死に至る啓示「命のコスパ」
短編「デストルドーに取り憑かれて」の続編ですが、単独でも読めます。鬱展開注意。
母は、現代医学では治療できない難病に冒されていた。
意志も感情も知能も五感も正常なのに、少しずつ体が動かなくなっていく。
病気について言葉で説明することは難しい。たとえば火に触れたとき。人並みに熱さも痛みも感じるのに、自力で手を引っ込めることができなくなる。そんな感じだ。
すでに母は呼吸器と下肢を冒されていた。
まだかろうじて動く手で字を書いた。「ざんこく」と。
最終的に、自力で動かせるのは眼球だけになると聞く。
母の闘病ライフ。父の放蕩ライフ。
一人で対処するには八方塞がりで、私は行政の窓口を訪れた。
「財産があると見なされると、生保は受けられないんですよ」
母は、「これ以上、わが子に負担をかけられない」と生活保護を受けることを望んだ。しかし、社会的なセーフティネットは救いになるどころか、私の苦悩を加速させた。
「たしかにね、お母さんの貯金額だけ見れば受給対象になるけど。生命保険に入ってるでしょ。ほら、これとこれ。こういうのも財産あつかいなんですよ」
窓口で話した相談員は、私をちらりと見ながら「あなた、お母さんの死亡保険の受取人になってるんだねー」と言った。
「すべて解約してください」
相談員のアドバイスは、保険をすべて解約して返戻金をもらうように、とのことだった。
それでなお、貯金が尽きたら「あらためて窓口へお越しください」
非難するような口調だった。
「あなた、お母さんの死亡保険の受取人になってるんだねー」
その通りだ。母の死亡保険の受取人は私だ。私がはじめて就職したとき、そういう保険契約を結んだ。
見栄っ張りな父は、昔から派手好きで、歳を取って落ち着くどころか放蕩生活はひどくなるばかりだった。持ち家を売って、マンションを売って、賃貸に移り住んだとき、私は父に忠告した。
「もううちには売れるものはないよ」
マンションを売却したとき、両親の老後の蓄えとして充分な金銭を得たはずなのに、いつの間にかなくなっていた。そして、父の口癖が始まった。
「お金貸して。1万でいいや」
いいやじゃねーよ。そもそもあのマンションは半分くらい私も払ってたんだぞ。貸してじゃねーわ、むしろ返せ。
私が無視していると、父は母の通帳を奪った。ついに両親は離婚した。
母の死亡保険の受取人は私だ。そして、私の死亡保険の受取人は母である。
お互いに合意の上でそういう契約にした。母と私、どちらかが死んだとき、生きている者が重い負担を負わないように。
時は刻一刻と過ぎていく。母の病状も刻々と進行し、体を蝕んでいく。カラダのことだけでも大変なのに、母はもうお金の心配なんかしなくていい。だけど、一人で対処するにはもう限界だった。
行政のアドバイスを報告すると、母は「何も遺してあげられない」と言って泣いた。
数日後、行政から私宛で封書が届いた。
少し期待して開封すると、「お父さんを援助してください。あなたには扶養義務があります」と書いてあった。煽ってくるなぁ。こんなの母には見せられない。
手詰まり感が高じて、私は生命保険の約款を読みふけった。
天啓は、人知を超越したところからあらわれると言う。
私ははじめ、母の病状が保険給付金の条件に当てはまるのではないかと考えていた。解約の手続きをすすめる前に、何か当てはまることはないのかと。
約款を読みふけっていると、意外なことに自殺でも死亡保険が給付されることを知った。保険の銘柄によって違うのかもしれない。だが、私が加入している生命保険では、確かに適応されていた。
私は天啓を受けたのかもしれない。
これまで、死んでしまいたい衝動があったとしても、実行しようと考えたことは一度もない。
私は生まれて初めて自死について真剣に考え始めた。私の死によって生じるメリットとデメリット、コストやリスクなど。社会的な迷惑を最小限に、確実に完遂できるように。
一般的に、自殺者は理性を失い感情的になっていると言われる。私はどうだろう。
意外と冷静で、憂鬱や迷いは感じられない。
父と母。そして私。
父にとって、私はATMなのだろう。行政までもが煽ってくる。義務だろうが、私はもう父に関わりたくなかった。
母とは喧嘩もしたしすれ違いもあった。だが、私の身に何かあったら、多少は悲しんでくれそうな唯一の肉親でもある。
母は、私が死んだら悲しむだろうか。否、たとえ悲しませたとしても、長年の経済不安を払拭したい気持ちの方が大きい。勝ち目のない難病と闘いながら、最期の時まで生活不安を抱えるのはあまりに忍びない。
それに、家族は私だけではない。
私は妹とそりが合わず、疎遠になって久しい。しかし、母と妹は昔から仲良しだ。
私はひねくれ者だから、母を看取ったあと、死亡保険の受取人を父か妹に名義変更したくなかった。
死亡保険とは命の値段であり、死の対価でもある。母と私はあまり親子らしくなかったが、機能不全家庭を支え合ったいわば同志であったから、母が存命中に渡すことができたら本望なのだ。
母の心残りは、「自分の死後、私が天涯孤独になること」だと言う。
ならば、私が先立ってしまえばその心配も無用になる。
私が考えていることを誰かに相談する訳にいかない。
だが、確実に完遂するには、多くの情報を知らなければならない。
知り得たことと現実に可能なことを照らし合わせていると、死を思いとどまらせるサイトを見かけた。
他人のために真剣に手段を講じているヒトがいることに救いを感じた。その一方で、書かれている一字一句が浅はかだとも感じた。
大多数の人間は、死から逃れようとし、生を望む。
ならば、生を逃れようとして、死を望むことは、いけないことだろうか。
苦しい死から逃れたいと望むこと。
苦しい生から逃れたいと望むこと。
死を望む者に、生を強要することは、死ぬより残酷な仕打ちにもなり得る。
私は「生きろ」とも「死ね」とも言わない。
けれど、あなたが死んだ時に、誰か一人でも悲しむ者がいるなら。悲しむ誰かが思い浮かぶなら、そのたった一人のために生きるのも悪くないと思う。
生と死を、肯定も否定もしない。
淡々と生き、淡々と死ぬ。どちらでも良かった。
ただ、私の場合、死に関するデメリットは少なく、メリットの方が確実に大きい。
約款を読みふけるうちに、デストルドーを押しとどめていたブロックが壊れたのだろうか。
私を生にとどめるアンカーがないことも一因かもしれなかった。