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5月26日昼

□ 五月二六日 昼過ぎ 大公屋敷


 わたしにあてがわれた部屋は、ヘッセ村の教会堂の客室はもちろん、東京のアパートや実家の仏間とも比較ならないほど広く、豪華だった。大きなフカフカなベッドに、いくらでも入れられそうなクローゼット、触れるのに勇気がいる精巧な調度品の数々、まるで一流ホテルのスイートルームのようだ……泊ったことないけど。


「どうぞ、ごゆっくり」と言って、ここまで案内してくれたメイド——本物のメイドというのを初めて見た——は去っていったが、あまりにも場違いすぎて、心が落ち着きそうになかった。


「なんかすごい所へ来ちゃった」


 先ほどの大公とのやり取りを思い出す。こんなことになるのだったら、フランシス司教の泣き落としに屈せず、断固拒否すべきだった。しかし後の祭りだ。


 コンコンと部屋の扉を叩く音がした。「どうぞ」と声をかけると、扉が開いて、マリエルが入ってきた。


「マリエル!」「ヒロミ!」


 わたしたちは十年来の親友と再会したかのように、強く抱き合った。


「なんか凄いことになっちゃったわね」マリエルがきょろきょろと部屋を見渡した。「本当に公子殿下のお妃様になるのね」

「違う」わたしはすぐさま否定した。「世界を導く賢者様ってことで、超豪華待遇よ」

「へえ、ヒロミが賢者様? 変なの、全然似合わない」

「わたしもそう思う。ところでマリエルこそどうしてこんな所へ? それに、その恰好……」


 わたしはマリエルの姿をじっと見つめた。聖都に到着したときは質素な麻の服を着ていたのに、今は大公屋敷のメイドの格好に変わっていたのだ。


 マリエルはスカートをちょいとつまみ上げた。

「ここのメイドに雇ってもらったのよ。ヒロミもアランもしばらく聖都に滞在するって言うじゃない。だったら食い扶持を見つけないと。そうしたら、ヒロミの世話をするメイドを探してるって話を聞いて。ずっと村で一緒に暮らしてたあたしなら、ヒロミのことをよく知ってるから、彼女の世話をする係に最適だって、ここの屋敷のメイド長に直談判してきたの」


「ははあ……」


 マリエルの行動力と積極性には舌を巻かざるを得ない。わたしの代わりに賢者をやってほしいくらいだ。


「ですから、何なりとお申し付けください、奥様」

「だからわたしまだ結婚してないんだけど」

「あれ? 公子殿下のお妃様になるんじゃ?」

「そのネタもういいから!」


 あいつと結婚するくらいなら、一生フリーターポスドクをやっていた方がましだ。


「それで、早速だけどヒロミ」マリエルは改まった口調で言った。「今日の晩餐会に着ていく服が必要でしょ」

「ああっ、それがあった。さすがにこの格好で出るのはまずいよね……」


 村のおばちゃんからもらったお古のワンピースを見つめた。リュックサックの中にはこの世界に来た時に着ていたジーンズやTシャツも入っているが、どちらも晩餐会にはふさわしくないことぐらい、わたしにだってわかる。


「今から買うにしても、お金は持ってないし……」

「それならご心配なく。必要なものを買いそろえるように、と公女殿下からいくらか貰っているから」

「公女殿下?」

「テレーズ様のこと、ロジェ公子殿下の姉君よ。美人で格好いいよね、あの人。それなのにまだ独身だって言うから信じられない。世の男たちは放っておかないと思うのに」


 むしろわたしは彼女が独身だということに合点がいった。あのきつそうな性格に耐えられる男性は多くあるまい。



□ 五月二六日 昼過ぎ 聖都大通り


 わたしとマリエルは大公屋敷を出て、聖都の大通りを歩いた。「馬車を出してもらう?」と、マリエルは提案してくれたが断った。折角だから聖都の街並みを間近で見たかった。


 ところで、峠から聖都を見下ろしたとき、まるで中世ヨーロッパのようだと表現したが、現代のわたしたちが考える中世ヨーロッパと本当の中世ヨーロッパは違うらしい。十八世紀頃に中世建築を見直すゴシックリバイバルが興り、その時形作られた理想の中世像がわたしたちの考える中世ヨーロッパ観に大きな影響を与えている、と何かの本で読んだことがある。

 それで、わたしは結局何が言いたいかというと、聖都の街並みは、わたしたちが想像する中世ヨーロッパにそっくりだった、ということだ。


 スマホで街並みの写真を撮っているうちに、目的の店に着いた。聖都の上流階級の間で人気のあるブティックだという。


 わたしは店の前で扉を開けるのをためらった。


「どうしたの、ヒロミ?」

「わたし、服選びってどうも苦手なのよね。着られれば何でもいいじゃんって思っちゃうタイプだから。それにあれやこれやと勧められると、断れなくて……」


 かつて、おばちゃん連中にもみくちゃにされた恐ろしい過去を思い出し、身震いした。


「何言ってるの、めいっぱいおしゃれして、晩餐会に来た男たちをまとめてメロメロにしてやるぐらいの勢いじゃないと」

「メロメロねえ……、自信ないなあ」


 なにせ、高校の同窓会にリクルートスーツで行くような絶望的センスだ。


「そんな弱気じゃ駄目よ。ヒロミ、素地は良いんだから、良い服着てちゃんとお化粧すれば、見違えるはずよ」

「そう?」

「あたしが保証する。さっ行こう」


 わたしはマリエルに引きずられるように、店の中へ入っていった。


ーーー


「あーっ、疲れた」


 席に座るなり、わたしはぐったりとテーブルに倒れこんだ。


 三時間近くにわたるドレス選びを終え、ようやくブティックから出たわたしとマリエルは、近くのカフェで休憩することにした。マリエルが手早く紅茶を注文してくれる。


「でも楽しかったでしょ?」

「そう? あそこの店員、けっこう感じ悪かったけど」


 貴族様御用達の店に、古着のワンピースを着たまま入ったのだから第一印象は推して知るべしだろう。わたしたちが大公の関係者だと知った瞬間、態度を一転させたが、試着中、何度も舌打ちをしているのが聞こえた。


「でも見る目は確かだったと思うけど。派手過ぎず、地味過ぎず、ヒロミに似合うドレスを選んでくれたし」


「そうかな?」

 と口にしたが、わたしとてお姫様願望が全くないわけでもない。晩餐会が少しだけ楽しみになってきた。


 供された紅茶を一口飲む。アランが淹れてくれるものよりずっと濃かった。


「そういえば、アランは?」


 大公たちに謁見した後に別れてから姿を見ていない。彼には、今回の件について小一時間ほど問い詰めたかった。


「アランなら大学よ。研究論文を見せに行くんだって」


「なるほど」


 アランにとって聖都来訪の本当の目的はわたしの引率ではなくそっちだろう。聖都には、教会が管轄する学術機関である大学が存在する。論文試験を通過すれば、助手の職へ大きく前進するらしい。


「アランに用事があるなら、大学へ案内するけど?」

「いや、今はいい」


 境遇を同じくする身としては、今は論文試験に集中してもらいたい。


「それにしても、マリエルは随分聖都に詳しいのね」


 広い聖都の街中を、ブティックまで迷わず連れて行ってくれたし、このカフェを選んでくれたのもマリエルだ。


「年に一、二回は来てるから。両親と一緒に村で獲れた農産物を市場へ売りに行くの。だから聖都の流行もそれなりに知ってるし。さすがにドレスの細かいことまではわからないけど」


「あっ、その……、ごめんなさい」

「えっ、何突然? どうして謝るの?」

「だから……その。わたしだけ、ドレスを買ってもらって」


 村にいたころは、対等いや、むしろわたしがマリエルから色々教えてもらっている立場だったのに、突然わたしは賢者として大公の賓客になり、一方、マリエルはメイドとして私に仕える身だ。わたしが何をしたわけではないのにこの格差、非常に申し訳なく思う。


「はあ? 何言ってるの。ヒロミに廻ってきたまたとないチャンスじゃない。貴婦人ライフを楽しまないと」


 何がチャンスなのだろう。むしろこの状況、相当なアンラッキーじゃないだろうか?


「それに」マリエルは続けた。「あたし一度メイドってのをやってみたかったのよね。なんか可愛くない?」

「どうかしら?」


 もちろんわたしにメイド萌え属性など持ち合わせていないので、その良さはわからない。


「しかも大公屋敷のメイドよ。給金もいいし、ちゃんと働いて紹介状が貰えれば、一生食い扶持に困らないわ。将来、アランと聖都に住むことになってもこれで安泰ね」


「……」

 そんなしたたかな計算があったとは。万が一、魔王に世界を蹂躙されても彼女だけは生き残りそうな気がする。


「だから、むしろ最初の主人がヒロミで良かったと思ってる。多少の粗相があっても許してくれそうだし」


 それはさすがにどうだろう? と思わないでもないが、マリエルの気遣いは本当に嬉しかった。


「ありがとう、マリエル……」

「なんのなんの。で、メイドの箔は主人の品格で決まるから。頑張ってね、お嬢様」


 ……ぐうの音も出なかった。

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