7月14日
□ 七月一四日 大学の大図書館
図書館に入ってきたクレメンスは、わたしを見るなり、表情を引きつらせた。
「と、特任大教授殿。大丈夫かね。明日にでもこの世の終わりがやってきそうな顔を……」例えが洒落にならないと気づいたのか、枢機卿は慌てて言い直した。「その、大変辛そうな顔をしているが」
「ええ、何とか」わたしは頷いた。「少々、徹夜が続きまして」
天啓の如き閃きを得てから、昼夜も問わず図書館に篭ること早七日、腰、肩、首、その他関節は締め付けられるように痛み、自分の顔も恐ろしくてとても鏡で見ることなどできず、あの悪魔的効果を発揮した謎の栄養ドリンクも、今のわたしにとってはただの青汁と変わらないような状態だが、不思議と頭だけは未だに冴え渡っていた。
クレメンスは手近な椅子に腰掛けた。「何だか油臭いな……」
「お、お気になされず」わたしは横に控えていたアランに手を振って、窓を開けるように指示した。
「それで特任大教授殿」クレメンスが目を細め、わたしの顔を見上げた。「魔導書に関して重大な話がある、とのことだが」
「はい、猊下」わたしは姿勢を正して答えた。「今日は、魔導書の在り処に関する確度の高い仮説を提示したいと思います」
「確度の高い仮説、だと?」クレメンスの目が大きく見開いた。「貴殿がそれを見つけたと言うのか? 大教授、教授たちが皆行き詰まっているこの状況で」
「はい」わたしは疑うような眼差しを向けてくるクレメンスの顔を見据えて言った。
枢機卿は大きく息を吐いた。「よろしい、賢者殿の仮説を聞こうか」
「ありがとうございます、猊下」
わたしは軽く咳払いをして続けた。
「まず、猊下はヘッセ村をご存知ですか?」
「もちろんだ。現在はフランシス殿が担当する教区になっている。貴女も最初はそこにいたのだろう」
「そうです。では当然、村の近くに大きな湖があることも?」
「ああ」
「あと、ヘッセ村の森の奥にある廃寺院のことは?」
「見たことはないが、旧教の寺院跡があると聞いたことはある」
クレメンスは肘掛を、苛立たしげに指でトントンと叩いた。
「特任大教授殿、さっきから何が言いたいんだ?」
「猊下の事前知識を確認したかっただけです。でも安心しました。これなら説明は簡単に済みそうです。つまり、ヴィクトルの魔導書はその廃寺院のどこかにあるはずです」
「はっ?」
クレメンスの眉間に何重もの皺が寄った。
「何を言っている。それでは『闇の黙示録』の『暗き川の畔の寺院に楔を残す。』と整合が取れていないではないか。あの村の近くに湖はあっても、川は流れていない」
「落ち着いてください、猊下。黙示録にある『川』はわたしたちがイメージしている、水がさらさら流れるものの事ではありません。水がたくさんある場所、湖も該当するのです」
「なっ、何だと!」クレメンスが身を乗り出した。
わたしは学会で口頭発表するかのように淡々と続けた。
「つまり『川』、正確に原書に沿うと『河』ですが、その意味は現在と、黙示録が書かれた時期では意味が異なるのです」
このヒントとなったのはもちろん、たまたまマリエルが拾い上げた『赤いマフラーの小さな女の子』の童話だった。時代と共に言葉の意味が変わるなんて、改めて考えてみれば初歩中の初歩の話だ。それに長らく気づけなかったのは、古代神聖文字が日本語であるとわかり、簡単に読みこなせると思い込んでいた慢心と、精神的に追い詰められて、冷静な思考ができなかったせいだ。
「しかし……」
クレメンスは椅子の背もたれに体を預け直すと、腕を組んだ。
「その、大昔は『河』が『湖』の意味でも使われていた、というのは、特任大教授殿が勝手に思い込んでいるだけではないのか? 裏付けはあるのか」
「ええ」わたしは後ろのアランへ目配せした。「あれを猊下に」
アランがクレメンスに小冊子ほどもある資料の束を手渡した。これこそわたしたちが七日間図書館に缶詰になっていた成果だ。
「この図書館にある聖典以外の古代神聖文字の文献から、『河』を『湖』だと考えないと意味が通じない用例を見つけました。その資料は調査した一覧です」
クレメンスは、用例を紙一面に記述した資料の束に目を向けたまま言った。
「これだけの量の調査を、貴殿一人でやったのか? この短期間で」
「はい。あっ、ここにいるアランにも手伝ってもらいました」
「なるほど」
クレメンスはアランを一瞥した後、手にした資料の束を振った。
「しかし、私も含めて、大学に古代神聖文字が読める者はもういない。これでは賢者殿の言っていることが本当か、やはり検証のしようがない」
その指摘を聞いて、わたしは学長のことを、ようやく優秀な人物であると認めることができた。もっと早くそれができていれば、彼を疎ましく思うこともなく、魔導書探索も効率的に進められたかもしれない。わたしの偏見を少しは反省しなければならない。もちろん枢機卿にも反省して欲しいところは山のようにあるが。
わたしは背筋を伸ばし、クレメンスに向かってはっきりと言ってやった。
「最後は、猊下がわたしのことを信頼していただけるかどうか、だと思います」
クレメンスは顎に手を当てて、唇を噛んだ。
しばらく手元の資料とわたしの顔を交互に見ていたが、やがて口を開いた。
「もう一点だけ確認したいことがある。何故、今の教会の礎を作った救世主ヴィクトルの魔導書が異教である旧教の寺院にあるのだ?」
想定された質問だ。わたしはすぐに答えた。
「ヴィクトルの偉業が教会の基礎となったとしても、教会という組織自体と、人々が集う教会堂は後世の人間によって作られたはずです。であれば、ヴィクトルの時代にはまだ旧教の寺院しかなかったはずです」
再びクレメンスは黙り込み、唇を何度も噛みながら時折唸っていた。
わたしは黙って彼の反応を待った。
論文の採録判定を待っているような心地……つまり、キリキリと胃が痛んだ。
やがて、クレメンスは顔を上げた。そして何かを決意するかのように大きく息を吸った後、
「わかった、すぐに発掘隊を編成しよう」
と、言ってくれた。
「ありがとうございます!」
わたしは深々と頭を下げた。
「と、特任大教授殿……なんてことを」
クレメンスの声が震えていた。
——しまった、またやってしまった。
わたしは慌てて顔を上げた。枢機卿の顔にはっきりと脅えの色が現れていた。……本当にお辞儀って、この世界ではどういう意味なんだ?
クレメンスは微妙な空気を紛らわそうと咳払いした。
「ごほん。しかし、本当に特任大教授殿は変わった人だ。何日も不眠不休で文献を読み漁るわ、突然頭を下げてくるわ、意味もなく礼を言ってくるわ」
「まあ、癖でして……」わたしは照れ笑いと共に、身を縮めた。
「不思議なところなのだな、異世界というのは」クレメンスは席から立ち上がった。「礼を言うのはこちらの方だ。発掘調査の方は任せてもらおう」
「よろしくお願いします」
と神妙な口ぶりで答えたが、内心は、とうとうクレメンスから感謝の言葉を引き出してやったぞ、とガッツポーズを決めていた。
「早速、調査を始めねば」
クレメンスは図書館の出口へ向かい、扉を開けたところで、足を止めた。
枢機卿はこちらへ振り返った。「そうだ、特任大教授殿。一つ伝えておくことがあった」
「何でしょうか、猊下?」
この期に及んで何だろうか? わたしは首をかしげた。
クレメンスは黙って窓へ目を向けた。わたしも釣られてそちらへ視線を向ける。雲一つない快晴の青空が広がっていた。
そして、クレメンスは穏やかな声で言った。
「つい先頃、神聖騎士団との連絡が取れたそうだ」




