜っていると、玄関の扉が開いて、老人が戻ってきた。


 続いて、若い青年が家に入ってきた。途端、女性の顔がぱあっと明るくなり、青年のもとに駆け寄った。


 あの青年は誰だろう、老人が更に応援を呼んだのだろうか? その老人はさっさと家の奥へ消えてしまったが。


 新たに登場した青年は、女性と同じく二十歳くらいで、全身を包む灰色のローブを着ていた。男性アイドル並みの顔立ちなのに、残念なことに彼女の健康的な肌とは対照的で、病人のように青白かった。


 青年はチラチラとわたしの方へ視線を向けつつ、女性と話し合いを始めた。言葉はもちろんわからないが、わたしのことについて相談しているのは明らかだ。


 不安も薄れ、冷静さを取り戻してくると、先ほどのジェスチャーも含め、色々な事に気づき始めるものだ。

 彼女たちの会話によくよく耳を傾けていると、日本語や英語ではないが、それでもどこかで聞き覚えのある単語が所々で混ざっていることに気づいた。

 そこでわたしはスマホを取り出して、音声翻訳アプリを立ち上げた。本来であれば、オンラインでないと役に立たないアプリだが、フィールドワークで電波の悪いところへ出かけることが多いため、オフラインでも使えるアプリは、取り敢えず全てのデータをダウンロードしておく癖があるのだ——おかげで、一番容量の大きなスマホを買う必要があり、お財布的にはとても厳しい——。このアプリもオフライン使用が可能で、ほぼ全ての国の言語をダウンロードしてある。


 わたしは音声翻訳アプリに、彼女たちの会話を入力した。その結果にわたしは堪らず叫んだ。


「来たーっ!」


 女性と青年が驚いた表情でこちらを見た。わたしは慌てて頭を下げると、二人は怯えた様子でさっと顔をそらしてしまった。お辞儀ってここではどういう意味なの? 大変気になるところが、今は置いておく。それよりも、翻訳が成功したことの方が重要だ。これでコミュニケーションを取れる可能性がぐっと高まる。


 しかし同時に、翻訳結果はますますわたしを困惑させた。


「えっと、ドイツ語、フランス語、イタリア語……っ、何これ?」


 確かに単語の翻訳は成功した。しかし、彼女たちの会話は単語ごとに言語が違っていたのだ。日本語と英語をごちゃまぜに使って笑いを取る芸人がいるが、彼女たちの会話はそれを超えている。


 疑問は尽きないが、今は二人とコミュニケーションをとることが第一優先だ。


 彼女たちの会話が終わったらしく、二人並んでこちらに近づいてきた。


 青年が何かを言おうとしたその前に、わたしは彼女たちの言葉で挨拶と思われる単語を口にした。途端、二人は目を点にして互いの顔を見合わせた。そして、青年がこちらを向いて、


「なんだ、喋れるじゃないか?」

 と、言ったのを聞き取ることができた。



 ようやく、わたしは彼女たちとのコミュニケーションのきっかけを掴むことに成功した。


 その結果、まずわかったことは、スープをくれた女性の名前はマリエル、青年の名前はアランといって、湖畔にあるこの村の名前はブロイ大公領のヘッセという。聞いたことのない土地名だ。


 現代からかけ離れた雰囲気の農村、知らない土地の名前、不思議な言語体系、食い違う習慣……。どれだけ非現実的だと思っても、ここは地球上のどこの国でもない、わたしの知らない世界、と結論づけるより他にない。わたしは神隠しにあって、本当に異世界にやって来てしまったのだ。


 一方、わたしは二人から、旅の途中で世にも恐ろしい経験をして軽い記憶喪失になった可哀そうな人、と認識されたようだ。まあもっとも、どうやら神隠しにあってこことは異なる世界から来たようです、なんて言っても信じてもらえまい。ここで変な疑いを持たれて、相手にされなくなっては困る。不本意ながらわたしは彼女たちの認識に甘んじるしかなかった。


 そして、わたしの処遇についてだが、アランは青白い顔をますます青くして「さあ、どうしようか?」と困っていたが、マリエルはなじるような口調で青年に言った。


「教会で面倒見てあげなさいよ。教会は困った人を助けるためにあるんでしょ」

「で……でも、今は司教様がいないし……」

「あの司教様がダメだって、言うわけないでしょ!」

「まあ、そうだけど……」

「じゃあ、決まりね」

 と、結局マリエルがアランを押し切ってしまった。


 一刻も早く、元の世界……日本に戻りたいが、その方法はさっぱりわからない。ならば当面の食料と寝床の確保は最優先だ。わたしは二人の言葉に甘えることにした。


 以上、かいつまんで述べたが、マリエルの家に上がり込んだ頃には南中にあった太陽が、アランに伴われて教会堂へ向かう頃には湖の向こうに沈んでいた、と言えば、これだけの会話で、どれほど苦労したか、少しはわかって頂けることだろう。



□ 五月一六日 夜 湖の村の教会堂


 アランに連れられ、わたしは村の中心にある教会堂へやって来た。昼間に見た廃寺院と違って木造でしかも小振りだが、小綺麗で庭の花壇の手入れも行き届いているようだった。


 教会堂の隣にある同じく木造の建物が教会関係者の住居だが、旅の巡礼者のための客室もいくつか用意されているとのことで、わたしもその部屋を貸してもらえることになった。客室は質素なベッドとテーブル、それに小さなクローゼット一つと、わたしの1Kアパートはもちろんビジネスホテルよりも狭かったが、野宿することを思えば、充分天国だ。


「僕は奥の部屋にいますので、何かあれば言ってください」


 建物の説明をして、客室から出て行こうとするアランを、わたしは「ちょっといいですか?」と呼び止めた。


 最初は、右も左もわからず、このまま行き倒れるのではないかと、不安でいっぱいだったが、こうして、コミュニケーションの手段と当面の安全が確保されると、現金なもので、研究者としての好奇心がむくむくと沸き上がり、この世界について知りたくなってきたのだ。

 どういった人々が生活しているのか、政治は民主制なのか王政なのか、どういった法律体系なのか、どのような宗教観を有しているのか、そしてどのような歴史をたどって来たのか、疑問は山のようにある。


 とりあえずアランに思いつく限りの質問を投げかけてみたら、彼は表情をひきつらせた。発音が悪くて伝わらなかったのだろうか? わたしはもう一度ゆっくり伝えると、途中でアランが遮ってきた。


「ちょ、ちょっと待ってください。一度に言われても困ります。今日はもう夜遅いですし、明日にしてもらえませんか?」

「夜が遅い?」


 日が沈んでまだそれほど時間も経っていない。体性感覚ではまだ午後七時から八時くらいだろう、普段の研究室ならむしろようやく気分がのってくる頃だ。しかし、アランが手にした弱々しい明かりを放つランプを見て、彼らの時間感覚では日が沈めばそれはもう寝る時間、ということに思い至った。アランの目もマリエルの家で会った時よりもとろんと垂れ下がっていた。


「ごめんなさい。そうですね、もう遅い時間ね」

「申し訳ないです」アランはほっと安堵の表情を浮かべた。「代わりと言ってはなんですが、明日の朝、村を案内いたしますよ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、おやすみなさい」

 と言い残し、今度こそアランは客室から出ていった。


 しかし、わたしはまだまったく眠くない。しかたがないのでわたしはスマホを立ち上げたが、当然電波はないので暇つぶしのまとめサイトチェックもソシャゲもできない。今できることといえば、これまでの出来事を整理するくらいだ。

 わたしはスマホのメモ帳アプリを立ち上げた。

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