6月2日
□ 六月二日 大学の大図書館
大図書館への入室許可はすんなり下りた。
会議のあった翌日、わたしはアランを連れて、大学併設の大図書館へやってきた。図書館の黒く大きな扉の鍵を開け、力一杯押し開けた。たちまち奥からほこりとかび臭い匂いが噴き出してきて、わたしたちは堪らずむせ返った。鼻と口を押えながら、図書館の中に足を踏み入れる。後ろからアランがランプを掲げた。わたしの大きな影がはるか彼方まで伸びていく。その先の高くそびえる重厚な本棚の中に、大量の蔵書が……なかった。
「えっ、どういうこと?」
ここは古今東西のあらゆる書物が集められた、最大の図書館ではなかったの?
わたしは本棚に駆け寄ろうと、一歩踏み出すと、何かに躓いて盛大に転んだ。
「だ、大丈夫ですか。ヒロミさん?」
「ええ。床に何か転がって……」
アランのランプが四つん這いになったわたしの目の前を照らした。なんと、そこにたくさんの本が転がっていた。
「ちょっと、どういうこと、これ?」
「待ってください、確かこっちの壁際に照明の切り替え装置があると教えてもらいました」
ランプの明かりが遠ざかり、一瞬漆黒に包まれたが、今度は部屋全体が明るくなった。ちなみのこの照明装置、魔法を応用した物でとても貴重らしく、聖都のそれも一部の建物にしか使われていないらしい。
ランプよりも数段明るい光に照らされた図書館内の光景にわたしは言葉を失った。壁にずらりと並んだ本棚には本がほとんどなく、床に足の踏み場もないほど散乱していた。
「もしかして、五年ほど前に聖都で大きな地震があって……、そのせいかもしれません」
と、アランが何でもない風に言ったので、一瞬わたしも納得しそうになった。
「なるほど……、って、ちょっと待って。五年前でしょ? それから元に戻してないってこと?」
「そうみたいですね。十年ほど前に図書館の管理者が引退して、それっきり手付かずだって聞いたことがあります」
ずさんにもほどがある! 図書館ひとつまともに管理できなくて、よくもまあ最高学府だなんて言えるな。
「ええっと、つまり……わたしたちがこの図書館で調べ物をしようと思ったら」
「この中から目的のものを発掘する必要があります」
わたしはめまいを覚えた。
嘆いていてもしようがない。まずは、図書館の整理整頓から始めなければならない。
しかしアランと二人だけでやっていたら、床に散らばった本をかき集めるだけでも何日かかることやら。そこで、わたしは大学で暇そうにしているメイドたちを招集した。集まった三人のメイドたちは、「バイト代ははずむ」という、わたしの一言に目の色を変え、せっせと働いてくれた。おかげで、わたしとアランは、かき集めた本を分類していく作業に専念することができた。
普段のわたしの研究だったらこうはいかない。自分の旅費だけで精一杯で、バイトを雇う余裕など全くない。しかし幸い今回の調査、協会からの要請ということで潤沢な予算が確保されているのだ。なんて素晴らしいことだろう、研究予算バンザイ!
本の分類は、まずアランにタイトルと概要を読み上げてもらい、わたしが要不要を判別する流れで進めた。
「『メルギルソンのよくわかる錬金術 第一一四巻』。錬金術……魔法の一種ですね。書かれたのは百年ほど前です。ちなみに、メルギルソンは学者の間ではほら吹きとして有名です」
「じゃあ、却下」
「『ルーナ司教、聖典を語る』。聖典の注釈書の一つです。ヒロミさんが探す原書ではないですが、読み解くヒントにはなるかと」
「うーん、じゃあ一応キープ」
不要と判断したものは奥の本棚へ、必要と判断したものは入口近くの本棚へしまっていく。図書館の分類としては問題あるが、誰も使わないのだから、今のわたしの都合の良い形で整理してく。
「『異郷源景』。……何でしょうね、これ?」アランが手に取った本をめくる。「大陸中の民話をまとめたもののようです」
「もちろんキープ」わたしは即断した。
「えっ? この本、魔導書の調査とは関係ないと思いますが」
「良いからキープ」
入り口から少し離れた本棚にしまった。
アランは首を傾げつつ次の本を取り上げた。「またメルギルソンか……、『異世界交信マニュアル』。これも関係ない……」
「キープで!」
わたしは本をアランから奪って、『異郷源景』と同じ本棚にしまった。
「うーん、ヒロミさんの基準がよくわかりません」
「まあ、そんなに深く考えないで」
目的は魔導書調査だが、それだけに時間をかけるつもりはなかった。元の世界に戻れる手がかりになりそうなもの、それに単純に興味深そうなものもキープしておく。むしろこちらの方がわたしの中ではメインだ。これぞ役得!
アランが次の本を手に取った。途端、彼の表情に緊張が走った。
「ヒロミさん……」アランが表紙を指差した。「ありました、これです。古代神聖文字で書かれた聖典」
バイトを雇ったとはいえ、ある程度の時間は覚悟していたが、予想より早く見つかった。幸先の良いスタートだ。
わたしに本を手渡しながらアランは言った。
「しかし、古代神聖文字の聖典を見つけたところで、ヒロミさんは読めるんですか?」
もちろん無理だ。現在のこの世界の言語でさえ、スマホの翻訳ソフト片手にひいひい言っているのだから。
「読める人に解説してもらいながら、古代神聖文字版の聖典と現代語訳版の聖典を読み比べるつもり。大学になら読める人の一人や二人いるでしょ?」
すると、アランは首を振った。
「……嘘」
もう一度、アランは首を振った。
「三百年以上前まではいたらしいんですけど、現在は読める人なんてどこにもいません」
「辞書的なものは?」
「どこかにあるかもしれません」アランは床に広がる本の海に目を向けた。
「うへえ……」
早速萎えてきたが、クレメンスたちの前で大見えを切った手前、そう簡単には投げ出せない。
わたしは、年々天引き額だけが増えていくバイト先からの給与明細を開くような心地で、原書をめくった。
そかし、そこに書かれた文字を見て、わたしの目玉は飛び出そうになった。
ページを次々めくってみたが、どこも『その言語』で書かれていた。
「どうしたんですか? ヒロミさん」
アランが声をかけてくる。
「……読める」と、わたしは呟いていた。
聖典は紛れもなく、わたしがこれまで慣れ親しんできた言葉——日本語で書かれていたのだった。
□ 六月二日 夕方 大学
夕方に作業を終え、アランと一緒に事務室へ図書館の鍵を返しに行くと、そこにはクレメンスがいた。
「これはこれは、特任大教授殿。遅くまでご苦労様」
枢機卿の慇懃な挨拶に、わたしは慇懃に答えた。
「猊下こそ、遅くまでお疲れ様です」
「魔導書を捜索し世界を救うため、休んではいられぬのだ」クレメンスがテーブルに置かれたお茶菓子をこっそり隠すのをわたしは見逃さなかった。「特任大教授こそ、何か収穫はありましたか?」
「ええ、初日にしてはまずまずです」
わたしは作り笑顔を浮かべたまま答えた。
「それは良かった。特任大教授には期待しておりますからな」クレメンスは席から立ち上がった。「ではわたしはこれで。まだ仕事が残っておりますゆえ。図書館の鍵はわたしが受け取っておきましょう」
クレメンスはアランから鍵差し出された鍵を奪うように受け取ると、事務室から出て行ってしまった。
「何よあいつ。さんざんわたしのことを賢者って言っておきながら、あの態度、ムカつく」
枢機卿が出ていった扉に向かってわたしは舌を突き出してやった。
「ヒロミさん、マリエルみたいなことはしないでください……。クレメンス枢機卿は長年、大学の長を務められてきた方ですし、信仰も大変篤い立派な方です。きっとお考えがあっての事でしょう」
「どうだか……」
わたしの大学にもあんな教授がいる。自分を正しいと思うが故に、人の話に耳を貸さないし、排除しようとする。さしずめわたしのことを上辺では賢者と持ち上げつつも、内心ではどこの馬の骨とも知らぬ新参者の生意気女、なんて思っているのだろう。
いいだろう、だったらわたしがヴィクトルの魔導書とやらを見つけて、あの男の石頭をたたき割ってやる。
幸い、初日にして、大きな収穫が得られた。古代神聖文字で書かれた聖典の発見、しかもそれが日本語だという。日本語と言ってもわたしたちが普段使うような言葉遣いではなく、古い言葉、おそらく戦国から江戸にかけて使われていたものだ。そもそも、どうして日本語が古代神聖文字として扱われているのか、もっと言えばこの世界の現在の言語がヨーロッパ系の言葉を組み合わせたものなのか、疑問は尽きない。
しかし今それを問うてもしかたがない。やるべきことは、一旦それらを受け入れた上で、文献を調査していくことだ。わたしの元々の研究の半分くらいは、古文書を読み解くことだから、この世界の神聖文字解読も難しいことではない。そのことをアランに伝えると、「さすが賢者様!」と褒められた。普段何気なくやっていたことを褒められると、嬉しくもあり、くすぐったくもある。
「それはそうとして」わたしはアランを見た。「アランは今日も、これから研究を続けるの?」
「はい。聖都に居る間になんとか論文を形にしたいので」
昨日も、会議が終わった後、「マリエルも居るから」と、大公屋敷に誘ったのだがアランは辞退していた。
「そう……」わたしには止めることが出来なかった。せめて、この調査が多少なりとも気分転換になってくれたら、と思う。「無理はしないで。こちらもしばらく力を借りることになると思うけど、大丈夫?」
「もちろんです。ヒロミさんの力になれるなら喜んで」
「ありがとう、お願いね」
「じゃあ僕はこれで」
アランは静かに去っていった。




