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5月20日〜21日

□ 五月二十日


 この世界で暮らし始めること早五日が経とうとしている。自分でも驚くことに、すっかり村に溶け込んでいた。最初はどうなるかと思ったが、マリエルとアランをはじめとして村人から随分良くしてもらっている。


 今日も朝はアランと紅茶を飲み、一緒にマリエルの家の畑の仕事を手伝った——明日筋肉痛にならないことを祈ろう——。午後は子どもたちと仲良く勉強の時間だ。


 そして夕方になると、村のおじいちゃんたちが、お酒を持って教会堂へやって来た。


「いやあ、別嬪さんが来たっちゅうから、顔見たくなってなあ」


 などと言いながら、酒盛りを始める。その台詞をできることならもっと若い男性から言われたいものだが、わたしは喜んでお酌した。彼らから、村の事や昔の武勇伝など、興味深い話が色々聞けて、とても楽しいひと時を過ごせた。


 確かに、この村のお酒は、度数は低いものの苦みが強くて何杯も飲めるものではなく、缶酎ハイの方がずっと美味しいし、それに、料理は薄味でコンビニ弁当や揚げ物が恋しいとか、お風呂が二日に一回しか入れなくて辛いとか、不満がないわけでもない。

 しかし、それらの不満を感じること自体、身の安全が守られている何よりの証拠ではないだろうか。それどころか、東京に比べるとずっと空気は綺麗で、満員電車などという苦痛もなく、比較的夜型だった生活も早寝早起きが続いたせいか、目覚めも良くなり頭が冴え、これまで慢性的に悩まされていた頭痛や肩凝りも最近は治まっていることを考えると、むしろ快適とさえ言える。加えて、価値観も文化も違う異世界の生活を通じて得られる、気づきと発見の毎日は刺激的だ。


 せっかくだから、もっと異世界ライフを満喫しようと思う。



□ 五月二一日 昼 教会堂


 花壇の隣で太陽電池を広げ、モバイルバッテリーを充電させながら、わたしは日なたでアランに借りた本を読んでいた。子ども向けの童話をまとめた本だ。次回の授業で使うということで予習している。


 読んでいたのは、『赤いマフラーの小さな女の子』という物語だ。いつも赤いマフラーを身に着けた四歳ぐらいの女の子が、山を越え森の奥にあるおばあさんの家に辿り着いたが、おばあさんに化けていた狼に食べられてしまう、というお話だった。


 四歳の子どもが一人で山なんか越えられるのか? と、突っ込む所はそこじゃない。驚くほど『赤ずきん』にそっくりだ。どうして類似の童話が異なる世界で語られているのか? 子どもが一人で遠くに出かけてはいけないという教訓は異世界共通なのか、それとも別の理由があるのだろうか? 興味は尽きない。


 お話を読み終え、本を閉じる。遠くに見える湖の水面が日差しを受けキラキラと星空のように輝いていた。ひんやりとした風が吹き抜け、森の木々や、畑の小麦を優しく揺らしていく。


「のどかねえ」


 人々の雑踏もなければ、自動車が行き交う騒音も聞こえない。時がゆっくりと過ぎていくようだ。こんなふうにただ景色をぼうっと眺めるなんて久しぶりだ。時を忘れ自然に体を任せる。これこそ現代人が忘れてしまった、本当の贅沢なのではないだろうか?


 ぽかぽか陽気にまどろみかけていると、マリエルの姿が見えた。


「ヒロミ、今暇?」


「ええ」とすぐに答えたことに、わたしは内心驚いた。日本にいた時はそんな風に答えなかっただろう。博士号のため、研究のため、暇な時間などない、と考えていたからだ。


「どうしたの、ヒロミ?」マリエルが心配そうな表情でわたしの顔を覗き込んできた。

「ううん、別に」わたしは首を振った。「ちょっと考え事。また畑を手伝ってほしいの?」


 すると彼女は手に持っていたバケットをひょいと持ち上げてみせた。


「今日は天気がいいでしょ。だからピクニックに誘おうと思って」


 ピクニックか……、その単語を聞いたのは何年ぶりだろう。


「アランはどこにいるの? 今日は子どもたちの教室もお休みよね」

「一日部屋に引きこもるって言ってた」


 今日は特に大きな用事がないので、自身の研究を進めたいとのことだった。もちろんわたしは「お互い頑張ろう」と励ましてあげた。


「全く、こんなにいい天気なのに。ちょっと呼んで来るわ」


 マリエルは宿舎の方へ入っていった。しばらくして、「ほらほら、さっさと歩いて」とマリエルの発破をかける声が聞こえてきた。


「だから、今日中にあの本を読み進めたいんだけど」

「本なんて、いつでも読めるでしょ。今日という日は今しかないんだから……」


 マリエルに首根っこを掴まれたアランが出てきた。


「はあ……」アランは観念したかのようにため息をついた。「わかったよ。行けばいいんだろ。本当に、強引な奴だなあ」

「よしっ、決まりね。で、どこ行く。やっぱり湖畔にする?」


 マリエルの提案に、アランはなおざりに頷いた。


「ヒロミもそれでいい?」


 反射的に頷きかけたが、考え直して、マリエルとアランに向かって言った。


「森の廃墟に行ってみたいのだけど」

「廃墟?」マリエルは首を傾げる。

「もしかして、森の奥にある、旧寺院のことですか?」アランも驚いたように目をパチクリさせた。


 そこへ行きたいと言った理由は、もしかしてあの廃寺院に元の世界へ戻る手がかりがないだろうか、と考えたからだ。この世界へ来た直後は頭の中が混乱していたのでちゃんと調べきれなかったが、今一度見ておこうと思ったのだ。


「この村に来る途中に見つけたの。なんだろうあれって、気になってて」もちろん正直には言えないので、曖昧に答えた。「危険がなくて、もし二人が良いなら、と思ったんだけど」

「昼間なら、凶暴な獣や魔物も出ないから、危険は少ないと思うけど……」


 アランがマリエルへ視線を向けると、彼女は満面の笑みを浮かべた。


「ヒロミが行きたいのなら、もちろん良いよ」


 こうしてわたしは、始まりの地である廃寺院に向かうことになった。



□ 五月二一日 昼 廃寺院


 初めて、廃寺院を見たときは曇り空だったので、よくわからなかったが、晴天下で改めて見上げると、その廃墟っぷりがより際立って見えた。至る所でひび割れを起こし、石は黒く煤け、壁や屋根は大小さまざまな穴があき、隙間から雑草が伸び放題だった。もうしばらく経ったら、完全に森と一体化してしまうだろう。


「昔、おじいちゃんの猟についていった時に見たことがあるけど。こんなにボロかったのね」

 と、廃墟を見上げるマリエルが言った。


「この建物は何なの?」


 わたしの問いにアランが答えた。

「フランシス司教様の話によると、今の教会が広まる前に存在していた旧教の寺院だったみたいです」

「へぇ、土着の宗教があったのね」

「五百年以上も前の話です。ほら見てください、あの入り口の上部」アランが廃寺院の壁を指差した。「かすかに鳥の彫刻が見えるでしょ。あれが旧教のシンボルだったみたいです」


「なるほど」

 わたしはスマホのカメラで鳥の彫刻を撮った。フィールドワークをしているような気分になってきて、わくわくする。


 わたしは廃寺院の中に足を踏み入れた。アランとマリエルが続く。


 今日は奥まで陽の光が届いて、ライトがなくとも中を見渡すことができた。


「案外中は広いのね」マリエルが壁際に沿って歩き始めた。

「マリエル、いつ崩れるかわからないから、慎重に」彼女の後をアランがハラハラした様子でついていく。


 わたしも室内を歩き始めた。床は瓦礫だけかと思われたが、よくよく見ると、ボロボロに錆びた鉄製のお椀や、燭台らしきものが落ちていた。それらを一つ一つ拾ってじっくり眺めつつ写真に収めていく。壁面にもかすかに模様が彫られている。見るものすべてが興味深かった。ここの調査結果で何本論文が書けるだろうか?


 しかし、二階も含め調べてみたが、元の世界に戻る手がかりになりそうなものは見つからなかった。


 ……わたしが日本からこの世界に来て約一週間、母も友人も木坂先生も心配しているだろう。


「ヒロミー!」


 外からマリエルの声がした。窓から覗くと、マリエルとアランが並んで立っていた。


「軽食持って来たから、食べましょ」


 廃寺院前の原っぱに敷かれた蓙に座って、マリエルからサンドイッチを受け取った。サンドイッチと言っても、硬い黒パンに茹で野菜が挟んである程度だ。スープと同様、このサンドイッチも薄味だったが、青空のもとで食べると、いつもより五割増で美味しく感じられるのだから不思議だ。


 サンドイッチを平らげ、程よく冷めた紅茶を啜っていると、マリエルが訊ねてきた。


「ヒロミ、随分と熱心に調べてたわね。そんなに楽しい?」

「ええ、とっても」

「子どもたちと一緒に勉強もしてるって聞いたけど、ヒロミはそういうのが好きなの?」

「勉強というよりは、今までわからなかったことが理解できた時が楽しいかな」

「ふーん、あたしにはよくわからないわ。いくら勉強しても、ご飯が食べられなかったら意味ないじゃない」


 どすりと、胸に重い一撃を食らったような衝撃を感じた。


 すると、横からアランが言った。「マリエル、いいかい、僕たちが今こうしてお茶が飲めるのも、君の好きな演劇が楽しめるのも、過去の人たちによる様々な研究と努力があったからだよ。そして、その原動力となったのは、人間の持つ純粋な好奇心だ」


「おおっ!」と、わたしは心の中でアランに拍手を送った。良いこと言った青年、お姉さんは嬉しいぞ!


 しかしマリエルは顔をしかめるだけだった。

「そんなこと言っても、アランが早く助手になって自立してくれないと、あたしたち結婚できないじゃない」

「結婚! ……ごほっ」

 驚きのあまり咳き込んでしまった。二人の仲の良さは薄々気づいていたが、まさかそこまで話が発展していたとは。


 アランの顔が見る見るうちに赤く染まった。「約束はだいぶ前にしているんですけど、僕がちゃんとした職につくまではマリエルの両親が許してくれなくて」


「だから早く、アランには大学の助手になって欲しいんです」

「だったら、僕の研究の邪魔をしないでほしいな」

「でもでも、たまには息抜きが必要でしょ。根詰めてると、良いアイデアなんて浮かばないって言うし」

「マリエル、そこまで僕のことを考えてくれて……」


 アランとマリエルはお互いの手を強く握り合った。完全に二人だけの世界に入り込んでいる。一人残されたわたしは、

「はああ……」

 と、大きくため息をついた。そういうことはわたしの居ないところでやってくれないかな。



 ようやく二人の意識が現実世界に戻ってきた頃には、空に雲が広がり、風も強くなってきた。蓙を片付け、わたしたちは村へ戻ることにした。


 道中、わたしはマリエルに声をかけた。

「マリエル、さっき両親が結婚を渋ってるって言ってたじゃない」

「お父さんもお母さんもお金にはうるさいのよね。経済力のない男に娘をやれるかって」


 最後の方は、どちらかというとわたしにではなく、前を行くアランに投げかけられたものだ。危うく躓きそうになるアランの背中を一瞥して、マリエルに向かって訊ねた。

「わたし、マリエルのご両親を見てないんだけど。家にいるのはおじいさんだけだし」


 次の瞬間、マリエルの表情から、ロウソクの火がかき消えるように笑顔が失われた。


 わたしは混乱した。触れてはいけなかったのだろうか? でも話の流れ的に両親が離婚や他界しているとは考えられない。


 しばらくの沈黙の後、わたしたちに背中を向けたまま、アランが言った。


「ヒロミさん、しばらく村に滞在していて、変わったことがあると思いませんか?」

「変わったこと……?」


 わたしにはあそこが、緩やかな過疎が進みつつある田舎村という印象しかなかった。村は大勢の老人、それから小さな子どもだけ……。


「あれ?」と、ここでわたしは気づいた。小さな子どもは多いのにその親が見当たらないのだ。「成人が極端に少ないってこと? 特に男性……、二十歳くらいの青年って、アランしか見てない」


「ええ、そうです」アランの声は低かった。「マリエルの両親、村の多くの大人たち、それにフランシス司教様は、今遠征に同行しているんです」

「遠征? 何の?」


 アランは足を止めこちらを振り返った。その顔は深い森の奥のように陰が差していた。


「もちろん、魔王討伐の遠征ですよ」

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