5月16日@異世界
ここからようやく異世界です……。
□ 五月一六日 廃寺院前
そして気づけば、わたしは見知らぬ原っぱに立っていた、というわけだ。
最初は夢を見ているのかしら、と思った。実はまだ旅館の布団の中でまどろんでいるだけなのでは?
そこで頬をつねってみた。……痛かった。
次に脳裏をよぎったのは、わたしは死んだ、ということだ。今のところ肩凝りと腰痛以外に持病はないはずだが、突発性の脳卒中にでも襲われたのかもしれない。しかしここが天国にしても地獄にしても——できれば天国であってほしいが——、随分と殺風景だ。空はどんよりと曇り、周囲はうっそうとした黒い森に囲まれ、すぐ目の前には廃墟となった、中世初期のキリスト教会堂のような石造りの建物が一つあるだけだ。それに服装も荷物も不思議な光に包まれる直前と何も変わっていない。ジーンズのポケットにはママチャリの鍵だって入っていた。
わたしはスマホを取り出し、時刻を確かめた。神隠しの祠を調査していた時間からほとんど経っていなかった。電波は……来ていない。GPSも駄目だ、これでは地図アプリを立ち上げてもここがどこだかわからない。
そしてようやく思い至る。もしかして、本当に神隠しにあったのでは? と。
馬鹿馬鹿しい、普段のわたしだったらそう思うだろう。しかし、現実に広がる光景を前にしては、完全に否定できなかった。
もしここが仮に、それまで生活していた世界とは異なるところだとして、わたしはこれからどうすればいいのだろう?
もちろん、元の世界に戻る方法を見つけることだ。わたしが行方不明となれば、母も木坂先生も心配するだろう。それに何より、フィールドワークに戻り、博士論文を完成させなければならない。ついさっきまで、どこか別の場所に行けたなら、なんて思っていたのに……、自分の事ながら失笑してしまう。まるで母親と喧嘩して、「お母さんなんてどっか行っちゃえ」と叫ぶ子どものようだ。
とりあえず目の前の廃寺院に入ることにした。
中は真っ暗でほとんど何も見えなかった。
「誰か居ませんかー」
廃棄されて長い年月が経ったような建物だ、はなから誰かいるとは思えなかったが、声に出さずにはいられなかった。
「ここどこですかー? わたし、帰りたいんですけどー」
わたしの声が建物中に響き渡るだけで、もちろん返事はなかった。
荷物が無事だったのは幸いだ、わたしはリュックサックからペンライトを取り出して周囲を照らした。礼拝堂と思わしき空間は瓦礫だらけだった。
奥に進もうと、一歩足を踏み出したところで、遠くから「ウォーーーーン!」と、獣の鳴き声が耳に届いた。
——こんな寂しい森の中でわたし一人。襲われたらひとたまりもないじゃない!
早くここから離れたほうがいい、そう直感する。しかし何処に?
すると、ライトを照らした方向に階段を見つけた。高いところからなら何か見つかるかもしれない。わたしは逸る気持ちを抑えて、慎重に階段を登り、二階の窓から外を見渡した。
廃寺院の周囲は見渡す限り森が広がっていたが、その奥に大きな湖を見つけた。そして湖畔に、複数の建物があった!
石や木あるいは土など、素材は様々だけど、今わたしがいる廃寺院よりも新しそうだ。そして何より、煙が立ち昇っていた。つまりそこに人がいるということだ。
わたしは階下に下りると、全速力で集落に向かって駆け出した。
幸い、猛獣と遭遇することもなく森を抜け、広い道に出た。道といっても石畳やアスファルトで舗装されているわけではなく、土が踏みならされているだけだが。
道沿いに進むと、三十分ほどで、湖の集落に辿り着いた。
どこかに人はいないか? と見渡していたら、ちょうど、近くの木造平屋から老人が姿を現した。祠の前でわたしのことをおばさんと呼んだ女の子に会ってまだ数時間も経っていないのに、無人島から生還したかのような気分で、わたしは老人のもとに駆け寄った。
「すいません!」
老人は振り向いてくれた。
「あの、ここはどこですか?」
しかし老人は、目を丸くしただけで、何も言わなかった。
ああそうか。見るからに老人は顔の彫りが深く、日本人離れしていた。そこでわたしは英語で話しかけた。
「エクスキューズミー、クッジュテルミーフェアーイズヒヤ?」
すると老人はついに言葉を発した。
「○※▲〇〇=&#%!?」
今度はわたしが目を丸くする番だった。
何を言っているのかさっぱりわからない! なんの言語だ?
わたしが初めて海外へ行った時並みのショックを受けている間に、老人は困惑した表情を浮かべ、逃げるように建物の中に入ってしまった。
「ちょっと、待って……」
呼び止めたが、もちろん通じるわけもなく、ぴしゃりと建物の扉は閉められてしまった。
ああっ、なんてことだ。わたしはずっしりと重くなった頭を支えようと、額に手を当てた。せっかく人と会えたのに、コミュニケーションが取れないのでは意味がない。
「カーッ」と上空で禍々しい鳴き声がした。見上げるとハゲワシのような鳥——しかし、ずっと大きい——が、わたしを狙っているかのように頭上をぐるぐると飛び回っていた。
再び不安と寒気が押し寄せてきた。このまま、見も知らぬ土地で行き倒れ、死肉をあの鳥に啄まれるのかしら。
——お母さん、何の親孝行もできず先立つわたしをお赦しください。
老人が姿を消した建物からごとりと音がした。視線を向けると、扉が開いていた。そして、中から一人の女性が出てきた。わたしより若く、二十歳くらいだろうか?
女性は建物の中に向かって何やら声をかけた後——もちろん何言っているかわからない——、先の老人と同じように不思議なものを見るような目で、わたしを見上げた。
もしかして、先ほどの老人は逃げたわけではなく、助けを呼んでくれたのか?
とにかく、これはチャンスだ。わたしは女性に向かって、
「こんにちは。ナマステ。ア、アニョハセヨ……」
と、思いつく限りの言語で挨拶してみたが、彼女の小さな眉間に皺が寄っただけだった。
わたしと女性の間に息苦しい沈黙が訪れた。とにかく、何か打開策を考えなくては本当に行き倒れだ。しかしどうしたらいい? 言葉が通じないとなると……。
その時、全く予期しなかったことに、そして大変不本意ながら、わたしのお腹がグーッと盛大に鳴った。
化粧や洋服に興味はないわたしだが、多少なりとも羞恥心はある。その時のわたしは、頭上のハゲワシにこの身を捧げたい気分だった。
一方、女性はこくこくと何度か納得したように頷くと、右手で建物の玄関を指差し、左手でわたしに向かって手招きをした。
「……中に入れって、こと?」
と訊いたが、当然彼女には通じない。女性は黙って先に家の中へ入っていった。
「ちょっ、ちょっと待って!」
わたしは彼女の後に続いて、家に足を踏み入れた。
女性は窯の前に立ち、今度は質素な木製テーブルを指差していた。座れ、ということらしい。素直に従い椅子の一つに座った。周りを見渡すと、家のほとんどは土間が占めていて、床は一角だけだ。ここだけ見ると古い日本家屋の勝手場に近い。建物の隅に先ほどの老人が座っていて、観察するようにわたしのことを見ていた。老人と目が合ったわたしは反射的にこくりとお辞儀した。すると老人は「ヒッ!」と悲鳴らしき声を発して、そそくさと家から出ていってしまった。
依然聴き取れない言葉を口にしながら、女性がお椀をわたしの前に差し出してきた。中身は白っぽいスープのようだった。言葉は通じなくともお腹の虫の悲鳴は伝わるらしい。
すると再び「グーッ」と盛大に腹の虫が鳴った。女性が口を押さえて、必死に肩の震えを抑えようとしていた。
でも今は、全く恥ずかしくなかった。どんな形であれ彼女と意思疎通できたのだ。そのことが無性に嬉しかった。