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まだ5月12日

□ 五月一二日 昼 教授室


 みのりちゃんに起こされる前に見ていた夢は、七年前、まだわたしが大学四年生の時のことだ。わたしはあの時の先輩の忠告を無視して院に進学した。そして、一昨年度の三月に博士課程を満了した。しかしその時点で博士号は取れず、また就職先も見つからず、現在は木坂研の研究生として、バイトをしつつ細々と研究活動を続けている。


 あの時先輩は、博士課程は茨の道だと言った。しかし本当に不毛で茨の道なのは、卒業した後だった。


 文系理系共に博士課程修了生の就職状況は厳しいが、わたしのような人文系は特に過酷だ。大勢の博士課程満了者、いわゆるポスドクが職にあぶれている。あの時の先輩も結局、博士課程満了後就職先を見つけられず、今では音信不通である。先輩が今どこで何をやっているのか、地方の塾で講師をやっているのか、それともパチプロにでも『転職』したのか、さっぱりわからない。


 そんな先輩の姿を見ていながら、しかしわたしは、心のどこかで自分は大丈夫、必ず就職先を見つけて、研究を続けられる、と考えていた。それが慢心だと気づかされたのは、博士課程も折り返し地点を過ぎた頃だ。慌てて、助手や特別研究員の採用募集に片っ端から応募して、ことごとく落ちた。


 だからさっきのみのりちゃんの反応は至極当然だろう。その事をポスドクのわたしに面と向かって言うのは、彼女特有の遠慮のなさなのだが。


 わたしは学生部屋の隣にある教授室の扉をノックした。すぐに「どうぞ」と返ってきた。


「失礼します」


 教授室に入ると、奥の机の上に築かれた書類の城壁から片手だけが現れ、手前の応接ソファーを指差した。促されるまま、わたしはソファーに腰掛けた。教授室を見渡す。左右の天井まで届く書棚には隙間なく本や雑誌が並べられ、古い本特有のカビ臭い匂いが微かに漂っている。部屋の隅にあるアンティークな振り子時計がカチカチカチ……と、規則正しく時を刻んでいた。側面には小さく『昭和〇〇年卒業記念品』と書かれている。わたしが産まれるよりも前の物だ。


「よっこらしょっ、と」

 くたびれた声が聞こえ、書類の城壁の奥から白髪頭が姿を現した。学部の頃からの指導教員である木坂源二郎教授だ。


 木坂先生はわたしの対面に座った。


「悪いね、急に呼び出して」

 と言いながら、先生は小脇に抱えていた書類の束を応接テーブルに置いた。


「いえ、大丈夫です。何の用事でしょうか?」

「ふーっ、それにしても今日は暑いね。まだ五月だってのが信じられない」

 木坂先生は節くれだった手で、団扇をあおぐ仕草をした。


「ええ、そうですね」

 と相槌を打ちながら、わたしは内心、これからあまり嬉しくない話題が始まるぞ、と直感していた。先生が悪い話をするときはいつも天気の話題から始めるのだ。


 木坂先生は腕を組んだ。

「この部屋のエアコン、調子が悪くて。ああそうだ、細倉さん、事務室に連絡して、修理の手配をしておいてくれないかな?」


 博士課程を終えても、教授の雑用係という立場は変わらない。何故ならわたしの跡を継ぐべき修士課程、博士課程の学生がこの研究室にはもういないからだ。


「わかりました。それで先生、用事というのは?」


 先を促すと、木坂先生の眉間に深い皺が現れ、沈黙してしまった。相当悪い話のようだ。何も聞かず部屋から出て行きたい気分になってきた。しかし先生は、観念したように大きく息を吐くと、悲しげな表情をこちらへ向けた。


「この前出してもらった博士論文の件なんだけど……」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの身体は緊張でぎゅっと引き締まった。


「残念だけど、このままじゃまだ難しい」


 石臼にすり潰されるような、ギリギリとお腹に鈍い痛みを感じた。


「ど、どこが駄目なんですか!」先生に悪いところはまったくないと知りながらも、わたしは思わずきつい口調で問いただしてしまった。「ほとんどは査読付きの投稿論文にも通っているんですよ」


 木坂先生の表情がますます苦痛に歪む。

「まあそうなんだけどね。他の教授陣たちが……」


 ——またあいつらか!


 わたしは大声で叫び出したい衝動に襲われた。


 博士号も持っていない、査読付き論文の投稿数も少ない名ばかり教授どもにわたしの論文を評価できる資格があると思っているのか!


 昔は人文系で博士号を取得することが今以上に難しかったため、博士号を持たない教授もいる。中堅私立であるこの大学は特にそれが顕著で、研究科内で博士号を持つ教授は、木坂先生を含め、片手で数えられるくらいだ。それに加えて、近年は人文系でも論文採択数が重要視されるようになったにもかかわらず、未だに論文すら書かない教授が何と多いことか。そんな給料だけもらってのうのうと暮らす連中に、フリーターまがいの生活を送りながら必死に研究を続けるわたしの論文にケチをつけてくるなんて、ふざけるな、と言いたくなる。


「細倉さん、落ち着いて……」


 木坂先生の声に、わたしはようやく我に返った。気づかない間に、ソファーから立ち上がっていたらしい。


 慌ててソファーに座りなおした。

「す、すみません。取り乱して」


 恥ずかしさで俯いていると、先生の落ち着いた優しい声が聞こえてきた。


「悔しい気持ちはわかるよ、僕だって悔しい。でもあと少しだ。もうあと少しの努力で博士号に手が届くから。一緒に頑張ろう」

「……はい、よろしくお願いします」


 顔を伏せたまま、頷いた。まだお腹の中では怒りの炎が大蛇のように渦巻いている感覚がしたが、頭の方はだいぶ落ち着きを取り戻していた。


 本当に、わたしの指導教員が木坂先生で良かったと思う。普段は大人しく他の教授陣に比べ発言力が大きいとは言えない。それでも教え子に対して本当に親身になってくれる。先生というよりは孫思いのおじいちゃんのようだ。これは、先生自身の性格と同時に、わたしやみのりちゃんが最後の教え子になることも関係がある。先生もあと一、二年で定年退職だ。その前にどうしてもわたしに博士号だけは取らせておきたい、という思いがあるのだろう。今のご時世、博士号を持ったところで定職につける保証などない。それでも、確率は上がるはずだ。それに、わたしを音信不通となった先輩の二の舞にはしたくない、という思いもあるのかもしれない。


「教授陣から出た指摘については、一旦僕の方で整理するよ。それから一緒に対策を考えよう」

「お願いします」

 と、お礼を言ってわたしはソファーから立ち上がった。


 今すぐに顔を洗いたかった。


 しかし木坂先生は、「ああ、そうだ」とわたしを呼び止めた。

「細倉さん。来週からフィールドワークに行くんだっけ?」

「そうです」


 フィールドワークとは既に誰かがまとめた書物ではなく、現場に直接赴いて研究に必要な情報を収集することだ。わたしの専攻は、山村に残された古い文書や言い伝え、史跡などから、その地域独特の歴史や、人々が抱いていた価値観、あるいは、他の村々の記録と比較して、日本山村特有の共通項などを導き出すことで、民俗学や文化人類学と呼ばれる分野だ。この分野では資料を足で稼ぐことが欠かせない。そこで定期的に研究対象とする地域へ資料探しに赴く。研究室で一夜を明かしたのも、来週のフィールドワークの準備のためだ。


「場所は、君の実家の近くの……」

 木坂先生の質問にわたしは頷いた。

「はい、いつものところです」

「そうか、杉田くんは元気にしているかな。できれば僕も顔を出したいところなんだけど、ちょっと足が……」木坂先生は膝をさすった。

「無理しないでください。調査状況は逐一メールで送りますから」

「頼んだよ。戻ったら出張報告書を僕に送って。多少だけど援助できるはずだ」


 もちろん金銭のことだ。フィールドワークには旅費代、現地での調査費もろもろ、決して安くはない出費が発生する。研究生と言っても、せいぜい大学の設備を使わせてもらえるだけで、その他の研究費用のほとんどは自分持ちになってしまう。そこを先生の『個人的配慮』で助けてもらっているのだ。


「ありがとうございます」

 わたしは深々と頭を下げた。


「僕にできることは、せいぜいそれくらいだから……」

 木坂先生は柔和な笑みを浮かべたが、目はどこか悲しげだった。



□ 五月一二日 夜 自宅


「ただいま」

 と言っても、1Kの小さなアパートには、返事をする家族もいなければ、尻尾を振って主人を出迎える従順なペットもいない。冷え冷えとした暗闇が広がるだけだ。


 部屋中の照明を点けて、さっとシャワーを浴び、部屋着のTシャツ、短パンに着替え、溜まりに溜まった洗濯物を放り込んで、洗濯機を回す。大学入学で上京した時に買った十年物の洗濯機は激しい振動とともに、ぐおんぐおんと大きな音を立てた。近所迷惑かもしれないが、隣からは、複数の女子の甲高い笑い声が引っ切り無しに響いてくるのだからお互い様だ。


 丸クッションに腰掛け、あぐらを組んだ。そして、帰る途中のコンビニで買ってきた、缶酎ハイと揚げ物を目の前の小さな白テーブルに並べた。こんなものを夜遅くに口にしたら、胴回りに残留するのは確定だが、そんなことは気にしない。これがわたしにとって唯一とも言えるストレス解消法なのだ。


 早速缶酎ハイに手を伸ばしふたを開ける。プシュッと心地よい音がした。コップに注ぐことはせず、そのまま口をつけてぐいっと一口。


「あーっ」


 思わず声が漏れた。いくら見た目にこだわらないわたしでも、この姿を人前に晒す気にはなれない。


 一息つくと、昼間の木坂先生とのやりとりを思い出してしまう。


「あームカつく!」スパイスの効いたチキンの揚げ物を喰らい、酎ハイで流し込む。「なによ、こっちの苦労も知らないで……。毎日、アパートと大学とバイト先を夜遅くまでぐるぐる回って、友達と遊ぶ時間もお金もないっていうのに。博士号の一つもくれたっていいじゃない。減るもんじゃあるまいし」


 一気に缶酎ハイを飲み干し、二本目に手を伸ばす。


「あーっ、もう」


 このむしゃくしゃした気持ちをどこへ向ければいい?


 とりあえずテレビのリモコンに手を伸ばし、電源を入れた。馬鹿馬鹿しいお笑い番組かコメディー映画でもやってないかしら。


 目の前の二十インチの液晶テレビに数人の男女が映し出された。


「あっ……」


 隅に座っている一人の若い女性に目が止まった。見たことがある顔だった。確か、若くして某有名私立大学の特任准教授になった人だ。マスコミからは美人すぎる大学教授と言われて——准教授だっつーの!——、最近様々なメディアに引っ張りだこらしい。


『それでは先生、今回の事件についてどう思いますか?』


 司会と思わしき短髪の中年男性が、『美人すぎる大学教授』にコメントを求めた。どうやら、政治事件から芸能ニュースまで幅広く取り扱うワイドショー的な深夜番組のようだ。


 大きく胸元の開いたスーツを着た特任准教授の女性は、にっこりと微笑んで答えた。


『大変興味深いニュースだと思います。犯人の行動は心理学的にいうと……』


 彼女は専門用語も交えて喋り出すと、すぐさま司会の男性は、

『何難しいこと言ってるんですか、さっぱりわからないです』

 と口を挟んで、品のない笑みを浮かべた。


『いえいえ、そんなに難しいことは……、』

 特任准教授が否定しようとすると、すぐさま別の誰かが、

『先生は色々御託を並べてるけど、要するに被害者の方が馬鹿だって、言いたいだけでしょ』

 と言って、会場は爆笑に包まれた。特任准教授もはにかむような笑みを浮かべていた。


「何よ、この下らない番組」わたしはポテトフライを放り込んだ。「全然大したこと言ってないじゃない。わたしでもあれくらいのコメントできるわよ。それに、研究者を馬鹿にして……。あの女もあの女よ。ちゃんと言い返さないと」


 缶酎ハイをあおる。


 でも……、年齢も経歴も大して変わらないはずなのに、一方はテレビで芸人に混じってちやほやされて、一方はストレス発散に呑んだくれて……。


 ——この違いは、一体なんなの?


 次の瞬間、お腹の中で何かが爆発したかのような圧迫を感じた。


「うっ!」


 口を押さえ、お腹に力を込めて、逆流してくるものを必死に押しとどめた。


 喉が焼けるように熱い。


 缶酎ハイと一緒に買ったペットボトルのお茶を、喉を洗い流すように飲み干した。手の甲で唇を拭う。


 ——どうしてわたしはこんな……。


 その時、ブルルルッと、テーブルの脇に置いておいたバッグが震えた。


「……誰、こんな遅くに」


 面倒だと思いながらも、バッグを引き寄せ、スマホを取り出し、画面を確認する。


 母からだった。


 わたしは電話に出た。「……もしもし」


『あっ、博美。もしかして寝てた?』


 夜中とは思えないほど明るい声が響いてきた。


「ううん。まだ起きてた」リモコンを操作してテレビの音量を下げる。「どうしたの、こんな遅くに?」

『明日の予定を訊こうと思って。何時頃帰ってくるの?』

「あれっ? メッセージ送ってなかったっけ」

『えっ、嘘!』がさごそと何かを漁る音がした後、『ほんとだ、二日前に届いてた。それにわたし、博美に返信してるし』

「ちょっと、しっかりしてよ、お母さん……」

 と軽口を言いながらも、背筋に寒気を感じていた。とうとう母も認知症だろうか? 今の生活じゃ母を支えていくことなんてとてもできない。


『やだわ。本当にもう恥ずかしい……』一方、母はあっけらかんとした口調で返した。『まっいいわ、博美の声が聞けたから』

「聞けたって……、別に明日会うじゃない」

『明日会うってわかっていても、親はいつでも子どもの声を聞きたいものよ。それに……』

「それに?」

『ちゃんと言葉で伝えたかったの。お誕生日おめでとうって』

「あっ!」


 すっかり忘れていた、今日がわたしの二十九回目の誕生日だということに。

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