5月12日
□ 五月一二日 未明
夢を見た。……いや、正確には、眠っている間に過去の出来事を思い出していた。
その日、研究室の学生部屋でわたしは指導教授の木坂先生から渡された論文を読んでいた。タイトルも内容も全く覚えていない、ということは大した内容ではなかったのだろう。
そんなわたしのところへ、研究室の先輩が慌てた様子で駆け寄ってきた。
わたしはまだ五月だというのにすっかりサーファー風にこんがり日焼けした先輩の顔を見上げた。
「どうしたんですか、先輩。そんなに慌てて」
「さっき木坂先生から君のことを聞いたんだ。就職せず院に進学するって、本当か?」
「はい、そのつもりですけど」
「どうして!」
「どうしてって……」先輩の顔があまりに近くて、わたしは椅子を少し後ろへ引いた。「研究は楽しいですから。それに元々研究者志望でしたし」
「親にはちゃんとそのことを相談したのか?」
「母はわたしがやりたいようにすればいい、と言ってくれました。それに木坂先生も、『君なら立派な研究者になれる』と言って下さいましたし」
すると先輩は、無念そうに首を振った。「ああ、わかってない。君も、君の家族も何もわかっちゃいない」
「ええっと……」
先輩はわたしの実家の家計のことを心配してくれているのだろうか。確かに、昨年父が急逝して、生活は決して裕福とは言えない。しかし母は学費のことは心配するな、と言ってくれたし、今の塾講師のバイトも実入りは悪くない。数年は学業が続けられるだろう、という算段は立っていた。
「先輩のお気遣いは嬉しいですけど。わたしは大丈夫です」
と答えたが、先輩は胃痛に苦しむサラリーマンのように表情を歪め、「いや、君は何もわかっていない」と繰り返した。
ここまでくどくど言われると、なんだか馬鹿にされたような気になってきて、つい強い口調で言い返してしまった。
「さっきからなんですか。わたしが進学することに何か、問題があるんですか?」
「問題も問題、大問題だ。よく考えてみろ、院……つまり、修士課程、さらには博士課程に進むという意味を」
「もちろん考えましたよ。研究者としてのキャリアを積む上で必要なステップだと」
「研究者? いいや……これは奴隷人生の始まりさ」
「えっ? 今、何て……」
「俺は博士課程に進んでよーくわかったよ。この世界の理不尽さを!」
ばんっと、先輩はわたしの机を強く叩いた。そして観客から熱いまなざしを受けた演劇俳優のように仰々しく両手を広げて見せた。傍から見たら小っ恥ずかしい動きだと思うが、幸い研究室にはわたしと先輩の二人きりだった。
「博士課程が研究に最も没頭できる時間と誰かが言っていたが、そんなの大嘘だ。俺のこの貴重な数週間は、ひたすら書類の整理と作成に費やされたんだからな。大学の事務員連中は同じような書類を何枚も何枚も書かせやがって。しかも微妙にフォーマットやら文字数が違うからコピペも難しいときたもんだ。中には本当は木坂先生が書かなきゃいけない書類もあるのに、それも全部俺に書くよう指示してくるし。おかげで、神エクセルの扱い方だけは慣れたけど、なんて不毛だろう。それに……」
先輩の口は一秒たりとも動きを止めることはなかった。曰く、研究室のコピー機の修理や切れかけた蛍光灯交換といった細々とした事務、学会での会場設営、当日の交通整理、資料コピー、懇親会の手配、お茶汲み……、などなど教授たちから押し付けられる雑用の数々、これでは研究どころではない、まさに奴隷の労働だ、という。
「……要するに、進学は不毛にして茨の道だと言いたいんだ。わかってくれた?」
と、先輩が締めくくった頃には、空はすっかり夕焼け色に染まってしまっていた。
心の片隅で、今晩の夕食どうしよう、と思いながらわたしは、「はあっ……」とわざとらしくため息をつき、語り終えて、何故か満足そうな表情を浮かべる先輩に向かって言ってやった。
「つまり先輩は、わたしに愚痴を言いたかった、と?」
「いやいや、そうじゃなくて。君に進学を思い直してもらおうと思ったんだ。俺みたいな苦労をしなくて済むように」
「進学しても不毛で奴隷的な扱いを受けるから、就職をした方が良い、と?」
「ああ、そういうこと。進学しても辛い思いをするだけだよ、特に女性は。それに無事卒業できたとしても……」
わたしはもう一度ため息をつき、哀れみの視線を先輩へ向けた。
「下っ端が雑用するなんて、そんなのどこでも普通ですよ。わたし高校の時、バレー部だったんですけど、一年生の時は毎日ボール拾いと、ユニホームの洗濯をしていましたし」入学式の日、背の高さに目を付けられスカウトされたものの、ついぞ公式試合でレギュラー出場は果たせなかった、ということまで言う必要はないだろう。「仮に就職したとしても、教授が課長や部長に変わるだけで、立場はそんなに変わらないと思うんですけど」
「あっ、うん。その……」
先輩の顔がひきつったまま固まってしまった。
わたしは更に畳み掛けた。
「それよりも、さっきの女性の発言は先輩といえども聞き捨てなりません。そんなことを言っているから、男女平等と言っておきながら、ちっとも女性の社会進出が進まず、女性研究者の数も増えないんです」
「そ、それは……、悪かった。謝る」
さっきまで激しく愚痴をこぼしていた先輩の勢いはすっかりなくなり、しょぼんとしていた。
ちょっと言い過ぎただろうか? しかし、間違ったことを言ったつもりはない。
女性の幸せとは、就職先でソツなく仕事をこなし、いい男をゲットして結婚、出産とともに会社を辞めて、のんびり子育てしながら、夫婦仲睦まじく暮らしていく、なんてステレオタイプを語る風習はまだまだ残っている。さすがに表立って言われるようなことは少なくなったが、テレビなど見ていても、それが暗に残されていることは明らかだ。もちろん、人によってはそれが正しいことは否定しない。でも、たとえ不毛で茨の道であろうとも、ステレオタイプとは違う生き方をしたいと思う女性も多いのだ。それがわたしの場合、研究者という道だ。
わたしはすっかりしょげかえってしまった先輩に向かって、抑えた声で言った。
「とにかく、今の博士課程のありように不満があるんでしたら、まずは先輩がちゃんと博士号を取って大学教授になって、その上で、わたしたち後輩のために改善をお願いします」
「そうだな……、君の言う通りだ」
と、先輩は力なく言うと、わたしの席から立ち去っていった。
わたしはようやく論文へ視線を戻した。そして一行も読まないうちに、再び先輩の声がした。
「俺たち、本当に教授……研究者になれるかな?」
顔を上げると、窓から差し込む夕陽を浴びて朱く染まった先輩の背中が、廊下の陰に消えるところだった。
□ 五月一二日 昼 研究室
誰かがわたしを呼ぶ声がする。
「……ぱい、博美先輩」
——もう少しだけ、寝かせて。
「博美先輩。そんなところで寝てると風邪ひきますよ」
——大丈夫、こんなに暖かいんだから……。
「先輩。Tシャツがはだけて、ブラ紐見えちゃってますよ」
——別にいいわ、それよりも睡眠の方が重要なの。
「はーっ、本当にこの人は……。学会誌の最新号、届いてますよ」
わたしはすぐさま体を起こした。すぐ横で、大学四年生のみのりちゃんが呆れたような表情を浮かべていた。
「博美先輩、また研究室に泊まったんですか? 昨日と同じ服ですよ」
と言いながら、みのりちゃんは小さく鼻をひくひくさせた。わたしは彼女の可愛らしいリボンやなんやらでデコられた薄緑色のブラウスに、太股が露わになった短いチェックのスカートと、自身の黒無地のTシャツに色あせたジーンズを見比べ、それから袖を鼻に近づけた。大丈夫、匂いはない……はずだ。
わたしは大きく背筋を伸ばした。背骨がゴキゴキと鳴り、腰がヒリヒリと痛んだ。
「来週のフィールドワークの準備をしてたら……ん?」
みのりちゃんは何かを促すように自身の口の端を指差していた。つられてわたしも口元に手をやる。
——おっと、涎がついていた。
わたしは素知らぬ顔で自分の唇と、机にできた水溜りを拭き取った。
「気づいたら終電がなくなってて、そのまま」
「本当に熱心ですね、先輩も。……ちゃんと布団で寝ないと健康にも美容にも良くないですよ。ファンデののりも全然違うんですから。いくら先輩でも、それくらいは気をつけた方がいいですよ」
——どうせわたしは化粧っ気も色気もないですよ。
わたしは、みのりちゃんから差し出された論文誌を受け取った。早速、ページをペラペラとめくり、目次を確認していく。学会誌は学界のトレンドや、他の研究者の考えを知れる重要な情報源だ。この中から、興味のある面白そうな論文を探す、この時間はとても楽しい。
「先輩、そう言えば」自席に行く途中でみのりちゃんがこちらに振り返った。「木坂先生が先輩のことを呼んでましたけど」
「えっ、本当!」
学会誌に目を通してから先生のところへ行くか、先に先生のところへ行くか、少し悩んだけど、結局、わたしはノートと筆記用具を持って席から立ち上がった。年代物の椅子がぎいっと不快な音を立てて軋んだ。
わたしは部屋から出る間際、学生部屋を振り返ると、みのりちゃんは自席でバッグから就職試験対策用の時事問題解説本を取り出していた。
前明るい茶色だった彼女の髪は、春前に黒髪へ変わっている。
「ねえ、みのりちゃんは就職希望よね?」
みのりちゃんは本から顔を上げると、何を今更? と言いたげは視線を向けてきた。
「ええ、そうですけど」
「進学……、研究を続けるつもりはないの?」
「そんなの、あるわけないじゃないですか。ゼミは怠いし、他人の論文は何言ってるかさっぱりわからないし。あたしまったくそういうのに向かないんですよね。それに……」
「それに?」
「文系の修士や博士を卒業した人しかも女なんて、どこの会社が雇ってくれるんです? 結婚はおろか普通の生活すらできないじゃないですか」
針に刺されたように、ちくりと胸が痛んだ。
みのりちゃんは続けた。「そうそう、先輩。あたし、来週から就活が本格的に忙しくなるんで、しばらく研究室には来れません。……って先輩、どうしたんですか? 顔色悪いですよ」
「な、なんでもない」
と言い残して、わたしは急いで学生部屋を後にした。