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5月13日

□ 五月一三日 昼 駅そして実家


 二十代最後の誕生日の朝を研究室で迎え、昼に論文の駄目出しを食らい、夜はお酒を飲みながら愚痴をこぼして過ぎていくなんて、この一年の行く末を暗示しているのでは? という不吉な予感を、実家へ向かう新幹線の車中、梅酒を飲みながら必死に振り払っていた。


 大丈夫よ、博美。二十代最後の年、必ず良いことがあるわ、と必死に自分に言い聞かせる。でなきゃ、二十代は塾講師のバイトと古文書読解の記憶しか残らない。


 などと考えている間に目的の駅に着いた。月曜日には実家からフィールドワークの現場へ直行するので荷物は多い。登山に行くような大きなリュックサックを背負い、更にキャリーバッグを引いて、新幹線を降り鈍行に乗り換えた。


 そこでわたしは、三人並んで座っている女子高生たちの姿に目が止まった。わたしが通っていた高校の制服を着ていたのだ。


 ふと、高校時代を思い出す。錆びついた手すり、独特な口調で駅名を告げる車掌、どこまでも広がる田園風景……。


「うっそー」「マジで」「やばくない、これ」女子高生たちがスマホを見せあいながら、何やら盛り上がっている。


「みんな、元気かな……」


 無意識に言葉が漏れていた。


 今回の帰省の目的は、フィールドワークがもちろんメインだが、地元で高校時代の同窓会が開かれるのだ。むしろ同窓会に合わせる形でフィールドワークの日時を決定した、というのが本当のところだが……。


 大学進学時にわたしのように東京に出た同級生はほとんどいなかったから、高校時代の友人に会えるのは久しぶりで、本当に嬉しい。早く同窓会が始まる夕方にならないだろうか。



 一時間弱で実家の最寄り駅に到着した。改札を抜けると、辺りは生暖かい空気に包まれていた。駅前には一台も停まっていない駐輪場と、誰もいないタクシープールと、夕方には閉店する雑貨屋があるだけだ。


 どこまでも真っ直ぐ伸びる道路に、一台のシルバーの軽自動車が姿を現した。軽自動車は滑らかな動きで、わたしの目の前に停まった。母の車だった。


「お帰り」


 車窓を開け、母が顔を覗かせた。


「……ただいま」


 わたしは答えると、トランクに荷物を積め、助手席に座った。


 母は軽自動車を発進させる。


 わたしの帰省を歓迎するかのように、目の前の信号は次々と青に変わっていく。対向車のない道を、母は車を走らせていった。


 しばらくして、前方を見たまま母は言った。


「東京は、相変わらず?」


 字句通りに受け取れば、東京の街並みの様子は変わったか? という意味だが、もちろん母はわたしの調子を訊いているのだ。


「うん、まあそこそこ」


 当たり障りのない回答をして、今度はこちらから当たり障りのない問いかけをした。


「この町は相変わらず」

「東京に比べれば、そう見えちゃうわね。でも最近、この町にもようやく牛丼屋ができたのよ」

「へえ」


 大した話に聞こえないだろうけど、この田舎町にとっては重大事件だ。なにしろ、わたしが小学校の頃、町に全国チェーンのハンバーガーショップが開店して、なんと一時間近い行列ができたのだ。その牛丼屋も開店当時はさぞかし繁盛したことだろう。ちなみにそのハンバーガーショップはわたしが中学生に上がる頃に閉店した。



 急勾配な坂道を登り、実家に到着した。年季の入った木造二階建てで、小さいながらも蔵もある。細倉家といえば明治の頃は地元で知らぬものはいないほどの名家だったらしい。今は面影もないが。


 荷物を持って大きな玄関をくぐる。薄暗い幅広な廊下の奥からひんやりとした空気が流れてきた。


「洗濯物があるなら持ってきて。洗っちゃうから」

 と言いながら、母はわたしの横を慌ただしくすり抜けていった。


 わたしは二階の自室に荷物を運んだ。上京するときに大々的な断捨離を決行したため、ほとんど何も残っていない。タンス一つに、小さなテーブル。そして窓際にある木製のベッドには、皺一つない布団が敷かれていた。


 荷物の整理をしたあと、わたしは再び一階に戻り、台所へ向かう。歴史ある我が家は全て和室だが、わたしが中学生の頃にリフォームした台所と風呂場とトイレだけはフローリングだ。メタリックカラーの四段式冷蔵庫に、オール電化のシステムキッチン……。実家に住んでいた時はなんの違和感もなかったのに、一度家を出て、たまに実家に帰るようになって初めて、とても不思議な光景だと思うようになった。ここだけ異質、世界が違うように見える。


 台所に母の姿はなかったが、勝手口の扉が全開になっていた。この不用心さは、田舎だ。


 冷蔵庫から麦茶を取り出し、ぐいっとコップ一杯飲み干す。


 さて、同窓会が始める夕方までまだ時間がある。どうしようか? 昼寝をしてもいいが……。少し考えて、わたしは東京のアパートよりも広い仏間を横切り、書斎へ入った。書斎というと聞こえはいいが、かつての主人たる祖父や父が鬼籍に入り、母の管轄となった今では、ただの物置部屋だ。中身が不明なダンボールの山をかきわけ、奥の本棚の前に立つ。そこには、生前の祖父が集めた、郷土の歴史に関する古い書物がびっしりと並んでいた。


 祖父はアマチュアの郷土史研究家だった。若い頃は仕事のかたわらに、趣味で実家に残されていた古文書類の整理や資料収集をしていたが、定年後はひたすら研究に邁進し、地元の教育委員会が祖父の資料を借りにくるほどだった。

 祖父は小さい頃のわたしにもちょくちょく話を聞かせてくれた。二人で並んで縁側に座り、麦茶を飲み羊羹を食べながら、あの山を最初に切り開いたのは誰それだ、川の氾濫を防ぐために何とか神社で町中の大人たちが三日三晩祈ったのが、地元のお祭りの始まりだとか……。

 初めの頃は、羊羹よりショートケーキの方がいいなとか、くどいなあその話もう三回目だよ、とか思いながら聞いていたのだけど、ある日、小学校の社会科の時間で地元の歴史を学ぶ機会があった。その時に、祖父から耳にたこができるほど聞かされた話が出てきて、とても驚いた。

 それまで、学校で習う授業と、普段の生活は大きくかけ離れているように感じていた。文学作品から作者の想いを知るよりも両親の虫の居所を知る方が重要だし、九九をどれだけ覚えても実際の計算は電卓を使うし、いくら植物の名前や育て方を覚えても本当に必要なのはスーパーで鮮度の良い食材を選別する方法だし、国会とか言われてもさっぱりイメージがつかなかった。

 だから、祖父の話に出てきた昔話が教科書に出てきた時に初めて、学校の勉強が自分の生活と関わっているんだ、と実感し、面白いと思った。

 それ以来、わたしは祖父の話をじっくりと聞くようになり、祖父が亡くなった後は、遺してくれた資料をこつこつと読み進めていった。


 そして今に至る。わたしが研究の道に進んだのは祖父の影響が大きい。


 わたしは書棚から気になる資料を数冊抜き出した。もわっと埃が舞い、蛍光灯の光をチラチラと白く反射した。黄ばんだ表紙を慎重にめくる。小さな活字の列、そして祖父の手書きの注釈がびっしりと書かれている。


 祖父は五十年近く、アマチュアという立場で日の目を見るかどうかもわからないような研究を続けていた。一体どんな思いで、どんな熱意を持って、続けていたのだろうか? 楽しかっただろうか、満足のいく人生だったのだろうか?


「あら、そんなところにいたの?」


 背後から声がした。振り返ると、イチゴが乗ったお皿を持った母が仏間に立っていた。


「ちゃんと、おじいちゃんとおばあちゃん、それにお父さんに『ただいま』って挨拶した?」


「したよ」

 と言い返し、仏壇の前の紙袋を指差した。書斎に入る前にちゃんと仏壇に向かって手を合わせ、東京土産——毎度代わり映えのしないバナナクリーム入りのスポンジケーキだ——を供えておいた。


「そう」母はちらりと紙袋を見て、わたしの方へ視線を戻した。「またおじいちゃんの本を取り出して……、ちゃんと片付けておいてよ」


 わたしは、雑然と積まれた段ボールの山を一瞥して、「わかってる」と答えた。


 母はイチゴのお皿を仏壇の前に供え、手を合わせた。その姿勢のまま、母は口を開いた。


「博美、……ポスドクって言うんだっけ、それは辛いの?」


「……!」

 わたしはハッと顔を上げた。母がこちらを見ている。


「昨日の電話でも元気なさそうだったし、駅で会った時も随分疲れたように見えたから……」


「そ、そんなことないけど。最近忙しいから疲れていただけ。研究は楽しいよ……」

 と言っておきながら、「ああ、空虚だな」と思ってしまった。感情が全くこもっていない。


 研究自体は楽しい、休みの日でもこうして祖父の残した資料に目を通しているくらいだ。でも、それ以外の頭の痛い要素が多すぎる。


「そう?」母は再び仏壇へ視線を戻した。「この前、大学出たのに定職に就けない人が多いってテレビを観て、博美は大丈夫かなって、お母さん少し心配で」


 ——はい、そのテレビ番組わたしも観てました。ほとんど真実です。わたしも定職につけないその一人です。


「うっ、うん。木坂先生にはよくしてもらってるし。それに、博士号が取れれば、ちゃんとした働き口も見つかるはずだから」


 ——博士号を取っても、大学教員などの研究職につける保証はありません。ポスドクの数に対してポストの数が圧倒的に少ない、完全買い手市場なんです。


「だったら、良いんだけど。お母さんは多くは望まないから。ただ博美が元気で、安定した仕事に就けて、良い人と結婚して、つつがない平穏な生活が送れれば、それでいい」


 ——そのつつがない平穏な生活を現代の日本で手に入れることが、いかに難しいことか!


「あっ、もう一つだけ欲を言えば、早く孫の顔が見たいわ」

 と、母は付け加えると、チーンと鉦を鳴らし、仏壇に向かって手を合わせた。


「じ……じゃあわたし、部屋に戻ってるから。夕方はよろしく」


 いたたまれなくなったわしはそう言い残し、仏間に飾られた、真面目な顔の祖父と、大人しそうな顔の祖母と、柔和な表情を浮かべる父の遺影から目を逸らし、早足でその場を後にした。

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