7月7日
お読みいただきありがとうございます。
ブックマーク、評価、レビュー等いただきまして、ありがとうございます。この場を借りて感謝申し上げます。
お話の方は残り僅かです。
□ 七月七日 夕方 大学の大図書館
気づけば、西日がわたしの頰を照らしていた。
本に挟んだ栞の位置は変わっていたし、メモ帳に直筆の記述も増えていたが、これまでに自分が一体何をやっていたのか思い出せない。
ここ最近ずっとこんな調子だ。読んだ本は積み上がり、メモも増えているが、頭には全く残らず、魔導書調査の進展は一切ない。
このままでは駄目だ、ということはわかっていながらも、体も頭も動いてくれない。
さっきからアランがわたしに向かって何か言っているが、言葉はまったく耳に入ってこない。
突然、肩を揺すられた。
顔を上げると、そこにマリエルがいた。
「あれ、マリエル?」
「あれ、じゃないわよ、ヒロミ。お屋敷に何日帰ってこないの!」
彼女の大きな声で、ビリビリと鼓膜が痛んだ。
「えっ? 昨日はちゃんと帰ったでしょ?」
「何言ってんの! もう三日も帰ってないじゃない。さすがに心配になって見に来たの」
「嘘っ!」
わたしはスマホのカレンダーを確認しようとしたら……バッテリーが切れていた。
「あたしが嘘言ってどうするの」マリエルの憤然とした表情が、アランへ向けられた。「アランもずっと一緒にいたのなら、もっと早くなんとかしなさいよ!」
「い、いやっ、その。声がかけづらくて……」アランは肩を落とししゅんとなってしまった。
「本当に、いざって時に役に立たないんだから……。さっ、ヒロミ、今日はもう帰ろ」
マリエルがわたしの腕を掴んで、席から立たせようとしたが、わたしは机を掴んで抵抗した。
「でも、まだ調査が残っているし……」
「そんなの、明日やれば良いじゃない」
「でも、一刻も早くやらないと……」
「やらないと?」
「やらないと、ロジェが……って、えっ?」
最後の問いかけがマリエルでもアランでもない声だと気づいて、咄嗟に図書館の入り口へ視線を向けると、そこにはいつも通り黒のタイトドレスを着たテレーズが立っていた。
「テレーズさん、どうしてここに?」
公女殿下はつかつかと早足でわたしたちの方へ近づいてきた。
「貴女のメイドがとても不安そうな様子だったので、一緒について来たのですが、何か問題でも?」
「い……いえ、別に」
テレーズの冷ややかな声を聞いて、背筋が凍った。しかしおかげで、ようやく意識がはっきりしてきた。
テレーズはゆっくりと、図書館——今では、初めて足を踏み入れた時と同じくらい本が散乱していた——を見渡し、それから再びわたしへ視線を向けてきた。
「賢者殿、ちょっと、付き合ってもらえませんか?」
もちろん、断れなかった。
荷物を片付け、図書館を出ようとしたところで、アランは、
「じゃあ僕はこれで失礼します」
と言って、一人立ち去ろうとしたが、マリエルにがっちりと腕を掴まれてしまった。
「当然アランも一緒に行くのよ」
「いや、なんかお邪魔かなって思うんだけど」
彼は珍しくマリエルの意見に逆らった。きっとわたしと同じように、テレーズの様子に只ならぬものを感じとったらしい。
しかし、テレーズの「貴方も来なさい」の一言で、アランは降参したようにうな垂れた。
わたしたち四人を乗せた馬車は、聖都の大通りを横切り、大公家の黒塗り馬車が通るには似つかわしくない裏通りを進んだ。
「ど、何処へ行くんですか、テレーズさん?」
少々緊張を覚えながらわたしは訊いた。すると彼女は短く、
「着けばわかります」
とだけ言った。
嫌な予感はますます強くなっていく。
もしかして、テレーズはわたしを人気のない所へ連れ込んで、抹殺しようと考えているのでは?
どうして?
それはもちろん、わたしが何の成果も出せない役たたず賢者だと見なされたからだ。マリエルとアランはわたしのことをよく知っている人間ということで、一緒に消そうとしているのだ。
額にびっしりと現れた脂汗を拭い、わたしは意を決して、テレーズに言った。
「テレーズさん、わたしが賢者として分不相応だってことはわかっています。だからわたしはどうなってしまっても構いません。でも、どうかマリエルとアランの命だけは助けてください。二人はわたしに付き合って聖都まで来てくれただけなんだから。どうかこの通り、お願いします」
わたしは深々とお辞儀して、恐る恐る、テレーズを見上げた。
すると、彼女は驚愕したような表情を浮かべていた。
……ああそうだった、ここではお辞儀は相手を怖がらせるものだったんだ。
わたしは慌てて付け加えた。「わたしは決して喧嘩を売るつもりは……。全てテレーズさんに従いますから。どうかマリエルとアランの命だけは」
「あ、貴女は一体何を言っているのですか?」
テレーズは口をぽかんと開いたまま、固まっていた。
「えっ? だから、わたしを暗殺しようとしているのでしょ。あの、チョコレートの時みたいに」
「はっ? わたしはただ……」
馬車が止まった。
「わたしはただ……、貴女たちをここに連れてきたかっただけなんですが」
開かれたドアから、アルコールと肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
□ 七月七日 夜 聖都裏通りの居酒屋
馬車から降り立つと、そこは華やかな聖都の印象からは程遠かった。新橋の高架下に軒を連ねる飲み屋街と表現するのが近いだろう。テレーズはその中で最も老舗風の建物の店——つまり、元々の壁の色がわからなくなるほど真っ黒に煤けていた——に入った。
「また来たわ。今日は四人、席は?」
と、テレーズがカウンターの奥にいる年老いた店主に声をかけると、彼は何も言わず顎で奥のテーブルを示した。もっとも、この小さな店にカウンター以外の席は一つしかなかったのだけど。
テレーズが席に座り、わたしは対面に腰かけた。しかしマリエルとアランは立ったままだ。
「あの、あたしたちも座っていいんでしょうか?」
「もちろん。賢者殿と親しい貴女たちの話も一度聞いてみたかったから。ここでは身分の差なんて気にしなくてもいいわ」
「そういうことなら」
マリエルがさっさと座る。アランはまだ躊躇していたが、テレーズが無言で彼の顔を見つめると、アランはそそくさと座り身を縮めた。
テレーズは早速店主に声をかけ、わたしが知る限り、この世界で最も度数の高いお酒を注文した。
「貴女たちは?」
テレーズがテーブルを見渡す。わたしたち三人は顔を見合わせ、一番度数の低いワインを頼んだ。
注文の品々がテーブルに並べられた。テレーズがグラスを掴む。わたしたちもそれに続いて、ワイングラスを掴んだ。
「まっ、とりあえず乾杯」
「「「……乾杯」」」
上司に無理やり連れてこられた平社員よろしくワインを舐めるように飲むわたしたちの横で、テレーズはグラスを一口で空にして、
「店主、もう一杯」
と、すぐさまお替りを注文した。
——ええっと、何だこれ?
今更ながらわたしは混乱した。どうして今、わたしたちはテレーズと酒を酌み交わしているの? 彼女はわたしのことが嫌いじゃなかったの?
お替りのグラスがテーブルに置かれ、テレーズは、今度は半分ほど飲み干した。
「やっぱり、酒は良いね。特にこういう小さな店で飲むのは。晩餐会じゃ人の目を気にして飲んだ気になれないし。みんなもそう思わない?」
「わかる、わかる」マリエルがすぐさま首肯した。「地下の食堂で他のメイドたちと食事してると、メイド長がじっと睨んでくるのよ。少し笑い声をたてただけで、うるさいって怒鳴ってくるし。少しぐらい良いじゃない」
「ああ、あの人前は尼寺にいたから。厳格なのに慣れているのよ」と、テレーズ。
「何とかなりません、公女殿下?」
「今はテレーズでいいから」テレーズはグラスをあおった「彼女は厳しいけど仕事はできる人だし。もっと部下に優しくとは言っておくけど、そっちも少しは我慢してくれると嬉しい」
「そんな……」
「ちょっ、ちょっと、テレーズさん」
わたしは二人の会話に割って入った。この店はテレーズのお気に入りなのか? とか、どうして二人はいきなり旧知の仲のように話せているんだ? とか疑問は尽きないが、わたしはもっと根本的な質問を投げかけた。
「これは、何のつもりですか?」
テレーズは首を傾げ、目をぱちくりさせた。
「何って、飲み会だけど? 強いて言うなら女子会?」
「ぼ、僕もいるんですけど……」というアランの呟きは無視して、わたしはテレーズに問うた。
「飲み会って、どうしてこんな時に?」
今では晩餐会すら自粛されているというのに。国境では戦いが続き、ロジェの生死もわからない状況で、呑気に酒を飲むという精神が理解できなかった。
しかしテレーズは堂々と言ってのけた。
「こんな時だからこそです。わたしも今の状況はよく理解しています。そして、一刻も早く現状を何とかしたいと強く思っています」
「だったら、こんなことしている暇なんてないでしょ」
「賢者殿」
テレーズは落ち着いた口調で答えた。
「焦る気持ちはわかりますが、人は常に気を張り続けることなんてできません。たまにはこうした息抜きが必要なのです。わたしだってそうです。お父様の秘書をやっていると、一癖も二癖もある老獪な連中を相手にしなければなりません。これが本当に肩が凝るんですよ。だからこうして、時々人目をはばからなくていい所で思う存分酒を飲むのです」テーブルに置かれたグラスを手に取った。「そうすると、嫌なこと全部忘れて、また明日も頑張ろうって気になってきます」
「それはわかります。でも……」
「賢者殿が仰りたいことはわかります。ですが、ここでわたしたちが苦行僧のように耐え忍んだとして、魔王は兵を退いてくれるでしょうか? 弟は帰ってくるでしょうか? 帰ってくるとしたら……もちろん帰ってくると信じてますが、それは弟の力であってわたしたちの力ではありません。そんな自分ではどうにもならないことに心を砕いて時間を浪費するくらいなら、あらゆる手段を使ってでも、己の責務を全うすべきでしょう」
「あらゆる手段に……、これも含まれるんですか?」
「ええ、もちろん」テレーズは頷き、グラスの残りを飲み干した。
彼女の話は頭では理解できる。しかし、胸の中にもやもやが残るのも確かだった。
「あのう、ヒロミさん」
恐る恐るといった様子でアランが声をかけてきた。
「前に僕に言ってくれましたよね。『根詰めるのは良いけど、たまには休まないと』って。多分今のヒロミさんに必要なのは休息だと思うんです」
「えっ?」
狐につままれたような心地だった。まさかアランにそんな指摘をされるとは。
「そうよそうよ」マリエルも婚約者に同調した。「たまには気分転換に羽目を外さないと」
「マリエルはいつも羽目を外しすぎだ」
「何よ、あたしだって真面目に仕事くらいしてるわよ」
「二人とも、静かになさい」
テレーズのひと睨みでアランとマリエルは石のように固まってしまった。
「でも、わたしもこの二人と同意見です」
テレーズが僅かに身を乗り出し、わたしの方へ顔を近づけた。
「その顔……、馬車の中でも何か言っていましたが、不安がありますか?」
すべてを見透かしたような目を向けるテレーズ、それにどことなく悲しげな表情を浮かべるマリエルとアランを前にして、今更取り繕うことは出来なかった。
わたしは正直に頷いた。
「……はい。大学の教授たちも大公陛下も、それに戦いに行っている兵士たちも、みんなわたしが賢者であることを期待してくれています。わたしとしても、こっちの世界へ来て路頭に迷っていたわたしを助けてくた人たちの思いに応えたい、それに……ロジェを助ける手助けがしたいと、思っています。でも全然うまくいかなくて……、こんなわたしが、みんなを救うなんて無理なんです」
「あーなるほど」
テレーズはとんとんと自身のこめかみを叩いた。
「だとすると、むしろわたしたちが貴女に謝らないといけないですね」
「謝る?」
「ええ。ここで一つだけはっきりさせておきましょう」彼女は細い人差し指を立てた。「貴女に、わたしたちや世界を救ってもらおうだなんて、これっぽっちも思っていません」
「えっ?」わたしはテレーズの顔をまじまじと見た。「でもあの時、クレイの街で兵士たちは……」
「それはお父様が悪いですね。どうも賢者殿の役割を拡大解釈している人が多いですが、わたしたちが賢者殿に本当に望むことは、世界を救うための知恵を貸してほしいだけであって、実際に世界を救うのはこの世界の住人たるわたしたちです」
将棋の盤面をひっくり返したような言葉に、一瞬、目の前が真っ白になった。
「ええっと、つまり……」
「わたしたちにも非はありますが、貴女もいつの間にか賢者の役割を拡大解釈し過ぎていたのではないでしょうか? 全ての責任を貴女に押し付けようなんて思っていません。少なくともわたしが貴女に求めることは、魔導書の在り処の手がかりだけ、それ以上でもそれ以下でもありません」
「でも、その手がかりすらわたしは掴めていません。本当にわたしにテレーズさんたちを助ける力があるでしょうか?」
「そんなことを、わたしの口から言わなければいけませんか?」と、テレーズは冷たい口調で言い放った。「賢者殿、どうかもう少し自分に自信を持ってください。今酒を飲んで罪悪感を覚えるのは、自分のやっていることに自信がないから、だと思うのです」
「自信ですか……。博士号も取れないわたしにはとても……」
「ああ、訂正します。能力に対して自信を持てと言いたいわけではありません。そんなこと言ったら、わたしだって、秘書としての能力に必ずしも自信を持っているわけではありませんし」
「「「えっ、そうなんですか!」」」
わたしたち三人は一斉に叫んでいた。
テレーズはわずかに顔をしかめた。「貴女たちはわたしのことを何だと思っているのですか?」
「えっと、それは……」
わたしとマリエルとアランは互いに顔を見合わせ、曖昧に笑ってみせた。周囲から恐れられる鉄血の女、なんてもちろん口が裂けても言えない。
「とにかく」テレーズは鼻で荒く息をした。「わたしだって、大使との交渉をうまく進められるか、といつも不安に思っています。でも、彼らと交渉して何としても譲歩を引き出すことが国のためであり、そのために、今ここで英気を養うことが誰になんと言われようとも必要だ、と信じて疑っていません。これは能力云々というより、自身の行動に自信と責任を持つ、どちらかというと信念の問題だと思います」
「大変じゃありませんか、それ」と、アラン。「自信や責任を持とうにも、何の裏付けもないってことですよね。言ってみれば虚勢だ」
「ええ、大変です」テレーズは素直に頷き、そしてにやりと笑った。「だからこうして、時々ここにきて酒を浴びるほど飲むのです」
テーブルにおつまみが並べられた。マリエルが早速パクパクと頬張り始めた。
わたしは目をつむり、そして大きく息を吐いた。
なるほど、わたしは不安と恐れから周りが見えていなかったようだ。自分のことを、自分で冷静に見つめるのは案外難しい、と痛感する。だからこそ、テレーズやアラン、マリエルたちの言葉は、様々な気づきを与えてくれて、とても嬉しかった。
テレーズの最後の言葉は言われてみれば当たり前のことなのかもしれない。わたしは研究をやりたくてポスドクを続けていた。そこに、博士号を取れる根拠なんてありはしないのに。賢者として聖都に来たのも、最初から何かができる算段があったわけじゃない。
それらの信念をどうやって達成するか? 行き詰るたびに、技術なり知恵なり周りから助けを得るなり、工夫して進めていくしかない。
そしてようやく、わたしは行き詰まったり胸にモヤモヤを抱えたりした時に、それを調伏する方法を思い出すことができた。それは、自宅のワンルームマンションで夜な夜な実践してきたことと変わらない。
わたしは目の前にあるワイングラスを一気に飲み干した。そして店の奥にいる店主に向かって言った。
「わたしにもテレーズさんと同じものを!」
手元にグラスが届くと、それを高々と掲げた。
「みんな、今夜はとことん付き合ってもらうから!」




