5月26日夕刻
□ 五月二六日 夕刻 大公屋敷
夕方、購入したドレスにマリエルと一緒に悪戦苦闘しながらもなんとか着替えると、晩餐会が行われる会場へ向かった。
わたしは晩餐会の主賓ということで、ブロイ大公に席までエスコートされることになった。
「我々を導いてくださる賢者様、しかもこんなお美しい方をエスコトートできるとは、このデリク=ブロイ、大公としてまた男として、大変光栄です」
と、大公はロジェと同じようなことを口にしながら(さすがは親子!)、わたしの手をぐっと握りしめてきた。
「こちらこそ光栄です。大公陛下」
わたしは愛想笑いを浮かべたまま答えた。
「そのドレスも大変お似合いだ。センスも素晴らしい」
「あっ……、ありがとうございます」
これもお世辞だと思うが、それでも褒められれば嬉しい。少しずつ気分が高揚してきた。
晩餐会会場の扉が大きな音を立てて開き、わたしは慣れないヒールに何度も躓きそうになりながら、ブロイ大公と一緒に中へ入った。そして大公に勧められるまま、一番の上座に座らされた。
わたしの対面にはブロイ大公、大公の隣に、紺のタイトなドレスを着たブロイ大公の長女テレーズ、そしてわたしの隣には、至る所に金刺繍を施した純白なローブを着たクレメンス枢機卿が着席した。テレーズとクレメンスから槍のように鋭い視線が投げかけられ、わたしは思わず身を縮めた。
テンションは急降下、……息苦しい晩餐会になりそうだ。
出席者全員が着席すると、ブロイ大公は立ち上がり、声を張り上げて挨拶を始めた。
「皆、今宵は集まってくれてありがとう。本日は長い遠征から帰ってきた騎士団諸君を労うために、こうしてささやかながら宴の席を用意した。遠征の成果については既に耳にして、いろいろ思うところがあるだろう。しかし今宵ばかりは、無事帰還できたことを皆で喜ぼうではないか。さて思い起こせば三十年前、先代の大公が……」
晩餐会の出席者は、長々と挨拶を続けるブロイ大公とその親類、聖都在住の上流貴族、クレメンスをはじめとした教会の高僧、そして神聖騎士団の幹部たちで、男女合わせて百名程度だった。もちろん知り合いなど誰一人いない。マリエルは晩餐会の担当ではないし、アランもいない。大変心細かった。
唯一面識があると言えばロジェだが、彼はわたしから少し離れた席で騎士団幹部たちの中にいた。まあ、彼が近くにいてもうっとうしいだけなので全く問題ないが。
実はこういう畏まった場は得意ではない。中学生の頃、卒業式で在校生代表として送辞を読み上げる係に任命されたが、本番で緊張のあまり演壇に足を引っかけて盛大に転び、卒業生たちの感動の涙を爆笑の涙に変えた前科があるくらいだ。かけらほどあった高揚感も女史と猊下のおかげで、すっからかんになったことだし、目立たず早く部屋に戻ろう、そう思っていると、ツンツンと誰かがわたしの肩を突いてきた。
「やめてよくすぐったい」
と言いながら振り返ると、仏頂面のクレメンスの顔がすぐ目の前にあった。悲鳴をあげそうになるのを必死に堪えた。
「ご指名だぞ、賢者殿」
——ご指名? 何が?
あたりを見渡すと、全員の視線がわたしに注がれていた。一人立っていたブロイ大公がわたしを見下ろしたまま言った。
「賢者殿、一言挨拶をいただけますかな?」
「えっ、挨拶?」
ブロイ大公がこくりと頷いた。
「えっ、えーっと」
周りから無言の圧力が迫ってくる。拒絶は、……出来そうにない。わたしはしかたなく立ち上がった。
しかし急にスピーチを、と言われても困る。何を喋ればいいんだ?
「えーっ、本日はお日柄も良く……、わたしのためにこのような会を開いていただき、誠にありがとうございます」
——最初はこんなものか。
「ただいまご紹介にあずかりました、博美と申します。えーっと、普段は大学で研究生をやっていて、文化人類学を専攻しています」
全員が首を傾げた。
——しまった。これじゃあ何言っているかわからない。
「あっ、今のは忘れてください。……えっと、気づけばこちらの世界にいて、そしてどうやら賢者ということになっておりまして……」
数人がうんうんと頷いている。
——さてどうやって話を結ぼう? まあ、当たり障りのないことを言っておけばいいか。
「これから、精一杯務めさせていただく所存ですが、至らぬところもあるかと思いますので、皆様の叱咤激励、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
大きな拍手が沸き起こった。着席してほっと一息ついた。わたしにしてはよくできたほうじゃないだろうか。
ブロイ大公が再び声を張り上げた。
「皆聞いただろうか、賢者殿の決意のほどを! これで我々は魔王に勝ったも同然。今日は大いに飲み、食べ、明日からの戦いに備え英気を養おうではないか!」
「おおっ!」とわれんばかりの大歓声が上がった。
日本式テンプレスピーチを口にしただけなのに、会場は予想外の盛り上がりだ。不審に思い、わたしは自分が口にした文言を反芻した。
「あっ……」
自分で賢者だって堂々と認めちゃったじゃない!
ーーー
日本でもお目にかかったことがないような豪勢な料理が次々とテーブルに運ばれてくる。しかし緊張と後悔で食事どころではなかった。少し口にしても全く味がせず、ゴムを噛んでいるような気分だった。
こんな大勢の場でわたしは賢者として頑張る、と口走ってしまったのだ。もはや逃げようがない。記憶にございません、と言って許されるのは日本の政治くらいだろう。
——わたしのバカバカ! もっと考えて喋れよ!
「本当に素晴らしい挨拶でした」羊の肉にしゃぶりつきながらブロイ大公はわたしに声をかけてきた。「我ら一同大いに勇気づけられました。皆の士気も上がり、魔王との戦いに勢いがつきましょう。さすがは賢者殿です」
「そ、それはどうも」わたしは何とか愛想笑いを崩さずに答えた。「しかし、賢者と言っても、具体的に何をすればいいのでしょうか?」
「なになに、簡単なことですよ」ブロイ大公はワイングラスをあおった。「我々が困っている時に、一言二言ご助言をいただければそれでいいんです。賢者殿にとっては容易いことでしょう」
その一言二言が問題なのだ。大公はどうやら賢者のことを、無限に湧き出る知恵の泉と思っているようだ。しかし所詮は人間、できることなどたかが知れている。
怖いのはわたしが彼らの期待に沿えなかった時のことだ。
「ですが、大公陛下もご存知のように、わたしは別の世界から来た人間です。この世界のことはまだよくわかっていません。そんなわたしに賢者という大役を果たせるかどうか」
と、さりげなく予防線を張ってみたが、
「何言っているのです。賢者殿であれば問題ありません」
と、勝利を確信したサッカーサポーターのごとき笑顔を浮かべる大公。
「……」
謁見の間でも言ったが、もう一度言わせてもらおう。ダメだこりゃ。並大抵の方法では大公の妄信を打ち破ることは出来ない。
「しかし賢者殿」大公は真面目な表情に戻った。「まずは各種挨拶回りをしてもらうことになります。今日来られなかった聖都の有力貴族、教会の枢機卿、大司教、各国の大使。まずは皆に賢者殿の到来を伝えて、協力を仰がなければなりません。テレーズ、準備はどうなっている?」
大公が隣の長女を見る。背筋をピンと伸ばして食事をしていたテレーズは首だけを機械のように大公の方へ回した。
「はい、スケジュールは作成済みで、先方のアポも取ってあります」
「順番は大丈夫か? 特にウーラ大司教殿をミンシャ大司教殿の後にすると、後々面倒なことになるからな」
「もちろん、そこは抜かりなく」
ブロイ大公は満足そうに頷くと、わたしの方へ振り向いた。
「テレーズは私の右腕として働いてもらっている。困ったことがあれば何なりと娘に頼ってくれ」
「よ、よろしくお願いします」
と挨拶したが、テレーズはわたしを一瞥しただけで、再び食事に戻ってしまった。……うん、できればお近づきになりたくない。
「ちょっと無口で愛想がないのが欠点で、おかげでまだ婿のなり手が見つからんというのが、父親としての悩みで。はっはっはっ!」
ブロイ大公は一人豪快に笑った。一方、テレーズは表情一つ変えず、スープを啜っていた。二人の家族仲は大丈夫だろうか? と他人事ながら心配になってきた。
「そして挨拶周りが終わった後は……」再び真面目な表情に戻った大公は、今度はクレメンスへ視線を向けた。「猊下、頼めますかな。あの計画の事」
クレメンスは驚いた様子で目を見開いた。「彼女を計画に加えるのですか?」
「もちろんだ。是非とも賢者殿の力を借りるべきだろう」
「しかし……」クレメンスはしばらく逡巡した様子で、上機嫌なブロイ大公と無表情のテレーズを見比べていたが、最後はわたしを睨み付けるような目で見て、「承知いたしました」と、静かに答えた。
「あのう、計画って?」
わたしはブロイ大公とクレメンスの顔を交互に見ながら訊ねた。なんだか嫌な予感のする響きだ。
クレメンスが答えた。「時期が来たら説明いたしましょう、賢者殿」
嫌な予感はますます膨れ上がった。
「お父様」今度はテレーズがブロイ大公に向かって言った。「いくら伝承の賢者殿と言っても、傍から見れば所詮は無位無官です。今後活動していく上でいろいろ差し障りがあるかと」
「それはそうだ。賢者殿に相応しい位を受けてもらうべきだろう。賢者殿、お望みの位を言って下され」
「えっ?」
急に振られても困る。この世界のことを知らないわたしに、賢者に相応しい官位など見当つくわけがない。
「賢者である以上、やはり学者系が良いかと」と、テレーズが助け舟を出してくれた。
「そうか、ならばやはり『大教授』だな。学者系の最高位、これならば問題あるまい。どうですかな、猊下?」
「いや、それは少し……」クレメンスはためらいがちに言った。「教皇聖下が何と仰いますか……。それに、正式な順序を経ずにいきなり大教授など、前代未聞です。他の者たちから反発が来るかもしれません」
「ではどうしろ、と?」
「こういうのでどうでしょう。特別な事情で任命された大教授……特任大教授という肩書では?」
「よし、それで行こう」大公は景気良く手を叩いた。「教皇には私から直接話をつけておく。賢者殿、貴方はこれより特任大教授です。その手腕をいかんなく発揮してくだされ」
「はっ、はあ……」
思わぬところで、思わぬ形で、わたしは念願の教授職を手に入れてしまったようだ。
□ 五月二六日 夜 大公屋敷の応接室
晩餐会は無事(?)終了し、帰っていく者たちもいたが、大勢の残った人々は、男性陣と女性陣に別れ、それぞれの応接室へ流れていった。
わたしはさっさとお暇しようと、自室へ向かう階段を登ろうとしたところ、両腕を屈強な二人の中年女性に捕まってしまった。黄と青の派手なドレスを着て、顔がそっくりだった。もしかして双子なのかもしれない。
「賢者様どこへ行かれるんですか?」「応接室に皆さん集まっていますよ?」
「疲れてもう眠いから、部屋で休もうかと」
逃げ出したいのが本音だが、疲れているのも眠いのも事実だ。村にいた時は日の入り後にはベッドに入っていたので、ここまで長く起きていたのは久しぶりだ。といっても、日本時間で言えばまだ午後八時過ぎなのだが。
「何を仰っておいでですか、夜はまだまだこれからですよ」「ぜひとも賢者様のお話をお聞かせください」
わたしは二人の握力から逃れることは出来なかった。
応接室には二十名ほどの様々な年齢層の女性たちが居て、数名のグループに分かれ談笑していたが、わたしが入ってきて、黄色のドレスを着た女性が野太い声で、
「皆さん、賢者様が来て下さったわよ!」
と呼びかけると、女性たちはぴたりと口を止め、一斉にこちらへ近づいてきた。
「まあ、賢者様よ」「さっき、大公陛下が締めの挨拶で、特任大教授になられたって言ってませんでした?」「どちらでもいいわ。とにかく賢者様の顔をこんな近くで拝めるなんて、素敵」
わたしは女性たちにもみくちゃにされ、なす術なく応接室中央の席に座らされた。
「賢者様、お幾つですか?」「賢者様、好きな食べ物って何ですか?」「賢者様、どこの香水をお使いで?」「賢者様、好みの男性のタイプは?」「賢者様、背を伸ばすコツは?」
「賢者様!」
「賢者様!!」
「賢者様!!!」
「ちょっ、ちょっと。ちょっと待って」
あまりの矢継ぎ早の質問に、スマホの翻訳が追いつかない。
このまま逃げ出したら暴動が起きかねない雰囲気だ。わたしは観念して言った。
「わかった。答える、答えるから。その代わりゆっくり一つずつ、順番にお願い」
すると、わたしを連れてきた黄と青のドレスを着た女性たちがこの場を仕切り始めた。
「じゃあ一つずつ、賢者様に質問したい方」
一斉に手が挙げる。
「じゃあまず、オスマン伯爵夫人から」
指名された、象牙色のドレスを着た女性が立ちあがった。「賢者様は、異世界から来たって本当ですか?」
「ええ、そう」
と、答えると、「おおっ」と一斉にどよめきが起こった。
「じゃあ次、マグリット男爵夫人」
四十歳ぐらいの女性が立ちあがった。「異世界とはどのようなところでしょうか?」
「わたしは日本というところから来たんだけど……」
それからわたしは、彼女たちからの質問に答えていった。
最初は嫌々だったが、彼女たちがとても興味深そうに真剣に聞いてくれたので、だんだんと喋るのが楽しくなってきた。日本の国について、服や食べ物について、などなど、聖都よりも広く大きな街があると言ったら、皆驚いていた。調子に乗って研究テーマを語りだしたら、一斉に彼女たちの顔が曇ったので、すぐにやめた。
中でも一番盛り上がったのは、男性も女性も社会で普通に仕事をしている、と言った時だった。たちまち、「女性だって家を出て働くべきだ」いう主張と「家を守ってこその女性だ」という主張が飛び出し、大論争に発展しかけた。しかしその後、わたしが博士論文に難癖ばかりつけてくる男性教授の文句を言ったら、「女性は不当な差別を受けている! 男性にもっと対抗すべきだ!」という結論に落ち着いた。
と、いろいろぶっちゃけてすっきりしたところで、夜も更け質問大会はお開きとなった。
わたしは応接室を後にして、屋敷のバルコニーに出た。喋りすぎて、火照った頬に冷たい夜風が気持ちよかった。眼下の街並みにはまだ至る所で光が漏れていた。
ふと、東京の高層ビル群の明かりを思い出した。
——向こうは今どうなっているんだろう?
「星空のように綺麗だろ、ヒロミ」
突然背後からそう囁かれて、わたしは驚いて振り返った。胸にたくさんの紋章をつけた軍服姿のロジェが立っていた。
「いきなり、後ろから声かけないで。びっくりしたでしょ」
「びっくりさせようと思ったからさ」ロジェはわたしの隣に立って、バルコニーの手すりを握った。「この夜景のよりも美しい君の後姿を見たら、声をかけずにいられなかった」
うわっ、寒っ! わたしは両腕を素早く擦った。
「女たちはもう帰ったのか?」
「……ええ。そっちは?」
わたしはあくまで社交辞令として訊ねた。
「大半は帰ったが父上を含めた数名がカードゲームを始めてね。俺も勧められたが、遠征から帰ってきたばかりだ、さすがに断った。で、部屋に戻ろうとしたら、君を見かけた、というわけさ」
ロジェが体一つ分近づいてきた。わたしは体一つ分離れた。
「おい、逃げることはないだろ。馬に乗っていた時もそうだった。どうして俺を避けようとする?」
「当然でしょ。誰も人のお尻触る人に近づこうとは思わない」
「だから悪かったと、何度も言ってるだろ。一種のスキンシップのつもりだったんだ。どうか嫌いにならないでくれ」
「それは無理な相談ね。むしろ、貴方こそどうしてそんなにわたしに構うわけ? わたしが伝承の賢者だから?」
「違う」ロジェは首を振ったあと、じっとわたしを見つめてきた。「もちろん、ヒロミ、君に一目惚れしたからだ」
「ぶっ!」
堪らず噴き出した。大量の唾が眼下の街並みに消えていく。
「い、今、なんて?」
「君のことが好きなんだ、ヒロミ」
——いやいやいやいや、ちょっと待て。頭が混乱してきたぞ。ちゃんと考えろ、博美!
わたしに一目惚れ? 二十九年間、告白もナンパもされたことのないわたしに? ありえないでしょ。
ロジェは女好きで有名だ。女性に手当たり次第声をかけている、ということだろう。
なんという最低野郎だ。
「嘘」
わたしは更にロジェから離れた。
「嘘じゃない。ヒロミをヘッセ村で見かけたときから俺の頭の中は君のことで一杯だったんだ。晩餐会の時もずっと君を見ていた」
「……」
「そんな君が、伝承の賢者だって言うじゃないか。俺はヒロミの力になりたいんだ」
胡乱な視線を向けたままわたしは言った。「具体的に?」
「そっ、そうだな。ヒロミは聖都に来たばかりで右も左もわからないだろ。だから俺が聖都とその周辺を案内してやるよ。これからの季節、馬の遠乗りは気持ちいいぞ」
わたしは唖然とした。それってつまりデートの誘い?
「ど、どうだ、ヒロミ?」
ロジェがこちらをじっと見つめてくる。
普段のわたしならにべもなく突っぱねただろう。
しかし、サロンでおしゃべりして気分が高揚していたせいか、女心をときめかせる夜景効果があったのか、それともロジェの曇りのない真剣な眼差しに心を動かされたのか?
後から考えれば信じられないようなことを、わたしは口にしていた。
「……まっ、考えておくわ」