6月27日〜7月5日
□ 六月二七日 ブロイ大公領クレイ街
早朝、ブロイ大公に呼び出された。一緒にクレイの街まで来てほしい、と。
クレイの街と言えば、以前連合軍の陣中見舞いに行ったところだ。
「あの、今日も魔導書調査があるのですが?」
「それも重要だが、こっちでも賢者殿の力を必要としているのだ。夜までには戻る。だからどうか、付いてきてはもらえまいか」
と、有無を言わせぬ大公の口振りにわたしは承諾するよりほかになかった。
わずかな護衛と共に、大公と二人馬車に乗ってクレイへ向かう。道中、大公は無言だった。だから、薄々、嫌な予感はあった。
クレイの街に着いて、馬車を降りると、大公が辛そうな表情で言った。
「この先は、女性には辛い光景だろう。耐えられなければ目をつむってもらって構わない。だが、賢者殿の姿を彼らに見せることが重要なのだ」
唾を飲み込んでから、わたしは答えた。
「わたしは……大丈夫です」
大公の後に続いて、街に足を踏み入れた。
覚悟はしていた。しかし、その光景を見たとき、わたしはしばらく息ができなかった。
たくさんの傷ついた兵士たちが疲れきった様子で地面にしゃがみこんでいた。腕や足、頭に赤く染まった包帯を巻いている者たち、じっと目を抑えて動かない者たち、肘から先を失った者たち……。
彼らの間を街の人たちがせわしなく行き交い、傷の手当てや食料を配布している。
遠くへ目をやると、教会堂の隣の広場にもたくさんの人たちが横たわっていた。全身をシーツに覆われた人影も見えた。そして屋根の上には、何かを狙わんとする無数のハゲワシたちの姿があった。
街人たちの叫び声、兵士たちの呻き声、ハゲワシの鳴き声が、耳を覆いたくなるような不協和音を奏でていた。
「大丈夫かね」
隣に立つ大公が小声で訊ねてきた。
「大丈夫、です……」
と言いつつ、手足の震えが止まらなかった。
「前線から撤退して来た連中だ。国境付近では今も戦闘は続いている」
わたしのすぐ横を簡易担架が通り過ぎていく。だらりと垂れ下がった腕がシーツから覗いていた。
込み上げてくる吐き気に耐えきれず、咄嗟に口を押えた。喉がひりひりと痛い。
「賢者殿、もう少しだけ我慢を。すぐに終わるので」
大公はわたしに優しく声をかけ、それから広場に集まる兵士たちによく通る声で言った。
「兵士たちよ、よく戻ってきてくれた。貴殿らの働きを讃えるため、我ら賢者殿が来てくださっている」
疲れ果てていた兵士たちがゆっくりと顔を上げる。その瞬間彼らの瞳が輝きだした。
「おおっ、賢者様、賢者様だ!」
兵士たちが口々にわたしを礼讃する声を上げた。
「賢者様が来てくれた、これでもう安心だ!」
——やめて、もう限界!
わたしは叫びそうになった。
どうしてわたしのことをそんなに称賛するの? わたしはただのポスドクで、定職にも就けないフリーターなのよ。わたしが彼らを救うなんてできるわけない。
ついこの前まで、マリエルやアランとのんびり田舎暮らしを満喫して、大公屋敷で分不相応なドレスを着てにこにこ愛想笑いを浮かべながら食事して、図書館で面白い本を読み漁って、ロジェとちょっとだけいい雰囲気になっていたのに。
どうしてこうなってしまったの。
——ああ……、ここではないどこか遠くへ逃げ出したい。
□ 六月二八日 大公屋敷
あれからどうやって聖都に戻ったのかは覚えていない。気づいたら屋敷のベッドに横になって朝を迎えていた。
「ヒロミ、凄く顔色が悪いわよ。病気? 今日大学へ行くのやめる?」
マリエルが心配そうな顔で覗き込んできた。
「心配してくれてありがと。でも大丈夫、大学は行く」
「本当に?」
「本当に大丈夫。前もらった栄養ドリンク、また持って来てくれる?」
「ヒロミが言うなら……」
マリエルは心配そうに何度もわたしの顔を見ながら、部屋を出ていった。
どうしてこんな思いをして、わたしは今日も大学へ行くのだろう? 投げ出してしまえばいいのに。
ああそうか、投げ出すこと自体が怖いのだ。
わたしから博士論文を取るという意思が無くなったら、何が残るのだろう?
この世界で今賢者という地位を失ったら何が残るのだろう?
それを知るのが怖いのだ。
だからわたしは自分でも気づかないうちに、すっかり賢者のふりをしていたのではないか。
滑稽、実に滑稽だ。
期待にも答えられず、自分でも不相応だとわかっていても、今更演じることをやめられない。
□ 六月二九日
日の出とともに大公屋敷を出て、日付が変わる頃に帰って来た。軽い夜食をとって寝る。
□ 六月三十日
図書館に行き、図書館で食事をし、図書館で寝た。
□ 七月一日
今日も図書館。
□ 七月二日
昨日と同じ。
□ 七月三日
昨日と同じ。
□ 七月四日
ロジェは無事なの?
□ 七月五日




