5月17日
□ 五月一七日 夜明け 教会堂
「……起きてください。ヒロミさん」
——誰? わたしの名前を呼ぶのは? 独り暮らしのわたしを起こしてくれる人なんているわけないのに……。
「ヒロミさん」
「あっ!」
ハッと目を開いた。すぐ脇に灰色の質素な法衣を着たアランが立っていた。
——そうだ、わたし、異世界に来ちゃったんだっけ?
毛布に包まったまま、体を起こした。
「お……おはよう。アラン……さん」
「おはようございます。朝の紅茶はいかがですか?」
「喜んで頂きます」
「では、食堂に来てください。その後、お約束通り、村を案内いたします」
アランが部屋を出ていった後、わたしは毛布から抜け出した。空気はひんやりとして少し寒い。背伸びをして小さな窓から外を見た。朝日が昇った直後でうっすらと靄がかかっていた。
軽い頭痛がした。……寝不足だ。枕元に置いておいたスマホで時間を確認する。スマホへこれまでの出来事を記録していたらあっという間に時間が過ぎて、結局三時間ぐらいしか寝ていないわたしが悪いのだが、それでも、起こしにくるのが早過ぎやしないだろうか?
「いや、それよりも……」
客室に鍵がついていないことの方が問題だ。いくら居候とはいえ、女性の部屋に男性が勝手に入ってくるのはまずいだろう、と、床に脱ぎ捨ててあったジーンズを見て、わたしは思った。
ジーンズを履き、Tシャツの上からパーカーを羽織って、食堂へ向かった。アランがちょうどカップに紅茶を注いでいるところだった。席に着くと、彼は紅茶とパンを差し出してくれた。紅茶の味は少し薄かったが日本のものとほとんど変わらなかった。
「美味しいです」
「それは良かったです」
テーブルの反対側にアランが着席して、静かに紅茶を啜った。
狭い食堂にはアランとわたしの二人だけだ。
「この教会堂はアランさんが管理されているんですか?」
「いいえ。本当はフランシス司教様がここの管理者です。僕は司教様のもとで見習いとして働いているんです。司教様は今外出されていて、僕が留守番というわけです。もし司教様がいてくだされば、ヒロミさんの治療もできると思うのですが、いつお戻りになるのかはわからなくて、申し訳ないです」
治療とは、わたしの『軽い記憶喪失』の事だろう。
「寝場所と食事を与えてくれるだけでも充分感謝しています」
「教会の人間として当然のことです。司教様が戻ってこられるまで、どうぞ、ゆっくりしていってください」
と、頼もしいことを言ってくれたが、昨日、マリエルの前で、優柔不断な態度を取っていたことは、彼の名誉のために触れないでおこう。
「ありがとうございます。そういえばさっき、見習いと言ってましたけど、アランさんもゆくゆくは司教職に?」
「あっ……えっと」アランは一瞬言い淀んだあと、控え目な声で言った。「僕、司教ではなくて学者を目指しているんです」
アランの話によると、どうやら、この地域一帯で信仰されている『教会』と呼ぶ宗教組織は教皇を頂点として、人々へ神の教えを広める司教系と、神の教えをより深く理解するための研究を行う学者系に分かれており、アランは学者系の研究職である、教授あるいはさらに偉い大教授を目指しているという。
「目指していると言っても、本当に狭き門で、一番下っ端の助手にすら採用されないんです。しかたなくフランシス司教様の手伝いをしながら勉強を続けているんですが」
憂いた表情で語るアランの事を、わたしはとても他人事には思えなかった。定職に就けないポスドクに、助手になれない見習い。世界は違えど、同じ苦悩を抱えている人がいるとは!
わたしは思わず、アランの両手を強く握っていた。
「ど、どうしたんですか、ヒロミさん?」
どぎまぎするアランに、わたしはぐっと近づいた。
「アランさん、いえ、これはあまりにも他人行儀、アラン、お互い頑張りましょ!」
世界を超えて、同志を得た心地だった。
□ 五月一七日 早朝 ヘッセ村
紅茶を飲み終え体が温まってきたところで、わたしとアランは教会堂を出た。
ヘッセ村は、西を大きな湖に、残り三方を深い森に囲まれ、人々は主に田畑からの農作物と湖から獲れる魚で生計を立てており、人口は三百人程度だという。大きいのかどうか判断つかないが、アランの話によればブロイ大公領の中で聖都を除けば、まずまず大きい部類だという。聖都とは、大公領の首都であると同時に、教会の総本山でもある。アランの目指す教会の研究機関『大学』もそこにあるという。
細い畦道を進みながら、アランは聖都について更に教えてくれた。
「僕も何度か行きましたけど、広さも人の数もこことは桁違いで、その名にふさわしい壮麗な都市ですよ」
「面白そう。わたしも行ってみたいかも。ここからどれくらい離れているの?」
アランは相変わらずわたしに丁寧な言葉遣いで話しかけてくるが、同志と認定した年下の彼に対して、わたしはすっかりタメ口になっていた。
「峠を越えますけど、馬車なら三日もあれば」
「じゃあアラン、あとで馬車貸してくれない?」
「ちょっと待ってください」アランが驚いた声を上げた。「まさか聖都まで一人で行こうなんて考えてるんですか!」
「えっ、ええ。そうだけど?」
一人旅など慣れたものだ。フィールドワークも基本一人だったし。
「無理ですよ、無理無理。例えば商隊と一緒に行くとか、ちゃんとした警護がないと」
アランの尋常ではない驚きように、ここが日本ではないと思い知らされた。村から一歩踏み出せば人の手が及んでいない未開の森が広がっているのだ。
「確かに、アランの言う通りね。山賊や猛獣から身を守れないと」
「まあそれもありますけど、何より怖いのが魔物……」
「魔物?」と、訊き返そうとしたその時、背後から「アーラーンー!」と聞き覚えのある声がした。振り返ると、わたしたちが通って来た畦道をマリエルがスカートの裾を持ち上げ、大股でこちらに駆け寄ってくる姿が見えた。
わたしたちのところまでやってくると、マリエルは肩で息をしながら、アランを睨み上げた。
「アラン、ちょっとひどいじゃない。教会堂にヒロミの様子を見に行ったら、誰もいないんだから。……何やってるの?」
マリエルの勢いに気圧され、アランはしどろもどろに答えた。「あっ、えっと。ヒロミさんに村を案内してたところだよ」
「あっ、そう」マリエルは姿勢を正し、わたしに向かってにこりと微笑んだ。「おはよう、ヒロミ。いい朝ね」
彼女はわたしに対してすっかりタメ口だった。
「おはよう、マリエル。どうしたの、こんな朝早くから?」
「朝が早い?」彼女は目を点にした。「別に普通じゃない」
ああなるほど、この村の人たちは早く寝るぶん、起きるのも早いのだろう。研究者には辛い習慣だ。
「そんなことよりも。あたし、ヒロミに用事があったの」マリエルはわたしを指差した。「その服について」
「服?」
「さっきおじいちゃんが言ってたの。女性にそんな悲惨な格好させるのは良くないだろうって」
「……悲惨?」
わたしはスマホの翻訳アプリから目を離し、身に着けている黄色いパーカーと色褪せたジーンズヘ視線を向けた。母からダサい格好だと言われたことはあるが、悲惨と形容されるのは初めてだ。
「そんなに酷い?」
「だって、女の子がズボンだなんて、よっぽどなことがあったんでしょ?」
「ああ、なるほど……」
この世界はそういう文化らしい。
「だから、服を貸してあげようかって思って」
「でも、そんなの悪いわ……」
と断った。本心としては、スカートよりズボンの方が動きやすくて好みだからだ。
しかしマリエルは、
「遠慮しなくても良いから」と言って、わたしの手を掴んできた。「さっ、あたしの家に行きましょ」
□ 五月一七日 朝 マリエルの家
アランは教会堂へ戻り、わたしはマリエルに半ば強引に連れられ、彼女の家にやってきた。
家の前に人だかりができていた。いずれも年配の女性だ。彼女たちはわたしとマリエルの姿に気づくと、手を振ってきた。
「マリエルちゃん!」
「おばさんたち!」マリエルが手を振り返す。
随分と肉付きのよい彼女たちの姿へ視線を向けたまま、わたしはマリエルに問うた。
「えっと、誰、あの人たち?」
「村のおばさんたちよ」
「へぇ」嫌な予感しかしなかった。「どうして、マリエルの家に集まっているの?」
「女性がやってきたっておじいちゃんが村中に言いふらしたら、ぜひ会ってみたいって集まってきたの。ヒロミに合いそうな服も持ってきてくれてるのよ」
「ああ、そう。……わたしちょっと用事を思い出した」
と言い残して、回れ右しようとしたが、わたしの手首はマリエルにがっちりと掴まれたままだった。デスクワークが基本のわたしに、農作業で鍛え上げられた彼女の握力から逃れる術はない。
「何言ってるの、ヒロミ。せっかくみんな集まってくれたんだから」
ぞろぞろとおばちゃん連中がわたしの方にやって来て、ぐるりと取り囲まれてしまった。
「あらあらまあまあ。この方が道に迷ったっていう」
「大変だったわねえ、好きなだけこの村でゆっくりしていっていいのよ」
「わからないことがあったら、なんでも訊いて」
「あら、その格好……、マリエルちゃんの言った通りだわ。なんとかしてあげないと」
「えっと……あのう」
おばちゃんたちは勝手に話を進めていく。口を挟む余地はなかった。
「わたしの若い頃の古着が役に立ちそうだわ。早速試してみない?」
「いいわね、わたしもいくつか持って来たの。マリエルちゃん、家借りるわよ」
「もちろん大丈夫です! 思う存分やっちゃってください」
そのまま彼女たちによってマリエルの家へ連行されると、家でタバコらしきものを吸っていたマリエルの祖父は目を丸くして、そそくさと家を出て言ってしまった。
彼の後ろ姿をわたしは思いっきり睨みつけてやった。
おばちゃん連中による着せ替え大会は壮絶を極めた。瞬く間にパーカーとジーンズがひん剥かれ、まじまじと下着と素肌を見つめられ、それから彼女たちが持参した古着を取っ替え引っ替え試着させられた。
「あらあらまあまあ、これなんて良いんじゃない?」
「ちょっと丈が短くない? この子背が高いし」
「短い部分は、つぎはぎしておけば大丈夫よ。次はこっちね……」
ようやく、彼女たちのお目に適った数着の古着を持たされて、マリエルの家から解放された時には、昼を過ぎていた。
「じゃあ、また何かあったら声かけてね」
マリエルとおばちゃん連中が揃って手を振っていた。
「はあ……」
彼女たちの姿が見えなくなって、わたしは大きくため息をついた。
「おばちゃんパワー、怖っ!」
世界も文化も違えど、変わらないものはある、と強く認識した。
□ 五月一七日 昼過ぎ 教会堂
古着を抱えて教会堂に戻ってくると、本堂の方から子どもの声が聞こえてきた。なんだろうと思って覗いてみると、十歳前後の子どもたちが十人ほど、席に座っていて、祭壇の前にはアランが立っていた。
「じゃあ、エドモント。次の一節を読んでみて」
エドモントと呼ばれた少年が席から立ち上がって、両手で本を持ち、はきはきとした声で朗読を始めた。
「主は仰られました。汝は民の光明となり、世界を覆う闇を払い給え、と。そして跪くヴィクトルに、法杖をお与えになりました。法杖は七色に光り……」
ふと、アランが入り口へ顔を向け、わたしと目が合った。
アランは朗読を終えたエドモントに「よくできました」と言って、本を閉じた。
「じゃあ少し休憩にしよう。三十分後から今度は算数をやります」
「はーい」と子どもたちは行儀よく挨拶すると、「よし、外で遊ぼうぜ」と言いながら駆け足で本堂から出ていった。
アランが近づいてきた。「マリエルのところの用事は済んだんですか?」
「ええ」わたしは古着の束を軽く持ち上げてみせた。
「村の皆さんはいい人ばかりです。困ったことがあればいつでも助けになってくれます」
「そうね」
ちょっとおせっかいが過ぎるんじゃないかしら? と思わなくもないが、赤の他人にもかかわらず、わたしのことを心配してくれて、素直に嬉しかった。
「それよりもアラン」わたしは、ステンドグラスも華美な装飾もない、質素な木造の建物を見渡した。「もしかして、子どもたちに勉強を教えていたの?」
「はい。司教様の方針で、子どもたちにも広く読み書きを教えよう、と。それで僕が彼らに教えているんです」
「大変ね」
「でも、案外楽しいです。子どもたちが成長していく姿を見ていると、こっちも頑張らないと、と思えてきます。それになにより司教様からアルバイト代が貰えますし」
普段塾講師のバイトで生活費を賄っているわたしは、ますます彼に親近感を持った。
「それでアラン。子どもたちには具体的に何を教えているの?」
わたしは祭壇に近づき、そこに置かれた数冊の本へ目を向けた。実はさっきからこれらが気になってしようがないのだ。異世界の本には一体何が書かれているのだろう!
「基本は聖典の読み書きが中心ですけど……」アランがわたしの視線に気づいたようで、本を一冊差し出してくれた。「これがさっき子どもたちが読んでいた教会の聖典の一つ、ヴィクトル伝。それ以外にも童話や歴史、地理も教材に使いますね。最近は村の人たちの要望で、算数も教え始めています」
わたしはヴィクトル伝を開いた。彼らの話し言葉と同じく、複数のヨーロッパ系言語の組み合わせで書かれているようだ。スマホの辞書を駆使すれば読めないこともないだろう。これらの本を理解できれば、この世界の知識を増やせるに違いない。
しかし、もっと手っ取り早い方法もある。
「どうかしましたかヒロミさん? 顔がニヤケてますけど。涎まで出して」
ハッと顔を上げて、素早く口元を拭き取った。知的好奇心を満たせる嬉しさが、思いっきり顔に出てしまったようだ。
「えっと、そ、そんなことより、アラン。一つ頼みがあるの?」
「なんでしょう?」
「わたしもこの教室に混ぜてもらっていい?」
「えっ?」アランは目を丸くした。「別にいいですけど、子どもに教えるごく基本的な内容ですよ」
「いいの、それで」
わたしにはこの世界の基本的な知識すらないのだから。
「……わかりました」アランは不審そうな視線をこちらへ向けつつも頷いた。「好きなところに座ってください。教材用の本はこちらでお貸しいたしますので」
「ありがとう」
早速、わたしはアランの話が一番よく聞けるよう、本堂の最前列、祭壇のすぐ前に腰掛けた。たちまち、アランが渋い顔を浮かべる。
「ヒロミさん、さすがにそこは勘弁してください。一応子どもたちに教えるのが主なので」
「あっ、ああ……、そうね」
泣く泣くわたしは一番後ろの席に移動した。休憩を終えた子どもたちが本堂へ戻ってきた。次々に珍品を見るような目を向けてくるが、この世界のことをもっとよく知りたい、と思うわたしは全く意に介さなかった。