6月1日続き
□ 六月一日 大学の大会議室
アランの髭剃りが終わったあと、ほどなくして、メイドがやってきて会議が始まると伝えてくれた。わたしはアランを伴い、会議室にやってきた。そこには三十名近い男たちが集まっていた。アランの話によると皆、大教授あるいは教授の地位にある、著名な研究者たちだという。わたしとアランは最前列の席に座らされた。枢機卿にして学長であるクレメンスも姿を現した。彼はわたしたちと対面する形で一番高い所にある議長席に座った。
「待たせて申し訳ない、枢機卿会議が長引いてしまった。皆揃っているな。では始めようか。まず、伝承の賢者が現れたことは皆聞き及んでいると思う。それが彼女だ」
議場の男たちの視線が一斉にこちらへ向けられた。わたしはその場で立ち上がり、「博美です」と名乗った。盛大な拍手が沸き起こった。
「諸君、静粛に」クレメンスが声を張り上げた。「彼女には特任大教授として、我らが大学に迎え入れ、本計画についても協力を仰ぐこととなった」
「あのう」わたしは手を振ってクレメンスの注意を引き付けた。「結局計画って、何ですか?」
クレメンスは露骨に不快な表情を浮かべた。「それを今から説明する」
「本当、感じ悪っ。あの人って本当に偉いの?」隣のアランに小声で訊いた。
「もちろんです。学者系で初めて枢機卿になったとても偉大な人ですよ。聖典研究の第一人者でもあります」
「へえ……」
その割には、聖典に予言された賢者であるわたしを敵視しているように見える。よっぽど気に入られてないようだ。
「では、本日より加わってもらう特任大教授のために、改めて本計画の趣旨を確認しよう。ドミニク副学長、頼めるかな?」
「わかりました」ドミニクは席から立ち上がり、わたしの方を見て説明を始めた。「計画の目的、それはヴィクトルの魔導書を発見することです」
ヴィクトル、以前アランの授業を受けていた時に出てきた名前だ。教会設立のきっかけを作った救世主だとかなんとか。
ドミニクは続けた。「特任大教授もご存知のように、現在、連合諸国と教会は魔王の脅威に直面しています。正直なところ、戦況は思わしくありません。つい先日完了した遠征も充分な戦果が得られたとは言い難く、このままではジリ貧です。そこで、打開策として、救世主にして世界でもっとも偉大な魔法使いであったヴィクトルが残した魔導書の探索に乗り出したわけです。ヴィクトルは現在我々が知りうるよりもはるかに強力な魔法で、巨大な悪を打ち倒しました。その彼が用いた魔法の極意を記した魔導書があれば、戦況は一変しうるでしょう」
「でも、その魔導書はまだ見つかっていない、ということね?」
「その通りです。しかし、伝承の賢者様が到来した今、魔導書の発見は近いと我々は確信しております」
「おおっ!」と会場が再び万雷の拍手に包まれる。
「ごほん」クレメンスがすかさず咳払いした。「静粛に」
会場が静かになってから、わたしはドミニクとクレメンスの顔を交互に見ながら訊ねた。「えっと、つまり、わたしにその魔導書を探せと?」
ドミニクとクレメンスは同時に頷いた。
まさかわたしへの頼み事が物探しだったとは。てっきり、ソロモン王よろしくどこかの国の女王様と知恵比べをしろとでも言われるかと思っていたのだけど、随分と即物的な話だ。でもそれって、賢者と関係なくない?
わたしの素朴な疑問に気づいたのか、ドミニクは付け加えるように言った。
「もちろん、賢者様に鍬で穴を掘ってもらう、なんてことを頼むつもりはありません。実は聖典の一つに、我々が『闇の黙示録』と呼んでいるものがあるのですが、そこに魔王の出現、それに賢者様の出現が予言されているのです。そして魔導書のありかもそこに残されています」
「じゃあ、書かれているところを探せば?」
すると、クレメンスは「ふんっ」と小馬鹿にするように鼻で笑った。
「無論、候補と思われる個所は現在も捜索中だ」
ドミニクは続けた。「しかし、未だ魔導書は見つかっていません。予言の解釈の仕方が間違っているかもしれない、と研究を尽くしてきましたが、結果は得られていません。ですから、我々は賢者様に予言の正しい解釈を教えてほしいと」
周りから期待するような眼差しを向けられていることに気づいて、わたしは慌てて言った。
「ちょっと待って、いきなりそんなこと言われても。解釈をしようにもまずはその文言を教えてもらわないと」
彼らは賢者イコール全知の存在だと思っているのだろうか? さすがに要求が高すぎる。
「ヒロミさん、『闇の黙示録』ならここに載っています」
アランは一冊の本を取り出し、わたしの前に差し出して来た。表紙に抽象的な文様が描かれた、長編小説一つ分くらいの厚さがあるハードカバーだった。
「そこの一一二ページ、二十行目からです」
さすが助手志願者、聖典の内容は頭に叩き込んでいるようだ。
わたしは言われた箇所に目を通した。そこには長々と回りくどい言い回しが続いた後、『……故に、暗き川の畔の寺院に楔を残す。』と書かれていた。
「楔って?」
クレメンスが答えた。
「それが魔導書のことだ。昔から師匠が弟子に魔法を伝授することを、『楔を伝える』と言うことがある。教会における専門用語だと思ってくれればいい」
「なるほど」魔法を伝授する物……、それが魔導書と言うわけか。
「大陸の東に、ネーロと呼ばれる川がある。黒という意味だ。最初はその周辺にあるだろうと考え、沿岸にある教会堂を調べたが見つからなかった。その後調査範囲を広げようとしたが、大小合わせれば川など数えきれないほど存在する」
わたしは魔導書のありかが書かれた箇所を何度か読み返した。特に疑問を覚える文言ではない。違う解釈の方法なんてあるのだろうか?
何気なしにページをペラペラとめくってみると、『訳注』という単語が目に飛び込んできた。
「えっ?」
「どうしました、ヒロミさん?」とアラン。
「ここに訳注って書いてあるけど、どういうこと?」
「どういうことって? どういうことですか?」アランはわたしが何を訊きたいのかわからないといった様子で目をしばたたかせた。
「だから、これって原書じゃないの?」
「原書?」
アランもドミニク、それにクレメンスまでもが首を傾げた。
「ええっと、つまり……。聖典が書かれた言語って、これとは違うのかってこと」
「ええ、聖典はもともと古代神聖文字で書かれていましたが、一般の人たちにも布教できるようにと、現在の言葉に翻訳されたんです」
「だったら、原書を確認しないと」わたしはアランの聖典を議場の全員に見えるように掲げてみせた。「この本だけに頼っていても駄目よ」
次の瞬間、会議室にいた全員が色めき立った。中でもクレメンスは顔を真っ赤にして怒鳴りだした。
「と、特任大教授殿、貴女は賢者でありながら、聖典を疑うというのか!」
「いやいや」わたしは首を振った。「そんなつもりじゃない。ただ、なるべく原文を元に議論しないと駄目だと言いたいだけ。翻訳した際、微妙に意味が変わっちゃうこともあるし」
「つまり、聖典に嘘が書かれているというのか!」クレメンスのわなわなと震える指がわたしに向けられた。「こ、この異端者め!」
「だから、聖典自体を疑おうっていう気はなくて……」
わたしは、あくまで翻訳文ではなく、原書を使った方が正確な議論ができると、学問上の問題を伝えたいのに、クレメンスをはじめ議場の人たちは、信仰とごっちゃになってしまっているらしく、理解してくれなかった。わたしが一言口にするたびに、クレメンスが大声でがなり立てるという展開に陥り、会議場は紛糾した。丁寧に説明しても、聞く耳を持とうとしないクレメンスの態度にだんだんわたしも腹が立ってきた。こちらの声も徐々に大きくなっていった。
そして、わたしが椅子を蹴って退出するか、それとも、クレメンスの血管が切れるかの瀬戸際まで迫った頃、突然、会議場の扉が大きな音を立てて開いた。一瞬にして静まり返り、わたしも含めて全員が入り口へ目を向けた。そこには、テレーズとロジェが立っていた。テレーズは今日も黒いタイトなドレス、ロジェは騎士団の制服を着ていた。
ロジェと目が合った。この前のバルコニーでのやり取りを思い出して、息が詰まりそうになった。一方彼はニヤリと笑って手を振ってきた。
テレーズは議長席のクレメンスに近づいていった。
クレメンスはハンカチで額の汗をぬぐった。「こ、これはテレーズ殿、ロジェ殿。どのようなご用件でしょう?」
「会議の様子を見にきました。お父様は賢者殿を大変気にされておりまして」テレーズはわたしを一瞥した。「それにしても、随分議論が盛り上がっていたようですが」
「あっ、いや、これは……」
さっきまでの勢いはどこへやら、クレメンスは舌足らずだった。どうやらテレーズに苦手意識を持っているようだ。
一方わたしは、今がチャンスとばかり、これまでの経緯をテレーズとロジェに向かって説明した。彼女は黙って耳を傾けてくれたが、一方ロジェは興味なさそうにあちこちに視線を泳がせていた。
説明を終えると、テレーズは事務的な口調で言った。
「なるほど、状況はわかりました。つまり、魔導書を探すには情報が足りない、賢者殿はそう言いたい訳ですね?」
「はい」
教会の直接の関係者ではないためか、テレーズはわたしの言いたいことを理解してくれたようだった。
「では我々は貴女へ何を提供すれば、魔導書のありかを調査していただけるのですか?」
「聖典の原書です」
と、答えた後、「あれ?」と首を捻った。気づかない間にわたしが調べることにさせられてしまっている!
テレーズは思わせぶりな笑みを一瞬だけ見せて(その瞬間、わたしはとてつもない寒気を覚えた)、クレメンスに向かって言った。
「古代神聖文字版の聖典であれば、大学の大図書館にありませんか?」
「あっ、ええ……、おそらくは。し、しかし!」クレメンスは表情をこわばらせた。「教皇の許可もない者に大図書館を使わせるなんて、前代未聞だ!」
「特任大教授、という肩書があってもですか?」
テレーズが冷静に指摘する。クレメンスは唇を噛んだ。
「一応お父様を通じて、教皇に話は通しておきましょう。では賢者殿、後は頼みましたよ」
とテレーズは言い残して、超やり手ビジネスウーマンの如く、颯爽と去っていった。
「待ってくれ姉上。もう行くのか」
ロジェはわたしの顔とテレーズの背中を交互に見たが、
「じゃ、ヒロミ。また今度な」
と、言ってウィンクをかまして、テレーズの後を追っていった。
お通夜のように静まり返った会議室に取り残されたわたしは、この国で一番強いのはテレーズかも、と思わずにはいられなかった。