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5月22〜23日

□ 五月二二日 ヘッセ村


 朝起きると、体が怠かった。

 最初は風邪か? と思ったが、咳も寒気もない。

 すぐに本当の理由に思い至った。それは何かと言うと、約一か月に一度やってくる女性特有の症状……、つまり生理だ。


 フィールドワークは一週間弱の予定で、本当だったら今頃は東京のマンションに戻っているはずだったので、生理用品は持ってきていない。一縷の望みを抱いてリュックサックを漁ったが見つからなかった。太陽電池は入っていたというのに……。


 さて困った。


 しばらく考えた後、わたしは何食わぬ顔で食堂に出向き、いつも通りアランが淹れてくれた朝の紅茶を深窓の令嬢の如くゆったりと飲み干し、彼には散歩へ行くと伝え、駆け足でマリエルの家に向かった。


 マリエルの祖父が外出中であることを確認した後、わたしはマリエルに用件を切り出した。


「えっと、実は……」


 まさか三十路目前のわたしが十歳近く年下のマリエルにこんな相談をしなければならないとは情けない。しかし、マリエルは「それは大変!」と、とても心配そうな表情を浮かべた。


「ちょっと待ってて、わたしの分けてあげるから」

 と言って、家の奥から彼女が持ってきてくれた物は、白いガーゼ状の物だった。


 実のところ、この世界の女性たちはどのように生理と向き合っているのだろう、と内心興味があったのだけど、あまりにも普通で拍子抜けした。


「どうかした?」


 ガーゼの束を差し出したマリエルが小首を傾げた。


「……べ、別に。ありがたく使わせてもらう」


 マリエルに心境を悟られないよう、顔を隠しつつ受け取った。


 ともあれ、重大な懸案事項は何とか対処できそうだ。わたしはもう一度マリエルにお礼を言って、家を出ようとした。するとマリエルが「ちょっと待って」と呼び止めてきた。


「今さっき、早馬が来て、明日の夜、お父さんたちが帰ってくるみたいなの」


 昨日、廃寺院から帰る時の会話を思い出した。


 今、この世界の人々は悪しき存在たる魔王の脅威に晒されているという。魔王とその配下たる魔物たちは国々を襲い、人々の生活圏を奪い続けている。

 そこで、教会の最高責任者たる教皇の元、打倒魔王に向け国々は団結、現在、魔王に奪われた領土を取り戻すための大規模な遠征が行われているという。その遠征隊に、マリエルの両親や教会のフランシス司教など大勢の村人たちも後方支援として随行している。


 魔王の話を聞かされた時、わたしは、怖いな、というぐらいの感想しかなかった。人類の存亡をかけた戦いが行われている、ということは頭では理解できても、どこか遠くの事のようで、実感はいまいち沸かなかった。


 その遠征隊が戻ってくるということは、魔王とやらをやっつけたのだろうか? アランは魔王について、この世の終わりがやってきたかのような口ぶりで語っていたが、案外大したことはなかったのかもしれない。


「そう、良かったわね」

「うん。お父さんたちだけじゃなくて、司教様や村の他の皆も無事だって!」

 と、マリエルはとても嬉しそうな声で言っていた。



 教会堂へ戻ると、アランが慌てた様子で、外出するところだった。


「どうしたの、アラン?」

「司教様が戻ってこられるんです! だから、緊急で会合が開かれることになって。騎士団をもてなさないといけないですから」


 遠征隊を迎え入れるため、それ相応の準備が必要ということだろう。


「わたしに何か手伝えることはある?」


 アランは謙遜するように首を震わせた。

「そんな、悪いです。ヒロミさんはお客さんなのに」


「手伝わせて。村の人たちにはお世話になっているから。少しでも恩を返したいの」

「わかりました。じゃあ、たぶん宴会を開くとことになると思うので……、料理はできます?」


 わたしは間髪入れず首を左右に振った。日本では毎日学食かコンビニ弁当で、この世界でも、アランに作ってもらうか、マリエルや村のおばちゃんからおすそ分けしてもらっていた。


「じゃあ、薪拾いを手伝ってください。また後で連絡します」

 と、アランは一切表情を変えずに言うと、村の広場の方へ行ってしまった。


 ——いやいや、そこは何か突っ込んでよ。逆に惨めさが増すじゃない!


 こんなことがある度に、少しは料理を覚えたほうが良いのかしら、と思う。……まあ、結局は思うだけなのだけど。



□ 五月二三日 夜 ヘッセ村の中央広場


 昨日から今日にかけて、農作業も授業も中止して、村人総出で、遠征隊を迎える準備が行われた。マリエルやおばちゃんたちは宴会料理を作り、子どもたちもアランの指揮のもと、村の広場を掃除と飾り付けをしていた。そしてわたしは、いつもお酒を持ってきてくれるおじいちゃん連中に交じって、薪拾いを手伝った。わたしだけ場違いな感じがしたが、まあ気にしないでおこう。


 すべての準備が整い、村中の人々が広場に集まっていた。


 夕陽が湖の水面にかなり近づいた頃、馬に乗った一団が姿を現した。


 大歓声があがった。


 一団が村に到着すると、村人たちは一斉に彼らのもとに駆け寄っていった。わたしも少し遅れて近づくと、喧騒の中、マリエルが中年の男女と抱き合っていた。彼女の両親のようだ。それ以外にも、小さな子どもを抱っこする若い男女、老婆と固く握手する青年など、再会を喜ぶ人々の姿が見えた。


 やがて、白馬に乗った一際立派な身なりをした男が群衆の前に立った。茶色い短髪に彫りの深い精悍な顔つき、体も大きく、馬上から人々を見下ろす姿は威圧感もあった。


 騒がしかった広場が、たちまち静まり返った。


 男は馬に乗ったまま、遠くまで響く声で言った。

「諸君、出迎え感謝する。こうして、俺たちが再びここに戻れたことは、神の御業と共に、騎士団に付き従ってくれた者たちの尽力があったからこそだ。騎士団を代表して礼を言おう」


「滅相もありません。我々は大公領の住人として、教会の信徒として、当然の責務は果たしただけです」

 と、村人たちから声が上がった。


 馬上の男はゆっくりと頷いた。

「本当にありがとう。諸君らに支えられる俺はなんて幸せ者だろう! だからここで改めて誓おう。皆の安寧のためにこの命ある限り戦い続けると!」


 男は拳を握り締め、太い腕を力強く突き上げると、更に大きな歓声が上がった。


 そんなやり取りを、わたしは少々胡散臭い気持ちで見つめていた。男が誰だか知らないけど、施政者共が如何にもやりそうな心にもないリップサービスじゃない。もしかして彼は本心から言っているかもしれない。しかし、こんなひねくれた考え方をしてしまうのは、職業病か、あるいは現代社会の政治のあり様がなせる業か……?


 ふと、馬上の男と目が合った。男の口角がわずかに吊り上がったように見えた。


 その瞬間、心臓がドクリと高鳴った。わたしは慌てて視線をそらした。


 ——あの男はどうして笑ったの?


 男がまだわたしを見ているような気がして、居たたまれず、足早にその場から離れた。



 再会を懐かしんだところで、遠征隊を労う宴が始まった。

 村の広場に大きな薪が焚かれ、騎士団を中心に村人たちがその周囲に集まり、たくさんのお酒や料理が振舞われた。どちらも普段より力が入っているらしく、お酒はまろやかで飲みやすく、料理もいつもより味付けがしっかりとしていて、食が進んだ。毎日こんな料理が出てくればいいのに、とは料理をしないわたしの口からはとても言えなかった。


 わたしはマリエルの家族の輪に混ぜてもらっていた。せっかくの家族水入らず、わたしはお邪魔かと思ったが、マリエルに強引に引き入れられてしまった。彼女は両親にわたしのことを紹介した。両親はわたしが軽い記憶障害で村にお世話になっているという話を聞いて、心底同情してくれた。なるほど、マリエルの両親だ。


「いやあ、大変だったでしょうに。好きなだけ村にいてください。大したもてなしは出来ないでしょうけど」と、気さくな雰囲気のマリエル父。

「いえいえ、そんな。マリエルさんには本当にお世話になっています」

「うちの娘、時々そそっかしいところあるから。むしろ迷惑かけてません?」と、子どものような笑顔を見せるマリエル母。

「お母さん。あたしちゃんとやってるから。昨日だってヒロミにあたしの……」


「ゴホン」

 わたしは大きく咳払いをした。

「ときに、今回の遠征はどうだったんですか? 実はわたしよくわかっていなくて」


 マリエル父は言った。「正直言えば私たちもよくわからんのです」


「へっ?」


「あっ、いやいや」マリエル父は訂正した。「もちろん魔王から奪われた土地を奪還する作戦だってのは知ってるんですが、成功だったのか失敗だったのかまでは。なにせ、私たちはずっと後方で宿営地の造設や物資の輸送とか、騎士団の支援をしていただけですからな」


「まあ、無事帰ってこられたんだから、わたしたちとしては成功だったんじゃないかしら」娘へ穏やかな視線を向けるマリエル母は言った。


「騎士団というのは……、あそこにいる?」

 わたしは燃え盛る薪の周りにいる、村人と比べて明らかに身なりの良い男たちを見た。


「ええ、神聖騎士団。教会の守り手にして、ブロイ大公が管轄する世界屈指の精鋭部隊ですよ」


 ブロイというのはヘッセ村や聖都を治める大公家で、教会の軍事面を補佐している、とアランの授業を聞いて知っていた。


 騎士団は百人くらいいた。軍隊というには少ない気もするけど、この世界ではこれが普通なのかもしれない。


 彼らの中から一人が立ち上がった。先ほど馬上から演説をぶった男だ。彼はゆっくりとこちらに近づいてくるではないか。急にわたしは気分が落ち着かなくなって、顔を合わせまいと空になった皿へ視線を落とした。


 一方マリエルと両親は姿勢を正し、男を仰ぎ見た。

「これは、殿下」

「硬くなる必要はない。二人とも今回の遠征ではよく勤めてくれた。改めて礼を言わせてくれ」

「そんな、勿体ないお言葉。身に余る光栄です」

「ときにそこの女……」


 殿下と呼ばれた男がわたしのすぐ隣でしゃがみこんだ。わたしはじっと皿を見たまま目を合わせなかった。何故だかわからないけど、体中が緊張していた。


「見知らぬ顔だな、名前は何という?」


 いつもだったら、名を訊ねるならまず自分から、と軽口を叩けたかもしれないけど、今はとてもそんな気分じゃなかった。再び心拍数が上がって、胸が苦しい。詰まりながら答えるのが精いっぱいだった。


「博美……です」


「そうか、ヒロミか……」

 と、男が口にした次の瞬間、男はさも当然のように、わたしの腰に触れ、お尻を撫でてきやがった!


 ——何考えている、この痴漢野郎!!


 わたしは反射的に男の頬に拳をめり込ませていた。


 一瞬にして、騒がしかった広場が静寂に包まれた。周囲の村人や騎士団の連中が唖然とした表情を浮かべていたが、構わずわたしは男に向かって怒鳴りつけた。


「何人のお尻触ってるのよ! このド変態! 警察に突き出してやる!」


 男も最初はぽかんとした表情を浮かべていたが、突然、腹を抱えて笑い出した。


「俺に向かって変態か。こりゃいい。傑作だ!」


 今度はわたしがぽかんとする番だった。殴った反動で、男の頭のネジが一本取れてしまったのだろうか?


 マリエルが血相を変えて腕をつかんできた。

「ちょっと、何やってるのよヒロミ! 殿下に向かって」

「殿下? 殿下って何よ」


「ヒロミとやら」

 男が立ち上がり、顎をわずかに突き出し、鋭い視線で見下ろしてきた。

「もしかして、俺のことを知らないのか?」


「だから、誰よ?」


 男は不敵な笑みを浮かべた。

「俺こそ、神聖騎士団の団長代理にして、デリク=ブロイ大公の長男、ロジェ=ブロイだ」


「……えっ?」


 ぞっと、血の気が引いた。わたしは領主の息子……次期大公を殴ったのだ。

 これは不敬罪? この世界で不敬罪は禁固何年? それとも死刑!


 ロジェ=ブロイは、面白そうなおもちゃを見つけた子どものような目つきでわたしを見た。


 今からでも謝った方が良いのかしら、そうしたら罪も軽くなるかも?

 でも、わたしのお尻を触ったのだ。相手が教授だろうが大公だろうが許されていいはずがない。身分や性別を理由に誰もが泣き寝入りすると思ったら大間違いだ。


 わたしはじっとロジェを睨み上げた。すると大公の息子は突然「はっはっはっ!」と大笑いした。


「面白い女だ。気に入った」

 ロジェは鼻息が届くほどの距離まで顔を近づけ、大きな手をわたしの頬へ伸ばしてきた。咄嗟に逃れようとしたが、体が動かなかった。彼のコバルトブルーの瞳から目が離せなかった。これは緊張? それとも……。


 ロジェの手がわたしの頬に触れようとする瞬間、

「あっ、あのう……ヒロミさん」

 横からアランのおどおどした声がした。


 ロジェが手を止めて、アランを睨み付けた。「なんだ、突然」


「す、すみません、公子殿下」アランの肩が大きく震えた。「で、でも、司教様が、ヒロミさんに今すぐ会いたいと」


「フランシス殿が……」

 ロジェはアランとわたしの顔を交互に見比べ、小さく舌打ちした。

「だったらしかたない。連れていけ」


「申し訳ありません、殿下。……ではヒロミさん。こちらへ」

「えっ、ええ」


 騎士団の席へ戻るロジェの背中を一瞥した後、わたしはアランのあとを追った。

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