6月17日〜6月22日
□ 六月一七日 大学の大図書館
翌日になっても、神聖騎士団からの連絡はなかった。ロジェのことは気掛かりだったが、親のブロイ大公も姉のテレーズも、いつも通り職務を全うしている以上、わたしだけ心配で調査に手が付かない、と言うわけにはいかない。賢者として魔導書のありかをはっきりさせることが求められているのだ。
一日調査を進め、夕方、図書館を出たところで、アランが訊ねてきた。
「何か進展はありそうですか?」
「今はなんとも……」すっかり暗くなった廊下へ視線を向けながらわたしは言った。「もう少しいくつかの文献を読み進めてみないことには」
これまでに原書を見てきたが、結局不審な点は見当たらなかった。そこで、これまで出された『闇の黙示録』に関する注釈書の確認を始めたが、文献を少し紐解いただけで、魔導書のありかについて、星の数ほどの説が提唱されていることを知った。うんざりするような状況だが、一つずつ地道に調べていくより他にない。ただ、当たりをつけるために、探索計画の関係者に話を聞いた方が良いだろうと思いはじめていた。
「明日からもう少し調査の時間を伸ばそうと思うの」
と言うと、すぐさまアランは言った。
「僕も付き合いますよ」
「悪いわ、アランにだってやることがあるでしょ。論文とか」
数秒の間があって、アランは答えた
「……いや、大丈夫です。それに、今の状況じゃあ、こっちを優先させた方がいいかと」
魔王の軍勢の動向については、今や聖都中の知るところとなっていた。大公や教会の尽力でまだ大きな混乱は起きていないが、それもいつまで保つことか。
「ごめんなさい、じゃあよろしくね。夕食はこっちでなんとかするから」
「ありがとうございます」
アランが帰った後、ふと思った。
賢者の地位を利用して残業を強制……、これって、パワハラじゃないよね?
□ 六月一八日 大学
魔導書の所在に関する仮説を聞きに、副学長のドミニクを訪ねた。彼は喜んでわたしに教えてくれた。
「賢者殿が私を頼ってくださるなんて、なんたる光栄!
「ええ、説はいくつかあります。一番有力だと思われていたのが、以前もお伝えした通りネーロ川の沿岸にある教会群です。しかし、念入りな調査を実施したにも関わらず、発見には至りませんでした。
「あとはキャニオン川の古墳墓地域ですね。教会成立初期に建てられた教会堂がたくさんあります。しかしそこも駄目でした。
「で、現在有力視されているのが、グロウ川の沿岸です。理由はわかりませんが定期的に水が黒く濁る川で、『暗き川』にぴったりじゃないかと」
「そこの調査状況は?」
「現在進行中です。ちょうど昨日から現地調査が始まって、クレメンス猊下も視察に行ってらっしゃいます」
「他の説は?」
「もちろんありますが……、今お伝えした三つに比べると可能性はずっと低くなります。グロウ川で見つからなければ、もう全ての川をしらみ潰しで調査するぐらいしか方法はないかと。さすがに現実的ではありませんが……」
この話を、屋敷から持参した夕食を食べながらアランに話すと、
「で、僕たちどうするんです?」
と、至極もっともな疑問が返ってきた。
「グロウ川で見つからなかった時に備えて、他に可能性のある仮説を選び出すことね」
「なんだか、雲をつかむような話ですよね」
「宝探しって、そんなもんだから……」
わたしは紅茶を飲み干し、テーブルに広げた文献の続きを読み始めた。
神聖騎士団からの連絡は今日もなかった。
□ 六月一九日 大学の大図書館
引き続き、関連文献の調査。
今日も、これは? という情報は見つからない。すでにアランやドミニクが知っているものか、胡散臭い内容ばかりだ。
しかし、確認すべき文献はまだまだある。昨日今日と、これまでよりも二時間ほど長く図書館にいたが、もう少し伸ばした方が良さそうだ。
神聖騎士団からの連絡は今日もなかった。
□ 六月二十日 夜 大公屋敷
図書館での調査を終え、人通りの途絶えた暗い夜道を通って屋敷に戻ってきた。そして、食堂で独り簡単な夜食を取った。毎夜、大勢の客が集まり盛大な晩餐会が開かれていた大公屋敷も、ここ数日はメイドやボーイの足音がはっきりと聞こえるほどの静けさに包まれている。あの息苦しかったはずの晩餐会が、今ではとても懐かしく感じられた。
食事をあらかた終えたところで、テレーズがやってきた。
「こんばんは、テレーズさん、お食事ですか?」
「ええ、ただすぐに次の会議がありますので、簡単に」
テレーズはわたしの前に座ると、間もなくスープが運ばれてきた。彼女はスプーンですくい音も立てずにすすった。
「あのう、テレーズさん。戦況はどうなんでしょうか?」
「あまり良くはありません」テレーズは顔を上げて答えた。彼女の表情から疲労の色が滲み出ていた。「連合軍の救援部隊の編成が遅れています。一部の国が兵力を出し渋っているもので」公女殿下はパンをちぎって口に放り込み、ゆっくりと咀嚼した。「……あの忌々しい強欲古狸大使供め……」
「テ、テレーズさん?」
聞き間違えだろうか、冷静沈着な彼女からは想像もつかないような、どす黒い感情が込められた言葉が呟かれたような?
「ん?」テレーズは二度目を瞬かせた。「わたし、何か言いましたか?」
「い、いえ、別に」これ以上突っ込んではいけないと、第六感が働いて、慌てて頭を振った。「それより、ロジェ……神聖騎士団から連絡はあったんでしょうか?」
「ありません」テレーズは首を振った。「前線の砦から断続的に攻撃を受けている、という連絡があるだけです。その戦場に、騎士団がいるかどうかは残念ながら……」
「そうですか……」
ロジェとは長らく会ってないような気がする。彼は無事だろうか? 彼の声が聞きたい。無性にそう思った。
テレーズは一気にスープを飲み干し、席から立ち上がった。
「時間ですので、お先に失礼します」
「あっ、はい」わたしは座ったまま頷いた。
「では」テレーズは食べかけのパンを持って、早足で食堂から去っていった。
調査時間をもっと増やそう、とわたしは決意した。
□ 六月二一日 大学の大図書館
引き続き、文献調査中。特に進展なし。
アランはこれまでずっと夜遅くまで、わたしに付き合ってくれているが、さすがに疲れが顔に表れていた。それを指摘すると、
「ヒロミさんほどじゃないですよ」
と、言われてしまった。
恐る恐る鏡で顔を確認してみると、聖都にきた頃は、血色も良く、髪もツヤツヤしていたのに、今は大きなくまができていて、髪もパサパサで寝癖も残っている。いつもならマリエルに身支度を手伝ってもらっていたのに、今日は出かける直前まで布団にくるまり、朝食も取らずに大学に来てしまったからだろう。
でもそれは、東京にいた頃なら普通のこと。つまりこれが本当の普段のわたし、というわけだ。
思わず、大きなため息が漏れた。
神聖騎士団からの連絡は今日もなかった。
□ 六月二二日 大公屋敷
他国の砦も魔王の軍勢に襲われたらしい。大公屋敷は連合軍が魔王に襲われた時以来の慌ただしさに包まれていた。
玄関を通る時、ブロイ大公と老大司教の話し声が耳に入ってきた。
「間違いなく、この前の我々の遠征に対する魔王の逆襲でしょう。しばらくは緊迫した事態が続くと思います。それで、民を不安にさせたくはないのですが」
「民衆の心を癒すのが我々聖職者の役割です。そこはお任せ下さい」老大司教は力強く言った。「しかし、実際のところ、戦況はそんなに悪いのですか?」
「予断を許さぬ状況ではあります。このままではいくつかの砦は放棄することになるかもしれません」
「なんと。連合軍の救援部隊はどうなっているのです?」
「娘が各国大使との調整を粘り強く続けてくれていますが難航しています。それに、今回のことで兵力を出し渋る国が増えるかもしれません。当然どの国も自国を優先しますから。何れにせよ、しばらくは今の兵力で押しとどめないと……」
老大司教は大公に優しく語りかけた。「心配でしょうな、息子さんが。しかし必ずや神のご加護がありましょう」
「……はい。そう、信じています」
大公の震える声を聞いて、わたしは胸が締め付けられ、その場に立っていられないほど足が震えた。
……ロジェ、必ず無事に帰ってきて。




