6月12日
□ 六月一二日 聖都近郊
翌日、結局わたしはロジェとの待ち合わせ場所にやってきた。
——あんな奴でもせっかく誘ってくれたのだ、顔くらいは出さないと仁義に欠けるだろう。マリエルからもくどいほど勧められたし。
と、自分に言い聞かせながら、大公屋敷の厩舎前に行くと、立派な体躯の白馬の傍らに、ロジェが立っていた。彼はわたしの姿を見つけると大きく手を振ってきた。
「ヒロミ、おはよう。今日は一段と綺麗だ」
「いつもと変わらないけど」
「じゃあ、いつも綺麗だってことだ」
お世辞だってわかっていても、胸がどきりと高鳴ってしまう自分の耐性の無さが腹立たしい。
「で、今日はこれからどうするの?」
ロジェは白馬の鞍を叩いた。「こいつで山の方まで行ってみないか? 良い場所を知っているんだ」
ロジェが先に馬に乗り、わたしは彼の手を借りて、後ろに座った。彼が手綱を引くと、白馬は軽やかに走り始めた。店が開いたばかりでまだ人通りの少ない商店街を通り抜け、城門を出た。日の光を受けて、黄金色に輝く草原がどこまでも広がっていた。
「久しぶりだな、ヒロミをこうして後ろに乗せて馬を走らせるのは」
「まあ、そうかもね」
わたしがヘッセ村を立ち、聖都に来てまだ半月ほどだけど、色々あって、ずっと昔のことのように思われた。あの時は、まさかロジェと再び馬に乗ることなんて、突然異世界へ放り出されるぐらい想像してなかったけど。
「素晴らしい走りっぷりだろ、俺の愛馬オルフェゴールは。初陣の時に父上から貰ったんだ。俺はこいつといればどんな戦場でも生き残れる自信がある」
遠くの山々がすごい勢いで流れていく。ロジェが自慢したくなるのも納得できた。
「でも、ヘッセ村から聖都へ来るときもこの馬じゃなかったっけ。こんなに速かった?」
「あの時は、周りの速度に合わせていたからな。これが本来のオルフェゴールの力さ。時々こうして全力で走らせてやらなきゃ、機嫌を損ねちまうからな」
「馬を扱うのも大変なのね」
「そうでもないさ、愛さえあれば」
「前を見て走って」
突然こちらを振り返ったロジェに、わたしは冷静に言ってやった。
ロジェとわたしを乗せた白馬オルフェゴールは緩やかな傾斜を登り、程なくして林道に差しかかった。湿気を含んだ土と草木の香りがヘッセ村を思い出させた。
「マリエルたちも連れてきたかった」
ずっと石とレンガに囲まれた聖都にいて、彼女たちも村を恋しく思っているかもしれない。
前を見たままロジェが言った。
「ヒロミはもともと、別の世界の人間なんだよな?」
「何を今更。だからわたし、賢者にさせられたんでしょ」
「どんな世界なんだ? その異世界って?」
「どんなって、言われても……」そういえば、晩餐会の後にサロンで女性陣に向かって日本の話をしたことはあったが、ロジェたちに話す機会はなかった、と思い至った。「この世界とは全然違う。こう言っては申し訳ないけど、文明だけならずっと進んでいる。わたしの世界じゃ馬よりもずっと早く移動できるし、空だって飛べる」
「空を飛ぶだって! 俺はヒロミのことを人間だと思っていたけど、本当は鳥人だったのか!」
「違う。空を飛ぶ機械があるって事。もちろん魔法なんかじゃないわ」
「はあ、凄い世界だな。全く想像できない」
正直、わたしもちゃんと説明できる自信はない、あまりにも当たり前になっていたものを改めて言葉で説明することは案外難しい。
「そんな世界に住んでいたヒロミにとって、俺たちの世界はどうなんだ?」
「どうって言われても」
改めて聞かれると、すぐには答えられなかった。
「この世界にいて、楽しいか?」
「楽しいっていうよりは……」頭の中でちゃんとまとまっていないが、思いつくままに口にした。「興味深いっていう感じ? わたしが今まで知らなかったことがここにはたくさんあるから。わたし、元の世界では研究者やっているの、まあ定職に就けない、アルバイトみたいな扱いだけど」
「ヒロミがアルバイトだって? 信じられないな。こんなに綺麗で頭が良い賢者様だっていうのに」
「そっ……それはどうも」今度はなんとか受け流せた。「そこでは、地域の歴史とか文化をよりよく知るための研究をしていたから、この世界の文化や歴史にも関心があるの。最初は強引に押し付けられたような賢者の仕事だけど、今はそれなりに楽しめてる……、ってことは、この世界にいてそれなりに楽しいってことになるのかな」
「それを聞いて安心した」ロジェはとても安堵したような声で言った。
「もしかしてロジェ、わたしのことを心配してくれていたの?」
「何を言ってる、当たり前だろ」
と、ロジェの驚いた声にわたしは心底驚いた。ずっと彼は口だけだと思っていたからだ。
ロジェは続けた。「周りは知らない連中ばかりだったら、普通は不安で心細くなるだろ。それなのに、ヒロミは凄いな」
頬が火に炙られたように熱くなるのを感じて、わたしは思わず俯いた。「あっ……、ありがと」
「それでヒロミは……、元の世界には帰りたいと思っているのか?」
ロジェの問いかけに「もちろん」と頷きかけたところで、ふと脳裏に、自然豊かなヘッセ村の光景と満員電車から見る東京のビル群、広い大公屋敷の部屋と1Kアパート、毎夜の食事会に出される豪華な料理とコンビニ弁当、煌びやかなドレスの数々と、タンスに眠る使い古された服たちが思い浮かび、体が固まってしまった。
……あれっ? わたしは本当に日本に帰りたいのだろうか?
この時、わたしはロジェの質問に答えることができなかった。
林道が終わり、わたしたちの目の前に、背の高い山々が現れた。麓は緑に輝く草原が広がり、中腹は荒々しい岩がむき出しになり、そして頂上付近は白く覆われていた。一方斜面を少し下ったところでは、幅広い川を雪解け水がゆったりと流れていた。ヨーデルを口ずさみたくなるような光景だ。
「凄いだろ」先ほどの質問に動揺したことも忘れて風景に見惚れていたわたしの横で、ロジェが言った。「近くには村もない、俺とオルフェゴールだけが知る、秘密の場所さ。さあ少し休もうか」
川辺で馬を降りる。持参した蓙を広げ、わたしはロジェと並んで座った。太陽の暖かさと山から吹くひんやりとした空気がとても心地良かった。
「あの。一応軽食を持ってきたんだけど」
わたしはサンドイッチと紅茶の水筒が入ったバッグをロジェの前に置いた。
「おお、これは凄い!」弁当箱に整然と並んだサンドイッチを見てロジェは興奮した様子だった。「ヒロミが俺のためにサンドイッチを」
「あっ、いや、その」
わたしではなくマリエルが作ったもので、強引に渡されたのだ。しかしこちらが説明する間も与えてくれず、ロジェはサンドイッチにかぶりついた。
「うまい。こんなうまいサンドイッチを食べたのは初めてだ!」
「あー……」
ここはちゃんと訂正した方が良いのだろうか? しかし子どものように喜ぶロジェの顔を見たら、何も言えなくなってしまった。
それから、もし同じような機会があったら、今度はわたしが作っても良いかな、と思った。……いつも通り、思うだけで終わらなければ、の話だが。
小腹も満たされたところで、少し歩きたくなって、ロジェと一緒に川辺に沿って散歩を始めた。水はとても澄んでいて、川底までよく見えた。
ロジェとはしばらく他愛のない話を続けた。これまで飲んだ一番おいしいお酒の話や、子どもの頃に流行った遊び、それからロジェの姉テレーズの武勇伝に話が及んだ。昔、各国の大使が大勢大公屋敷に集まったとき、些細なことからブロイ大公とテレーズの間で口論が始まり、彼女は理路整然と実の父親を攻め立て、大衆の面前で赤っ恥をかかせたことがあるらしい。
「見ているこっちがヒヤヒヤしたさ。もう少し父上の面子を考えてくれても良さそうなのに、姉上は身内であっても、間違っていることがあったら容赦が無いから。これじゃあどっちが大公なのか、わかったもんじゃない」
わたしは不覚にも笑ってしまった。その時の親娘の姿がありありと想像できてしまったからだ。
「でも、今のブロイ大公が引退したら、ロジェがその座を引き継ぐんでしょ?」
「それがしきたりだから。もちろん姉上がいれば心強いさ。でも同時に始終監視されていると思うと、今から胃が痛い」
「大変ね、公子殿下も」
「ヒロミもわかってくれるか! 俺の気持ち。姉上と口論するぐらいなら、魔物と戦った方がずっとましさ」
テレーズの氷のように冷たい視線を思い出しながら、わたしは頷き、今度は二人で一緒に笑った。
□ 六月一二日 聖都
昼を過ぎ、わたしたちは、白馬に乗って来た道を戻り始めた。
行きと違ってゆっくりとした足取りだった。わたしは久しぶりに沢山歩いたせいですっかり疲れてしまって、ロジェの背中でウトウトと眠り込んでしまったようだ。目を開けると、聖都の城門が迫っていた。
「ようやくお目覚めかな、賢者殿」
「ああ、ごめん。……って、これ」
わたしの肩にロジェの上着が掛けられていた。
「少し冷えてきたからな」
太陽はかなり傾いていて、聖都の城壁とロジェの背中を赤く染めていた。
「あっ、ありがとう」
ロジェの大きな背中に向かって言った。
「紳士として当然のことだ。……で、今日は楽しかったか?」
「まあ……そこそこ」
本当はとても楽しかった。ただ馬に乗って川辺を歩きながらロジェと話していただけなのに、どうして心はこんなに躍っているのだろう。
少し緊張したような声でロジェが言った。「また、誘ってもいいか?」
本当はまた誘ってほしいと強く思った。しかし、わたしの口からは、次のように言うのが限界だった。「……まあ、時間があれば」
「よし、やった!」
しかし、ロジェが嬉しそうに叫んだので、驚いて危うく馬から落ちそうになった。慌ててロジェの腰を強く掴んだ。
「ちょっと、いきなり驚かせないで」
「悪い悪い。つい嬉しくて……っん、何だあれは?」
「だから、急に動かないで、落ちちゃうでしょ……。今度はどうしたの?」
「城門の様子がおかしい?」
「おかしいって?」
「普段なら数人の門番がいるだけなのに、今はあんなに集まっている」
ロジェの肩越しに目を凝らしたが、わたしの運転免許更新がギリギリ通過できる程度の視力ではわからなかった。
「捕まっていろ」と言って、ロジェは馬の速度を上げた。
城門前に到着するやいなや、門の前にいた人々が一斉に近づいてきた。格好を見るに、神聖騎士団の面々のようだ。
「団長代理、何処へ行ってらしたんです?」
騎士団の一人が言って、ロジェの背後に座るわたしの顔を一瞥した。
「それよりもどうした? 今日は全員休暇だろう」
「それが緊急の事態です。先日クレイの街を発った連合軍から救援要請が届きました」
クレイ街の連合軍……わたしがこの前陣中見舞いに行った部隊だ。
「救援要請? あの部隊が敵の砦に到着するのはまだ先だろう?」
「それが、部隊が大公領を出た直後、魔王の軍勢に急襲されたそうです」
ロジェの声が硬くなった。「つまり、魔王が大公領に攻め寄せて来ったことか。父上は?」
「公女殿下と共に教会と各国大使へ事情を知らせ、対応を協議しているところです。間もなく神聖騎士団へも緊急出動が命ぜられる予定です」
「わかった、すぐ準備する。お前たちもいつでも出られるようにしておけ」
騎士団たちが走り去っていくと、ロジェはこれまで見たことないほど緊張した表情でこちらへ振り返った。
「ヒロミ、聞いていたからわかるだろうが、これから出陣することになった」
わたしはなんて答えれば良いのかわからなかった。
「すまないが屋敷へは一人で帰ってくれ。門番に言えば馬車を用意してくれるだろう」
ロジェはわたしを馬から降ろすと、騎士団の後を追って走り出した。
ようやく、わたしは彼の背中に声をかけた。
「ロジェ、気をつけて……」
ロジェは振り返った。「ああ、ブロイ大公の名に懸けて、魔王の軍勢にこの土地を踏ませはしないさ」
「違う」わたしは叫んでいた、「貴方が無事でいてほしいの」
「もちろん俺も死ぬつもりなんてないさ。またヒロミと遠乗りに行くって、約束したからな」
と言い残し、今度こそロジェは夕闇の中へ走り去っていった。その姿をわたしは茫然と見つめていた。
大公屋敷に戻ると、玄関でマリエルが出迎えてくれた。
「おかえり、ヒロミ。公子殿下とはどうだった?」
「どうだったって……、何かそれどころじゃないって感じだけど」
大公屋敷はいつになく緊張した空気が流れていた。軍人、貴族、聖職者たちがひっきりなしに、屋敷に出入りして、メイドやボーイたちもその対応で慌ただしく屋敷を駆け回っている。
「そうね……」マリエルが彼女にしては珍しく不安げな様子で言った。「魔王の軍勢が聖都に攻めてくるのかな……」
「安心し給え。そんなことはありえんさ」
声がした方を見ると、ブロイ大公がその一歩後ろにテレーズが立っていた。
「魔王の勢力圏から聖都までの道のりは何十もの砦によって守られている。魔王といえどもそこを突破するなど不可能だ」
テレーズが付け足した。「各国へ救援も依頼していますし、それに神聖騎士団もたった今出立しました」
「あの……」マリエルが恐縮した様子で口を開いた。「あたしの村……ヘッセ村は大丈夫ですか?」
「ああ」大公は力強く頷いた。「村々の守りも万全だ。我が領民に指一本触れさせてなるものか」
「良かった……」マリエルがほっとした表情を浮かべた。
それからブロイ大公は、自信にあふれた声でわたしに向かって言った。
「すぐに良い知らせが届きましょう。どうか賢者殿は安心していつもどおりお過ごしください」
「ロジェ……公子殿下も大丈夫なのですか?」
わたしの問いかけに、大公の表情が和らいだ。
「息子を心配してくれてありがとう。だが息子は、普段はああいう軽い性格をしているが、騎士としても指揮官としても優秀だ」
「弟を信じましょう」テレーズが言い添える。
「は、はい」わたしは頷いた。
「では、私たちはまた会議がありますので、これで」
大公とテレーズは去っていった。
二人はああ言ってくれたけれども、わたしの中ではもやもやとした不安が残り続けていた。
予定よりだいぶ話数が増えてしまいましたが、そろそろ終盤です。




