5月23日夜
□ 五月二三日 夜 教会堂
村の広場を離れ、アランは教会堂へ向かう道を進んでいく。
「ヒロミさん、広場で何かあったんですか?」
「わたしが訊きたいくらいよ。……あのロジェっていう男に、お尻を触られたの」
どうしてわたしに? 今まで満員電車ですら痴漢に遭ったことがないというのに……。
一方、アランは特に驚いた様子もなく、「ああ、なるほど」と、得心したように頷いた。
「なるほどって、どういうこと?」
もしかしてアランもわたしのことを……? 彼に対してにわかに警戒心が芽生えた。
すると、アランは一瞬躊躇する素振りを見せた後、言った。
「公子殿下は、その……手癖が悪い、と言いますか……」
「……そういうこと」
ほっとしたような肩透かしを食らったような、複雑な気分だった。
「ひどい次期当主様ね」
「でも、部下の騎士団や領民からは大変慕われてはいます。女性にも人気はありますし」
つまり、やんちゃだが仲間想いでもある古き良き時代のガキ大将みたいな奴、だということらしい。しかし、あんな男のどこが良いのか、わたしにはさっぱり理解できない。
教会堂に到着した。騎士団の遠征に随行していたフランシス司教は、宴会には出席せず、ここで休んでいるらしい。
司教の私室に入ると、フランシスが椅子から立ち上がって、出迎えてくれた。
「ようこそ。わしがフランシスじゃ」
「博美と申します。司教、お会いできて光栄です」
と挨拶をして、握手を交わした。
フランシス司教はかなりの高齢で、腰も曲がり、顔も深い皺が何本も刻まれていたが、柔和な表情の奥にある瞳は生き生きとしていた。
「ヒロミさん。貴女のことは先ほどアランから聞きました。道に迷って、記憶も少々失っているとか……」
「はい、そうです。アランさんには大変お世話になっております」
「なに、困ったときはお互い様じゃよ。……ところでお嬢さん」
司教の目が鋭く光った。
「貴女はどこの世界から来なさった?」
わたしは息をするのも忘れて、目の前の豊かな白髭を蓄えた老人を見つめた。
——この人は、わたしがこことは別の世界から来たことを知っている?
「ど、どういうことですか、司教様!」わたしの一歩後ろに立っていたアランが驚いた声を上げた。「ヒロミさんが別の世界から来たって?」
「そのままの意味じゃよ、アラン」司教はアランとわたしの顔を交互に見た。「わしにはわかる。彼女はわしらとは全く異なる世界からやってきたんじゃ。そうじゃろ、ヒロミさん?」
なんという僥倖だろう、わたしの境遇を理解してくれる人が現れたのだ。
わたしは何度も頷いた。
「はい、わたしはどうやら、こことは違う世界から来てしまったようです。理由は、さっぱりわからないんですが……」
「ヒロミさん。それは本当ですか! どうして教えてくれなかったんですか?」アランが詰め寄ってきた。
「そ、それは……。こんなおとぎ話みたいなこと、誰も信じてくれないと思ったから」
なにせ、アランやマリエルと初めて会ったときは、自分ですらまだ半信半疑だったのだ。
「なんてことだ。まさかこんなことになるなんて……」
アランはとても悔しそうに顔をしかめた。
「黙っていたのは謝るわ。でも怖かったの、異世界から来たなんて言ったら頭のおかしい奴と思われて、村から追い出されるかと思ったのよ」
「そんなこと、するわけないじゃないですか!」
珍しく、アランが怒鳴った。
アランもマリエルも村の人たちも本当にいい人だ。困っている人を放っておくなんてことはしないだろう。しかし、彼らにすべてを打ち明けられなかったのは、心のどこかでは異世界の人間を信じきれていなかったのだと思う。
「本当にごめんなさい」
アランたちの好意をわたしは踏みにじったのだ。どんな批判も甘んじて受けよう、そう思った矢先、アランは言った。
「いえ、謝るのは僕の方です」
「……はい?」
「伝承の賢者様をこんなむさくるしい所に留めておくなんて、それに薪拾いまでさせてしまって、本当に申し訳ありません」
わたしは耳を疑った。
「ちょっ、ちょっと待って。なっ、何突然? 伝承の賢者って?」
「もちろん、ヒロミさんのことです。貴女こそ我々を導いてくださる伝承の賢者様です」
話が混沌としてきたぞ。わたしはフランシス司教に説明を求めた。
「司教、どういうことですかこれは?」
するとフランシス司教までわたしに向かって拝むように手を合わせてきた。
「教会が代々伝えてきた聖典の預言にあるのです。『世界が暗黒に沈むとき、異界より賢者が現れ大いなる知恵を授けて下さる』と。それがヒロミさん……いや、ヒロミ様。異世界から来た貴女のことです」
「いやいやいや、確かにわたしはこことは違う世界の人間ですけど、賢者だなんて……」
なにせわたしは、博士号もない定職にも就けない、ただのフリーターポスドクなのよ。
「何をおっしゃいます、ヒロミ様。先ほどアランから聞いた話ですと、たいそうな勤勉家で、知識に非常に貪欲だとか。まさに賢者の名にふさわしい」
賢者だったらそもそも勉強する必要ないんじゃない? という突っ込みをする間もなく、司教は突然声を張り上げた。
「こうしてはおれませんぞ。早速ヒロミ様には、聖都に行って教皇ならびに大公に会っていただかねば! 明日出発する騎士団にご同行なさいませ」
「そんな、急に言われても」
「さっ、アラン。善は急げじゃ。ロジェ殿に話を通しに行くぞ!」
わたしの言葉に耳を傾けることなく、フランシス司教とアランは部屋を飛び出して行ってしまった。