5月15日
□ 五月一五日 県北の山間の村
朝、わたしは母に駅まで送ってもらった。
「じゃあね、ちゃんとこまめに連絡よこすのよ」
と、母は言い残し、別れを惜しむ間も無く、慌ただしく自動車を発進させ、仕事場へ向かっていった。
間も無く到着した下り電車にわたしは乗り込んだ。これから、県北にある山間の村に行き、フィールドワークを実施するためだ。
今回の帰省では色々思うところもあったが、ともあれ今は博士論文を作り上げることに専念すべきだ。そのためにはフィールドワークでちゃんと成果を出さなければならない。現地では一秒たりとも無駄にしないよう、わたしは目的地に着くまで、何度も今回の調査計画書を見直していた。
最寄り駅に到着し、大きなリュックサックとキャリーバッグを持って、人っ子一人いないホームに降り立った。日差しこそ既に夏のようにギラギラと照りつけているが、標高は高く、空気はひんやりと冷たかった。
無人改札を抜け、丁度到着した目的地の村行きのバスに乗り込む——これに乗り遅れると次発は夕方だ——。
本当であれば、移動手段として時間にも距離にも制約を受けない自動車が欲しいところだ。しかし、東京住まいのフリーターが自家用車など持っているはずもなく、実家の自動車を借りてしまうと今度は母が生活できなくなる。ならばレンタカーといきたいところだが、今度は財布の中身が気になってくる。さっき一秒たりとも無駄にしないと言ったばかりだが、時間かお金かという選択に迫られたとき、単純に結論が出せないのが辛いところだ。
こうして電車に揺られ一時間、バスに揺れ一時間、昼前に目的の村に着いた。まずは旅館にチェックインする。旅館と言っても普段泊まる人などいるのだろうか? と思えるほど、古い小さな建物で、齢七十を越える老夫婦だけで切り盛りしている。この村にフィールドワークに来るのは三回目だが、毎回同じこの旅館を利用している。何故なら他に泊まれるところがないからだ。
「お嬢ちゃん、よう、来きなすった。今回もゆっくりしとっとくれ」
と、わたしの顔を覚えていてくれた旅館の女将さんに手厚く歓迎された。
わたしはあいさつもそこそこに、部屋にキャリーバッグを置いて、紺スーツ——同窓会で着たやつだ——に着替えた。そして女将さんから、錆だらけで漕ぐとぎいぎいと大きな摩擦音を立てるママチャリを貸りて、村役場に向かった。
役場は広々とした駐車場の先にある鉄筋コンクリート製の小さな二階建てだった。
中に入ると、教育文化課の担当者が出迎えてくれた。
「細倉先輩、久しぶりです!」
彼の名は杉田くんという。木坂研究室出身で、わたしが博士課程一年目の時に学部四年生だった後輩である。卒業後、院に進学しない代わりに、公務員試験に合格し、地元の役場に就職した。わたしがこの村でフィールドワークを円滑に進められるのは、地元の文化を記録に残していきたいという杉田くんの熱意のおかげである。
「今回もよろしくね、杉田くん」
「任せてください、先輩。村のため、そして細倉先輩の博士論文のためなら、協力は惜しみませんよ!」
わたしは大きく咳払いした。「杉田くん、もう少し声を小さくしてくれないかしら?」
なんだかこれじゃあ、自分の論文のために後輩をこき使っているみたいだ。……まあ否定はできないか。
「すいません先輩」
杉田くんが深々と頭を下げてきたものだから、ますます居心地が悪くなってきた。事務スペースからわたしたちのほうへ向けられる視線が痛い。
「さ、早速で申し訳ないけど、今回のフィールドワークのスケジュールを確認しましょ」
わたしは杉田くんを引っ張って、逃げるように奥の応接スペースへ向かった。
席に座り、今回の調査計画書を広げた。事前に計画書は杉田くんに送っておいたので、スケジュールの確認は淡々と進んだ。期間は今日を含めて四日間。本当はもっと長く調査をしたいところだけど、バイトを長く休むわけにもいかないのだ……。
スケジュールは今日の午後に早速大きな山場を迎える。村の最長寿で、地元の人から生き字引と称される老人から話を聞ける機会を得られたのだ。それまでずっと遠くの病院に入院していたのだが、つい最近自宅療養に変わり、村に戻ってきているという。今回の機会を逃せば二度とお話を聞くことはできないかもしれない。
役場を出て、杉田くんが運転する公用車に乗り込んだ。長老の自宅へ向う途中、昼食のため食堂に立ち寄る。
「先輩、ここはおごりますよ。大丈夫です、経費で落ちますから。外部の人に村の魅力を知ってもらうことも役場の仕事です」
と、杉田くんが言ってくれたので、わたしは遠慮なく村名物にして食堂で最も高価な沢蟹そばとやらを注文した。これでは本当にダメ先輩が後輩にたかっているじゃないか、という心の底からの突っ込みは聞き流すことにした。
沢蟹の素揚げは少し硬かったけど大変美味しかったし、そばも喉越し良く何杯でも食べられそうだったが、さすがにお替わりは控えた。
すっかりお腹も満たされ、高揚した気分で長老宅——苗字は梅岩という——に向かった。そこはこの村で標準的な、広い庭に母屋と、倉庫を兼ねた離れを持つ構造で、母屋の方は二階建ての古い和風家屋だった。
開いたままの玄関から杉田くんが来訪を告げると、奥から割烹着を着た中年の女性が静かに現れた。
「役場の杉田です。本日はお忙しいなか、お時間を作っていただきありがとうございます」杉田くんが中年女性に向かって丁寧に挨拶をした。「で、こちらが細倉さん。普段は東京の大学で研究をされています」
「どうも、細倉です。よろしくお願いします」
「まあまあまあ、貴方が」中年女性が大きく目を広げ、すすすすっと足音も立てず近寄って来た。「こんなにお若いのに、大学の先生だなんて。凄いわねえ」
全く違う。でもここでわたしの立場を彼女に説明しても理解してもらえるとは思えなかったので、「ええ、まあ……」と曖昧に頷いた。
「早速、梅岩さんから話をお聞きしたいのですが、大丈夫でしょうか?」
「ええ、どうぞお上がりください」
わたしと杉田くんは靴を脱いで玄関を上がった。女性の案内で廊下を進む。彼女は梅岩翁の孫だという。
「実はおじいちゃん、若い子と話せる、って昨日からずっと子どもが遠足行くみたいに興奮してるんですから。わたしにまだ来ないのかってさっきから何度も訊いてきて」
通された部屋は広い和室で、床の間には本格的な枯山水の掛け軸が飾られている。しかし、その部屋で一番目についたのは中央にある大きなベッドで、その両脇に病院で見かけるような心電図を取る機械などが並べられていた。プシューップシューッと規則正しいエアポンプの稼動音が聞こえてくる。孫娘さんがベッドに近寄り、その上で横になる酸素マスクをつけた人物に声をかけていた。
この光景を見た時、わたしは父親のことを思い出した。薄暗い病室、ベッドに横になった父の世話をする母の姿、機械の音……。
——わたしはいつか年老いた母の世話をできるのだろうか? そして年老いたわたしを誰かが世話してくれるのだろうか?
「……先輩?」
横にいた杉田くんに名前を呼ばれ、はっと顔を上げた。電動式ベッドで体を起こした白髪の老人が柔和な笑みを浮かべ、わたしのことをじっと見つめていた。梅岩翁は皺だらけの唇を動かした。
「よう来さった、お嬢さん。こりゃまた別嬪さんじゃのう」
声は思ったよりはっきりしていた。そしてお世辞も上手いようだ。
それから、わたしたちは梅岩翁からお話をたっぷりと聞かせてもらった。彼が若い頃に直接体験したことや彼の父や祖母から聞いたこと、老人の語る村の歴史はどれも興味深かった。老人は病気だということを忘れるぐらい生き生きとした声で、時には朗読するように、時には情緒的に話をしてくれた。杉田くんや孫娘さんも初めて聞く話が多いらしく、興味津々の様子で老人の一言一言に相槌を打っていた。部屋に入った時に襲われた不安はいつの間にかすっかり頭の中から消えていた。
そして、あの話が出たのは縁側からの日差しがわたしの膝を照らし始めた頃だった。
「……神隠し、ですか?」
わたしは思わず訊き返していた。
「ああ、わしのおばあさんから聞かされた」梅岩翁は頷いた。「おばあさんが小さい頃は、子どもや若い女子が突然いなくなることがあったそうで、おばあさんの友だちもいなくなったそうや。神さまの祟りっちゅうことで、村はずれの祠……わしが子どもの頃は、近くの沢で今よりもようさん蟹や魚が取れて絶好の遊び場じゃったが、陽が沈んだらそこへ近づくなって、大人たちから言われたのう」
神隠しの伝承が伝わる村は少なくない。しかし、この村では初めて聞く話だ。地元の杉田くんや孫娘さんも初耳だったらしく、驚いた表情を浮かべていた。これは貴重な情報だ。
「その祠はまだ残っていますか?」
「さあのう。何しろずいぶん昔の話だし。でも場所ははっきり覚えとる」
梅岩翁は、祠への道筋をそらんじてみせた。現存しない地名や今はもういない家の名前も出てきたが、現在地との照合は可能だろう。
それから話題は神隠しの話をした老人の祖母へと変わっていった。梅岩翁の祖母は豪傑な人物らしく、熊と戦ったという話が出た時は思わずみんな吹き出した。
しかし、わたしは頭の中では神隠しの話がずっと気になっていた。どうして、と訊かれても困る。研究者の直感、というやつかもしれない。とにかくもっと調べてみたいと思ったのだ。
何時間も喋りっぱなしで、さすがに疲労の色がでてきた梅岩翁を見て、わたしは辞することにした。老人は名残惜しそうな表情を浮かべていたが、わたしが「また来ます」と言ったら、にんまりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
——これこれ、昔おじいちゃんがわたしに向かって話してくれた時にも、こんな表情を浮かべていたっけ。
わたしはもしかしてこの表情が見たくて……祖父の面影を追って、今の研究を続けているのかもしれない。
梅岩宅を辞した時、外はすっかり夕焼け色に染まっていた。杉田くんの運転で役場まで戻り、明日の待ち合わせ場所を確認して彼と別れ、ママチャリに乗って旅館へ戻った。旅館では見た目は素朴だけどどこか懐かしい味のする夕食が出た。お風呂に入った後、サービスで出てきた缶ビールをお供に老夫婦の近況を聞き、夜が更けた頃に客室に戻った。
就寝前に、昔の地元の地図を広げ、梅岩翁の話に出て来た、神隠しの祠の場所を確かめた。明日は、午後に杉田くんと一緒に旧家に残された古文書の確認をする予定だが、午前中は一人で村の史跡を回ることになっていたので、ある程度融通がきく。予定にはなかったが、神隠しの祠とやらへ行ってみてもいいかもしれない。臨機応変に調査を深掘りするのも、フィールドワークの醍醐味だ。